:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 「新求道共同体」 50周年記念祭典

2018-06-11 07:59:42 | ★ 新求道共同体

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「新求道共同体」 50周年 記念祭典

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私は4月20から約一か月間ローマにいたが、10年住み慣れた神学校の部屋を片付けて明け渡すことの他、スペインやフランスに旅したのは、いわば刺身のつまのようなもので、本命のマグロのトロに当たるのは、5月5日の大祝祭典だった。スペインで始まった新求道共同体の歩みは、1968年に初めて教皇様の教区、ローマに入ってから今年の5月でちょうど50年、半世紀を迎えた。

2008年の40周年の祝いは、ローマの共同体のメンバーを中心に、バチカンの聖ペトロ大聖堂を満員にして、教皇ベネディクト16世の隣席のもと、盛大に祝われたのだったが、この50周年は全世界の120余りの国々から、ローマ警察の発表では20万人の共同体のメンバーが集まり、ローマ郊外の草原に教皇フランシスコと世界中の枢機卿・司教ら多数と共に盛大に祝われた。

数日前からの天気予報では、この日雷を伴う荒れた天気が予想されていたが、幸い夕方まで一滴の雨も降らず晴れ間さえも覗いた。

この日、私のためには、1枚の特別席のチケットが用意されていた。会場正面の大ステージの上の席だった。

赤いカーペットで覆われた正面の巨大なステージの上から見ていると、開会2時間半以上前から、世界からこの日を目指してやってきた共同体の兄弟姉妹がそれぞれの国の旗を掲げてステージにより近い場所をめざして続々と集まってきた。20万人と言えば単純にバスに換算して約4000台に相当する。バスの駐車場だけでも広大な土地がいる。自家用車ならなおさらのことだ。 

巨大なバックスクリーンはキコの壁画を拡大して布に印刷したものだ。私の席の目の下には、右に降りていくスロープがあり、スロープの向こうの小集団はキコのオーケストラの一部の演奏家たちだ。

前列のバイオリンの女性の横顔がちらりと見えた。アッ、彼女は第一バイオリンのコンサートマスターではないか。2016年東京のサントリーホールのコンサートでは、あす生まれてもおかしくないほどのポンポンのお腹で堂々とコンサートマスターを勤めていたが、その時の縁で結婚式の花嫁の証人を頼まれてその次日本に来た時にはペッタンコのお腹で、エレガントなドレス姿は見とれるほどのスタイルだった。 

その彼女が目の前で立ち上がった。エーッ!また膨らんでいる???キコの薫陶をうけた共同体の女性たちは避妊をしない。何人目だろう?

ちなみに、今朝、夜中の3時ごろ、何かの虫の知らせか目が覚めた。寝付けぬままにパソコンを立ち上げると、一件のメールが目に止まった。6月10日22:00、ベルリンフィルのコンサートホールで、キコのシンフォニー「罪のない人々の苦しみ」が演奏され、それが YouTube のライブ中継で世界中で見られると書いてあって、URLが添えられていた。時計を見たら今まさに始まろうとしていた。親切な天使が起こしてくれたのだと納得した。ベルリンフィルの晴れの舞台で、彼女は颯爽とコンサートマスターの役を演じていた。5月5日で上のお腹だった。6月10日の舞台の上ではサントリーホールの時と同じで、また、突き出したお腹ははち切れんばかりだった。 

式典開始の時間が近づくにつれ緑の草原は人であふれ始めた。遠くの人は胡麻粒のようだ。彼らから見れば、わたしも壇の上のゴマ粒に見えているのだろう。かれらは、教皇やキコの姿を何台か設置された巨大スクリーンで見ることになる。

左右に2台のテレビカメラが人の頭の上の中空に陣取っている。

ズームを引っ張って遠く会衆の最後部を引き寄せて見ると、裸眼では青い一本の線にしか見えなかったものは、会場を取り巻く万里の長城のような簡易トイレの列であることが分かった。20万人分のトイレとはこういうものかと感心した。絶えず人が出入りしている。

どちらを眺めても人、人、人、・・・

どこの国だかわからない旗がいっぱい翻っている。

私の位置からは群衆の半分しか見えないが、見渡す限り人で埋め尽くされた。これだけの群衆が平和的に一堂に会する機会は、現代世界でも極めてまれなケースではないだろうか。少なくとも、ローマにおけるカトリック教会の中のイヴェントとしては、ヨハネ・パウロ二世教皇の列聖式以来だろう。

頭上には、さっきから入れ替わり立ち代わり、ヘリコプターが2-3機低く旋回しているが、よく見るとパイロットの顔が見える。教皇の到着を待っているのだろうか。

少数ながら、礼服に身を包んだ男女の憲兵もちらほら。出番を待っている。いつ見ても恰好よく絵になっている。

定刻に遠くの方で歓声が上がった。パパモビレに乗ったフランシスコ教皇の到着だ。聖ヨハネパウロ2世はヘリを使うことが多かったが、清貧をモットーにするフランシスコはご自慢の中古のフォードか何かで地上を走ってここまできたのだろう。

聖教皇ヨハネパウロ2世は二発の凶弾を腹部に受けて絶対に死ぬべき状態から奇跡的に生還したが、ベネディクト16世はファチマの予言にある教皇暗殺を恐れてか、群衆から極力距離を置いているように見受けられた。しかし、フランシスコは全く無頓着、無防備に群衆と接触する。

壇の下でパパモビレを降りた教皇は、私の目の前のスロープを上がってきた。

人々の視線を意識しているときのフランシスコ教皇は、俳優のように若々しく表情豊かだ。しかし、彼が周りの視線を感じていない時、また一人祈るとき、全く別の顔の疲れたお爺ちゃんであることも私は知っている。

だからと言って彼の笑顔が作り笑いだとも思わない。

何はともあれ、今日の主役はやはりキコだろう。

壇の上には10人余りの枢機卿と、100人ほどの司教たちが参列している。手を口にやっているのが、昨年9月日本にやってきた福音宣教省の長官、フィローニ枢機卿。かれは日本の新しい福音宣教に力を入れている。その手法は、もっぱら新し司教人事を通して教会を変えると言うものだ。

前の二人は左が元典礼省長官のリルコ枢機卿、右の白髭はアメリカはボストンの大司教のオマリー枢機卿。

柔和に微笑んでいるのはヨーロッパからの教皇候補として現フランシスコと教皇の座を争ったウイーンの大司教シェーンボルン枢機卿。その右のアリエタ大司教はバチカンの法務関係の要職にある。

韓国のソウルの大司教は今や韓国の教会を代表する枢機卿にあげられた。巷には彼が新求道共同体の神学校を誘致した功績が認められた印だという声がある。そういえば、新しい大阪の前田大司教が最近枢機卿にあげられたのも、教区内で新求道共同体を公認し受け入れたたことと関係があるという声をローマで聞いた。また、戦後初の外国人司教として沖縄司教に選ばれたアメリカ人も、大阪の補佐司教になった二人も、新求道共同体との関係がいい人達ばかりだ。語らずして教皇フランシスコの意向とそれに沿ったフィローニ枢機卿の人選が、教会の向かっている新しい方向性を指し示している。世界から教会の要人を集めたこの祝いの席に、日本の教会の代表者が一人もいないのは実に寂しい。

海外旅行が生活の一部になっている日本の庶民と違って、中南米やアフリカからここに集う共同体のメンバーは、一生一大のローマ詣での旅費を工面するのに全生活をかけているのだ。

旗、旗、旗、熱狂は頂点へと向かっている。

歓呼する新求道共同体のメンバーたちにメッセージを贈るフランシスコ教皇

教皇のメッセージの全訳は、長くなるのでこの次のブログに譲ることにしよう

この日教皇は、共同体の道の歩みを終えたローマの共同体のうち、準備の出来た25の共同体を、慣れ親しんだ自分たちの教会を出て、まだ教会の無いローマの周辺地区の移民や外国人労働者の貧しい人たちの住む地域に共同体ぐるみ宣教に送り出した。その共同体の責任者の司祭達に銀の十字架を渡して、派遣式を行される教皇。

上は、十字架と祝福を貰うために並んで跪いた司祭たち。

また、この日教皇は新たに35組の異邦人のための宣教団を全世界に向けて送り出した。子沢山の4組の家族に一人の司祭と数名の独身男女を加えたチームを宣教地のまだ教会の無い土地にパラシュートダウンさせて、そこに新しい共同体と教会を建設する橋頭保とするためだ。

警察や救急隊、教皇のシークレットサービスの他に、多数のボランティア―がこの大集会の成功を支えた。

長いアームの先のテレビカメラが大集会の模様をリアルタイムで全世界に中継した。

40周年はバチカンの聖ペトロ大聖堂でベネディクト16世と共に祝った。この日の50周年は野外の草原で20万人を集めてフランシスコ教皇と共により盛大に祝われた。

60周年には、もはやキコも私もこの世には居ないかもしれない。しかし、フランシスコの次の教皇のもとで、次の世代の共同体のメンバーたちと、もっともっと盛大に祝われることを信じていたいと思う。

(つづく)

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1 コメント

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神父様の著書 (新米信徒)
2021-11-16 22:02:12
神父様 

「バンカー、そして神父―放蕩息子の帰還」を昨日手にしました。 神父様と本田哲郎神父様とのかかわりについて、本田神父様の誠意ある配慮を知りました。また、森司教様の助言も大変大きかったことも。この本を読むことには、大変時間がかかると思いますが、本を読んでいこうと思います。「高慢と偏見」という小説がありますが、高慢も偏見も人の精神をだめにするように思います。どこに書いてよいかわからなかったので、ここに書きました。
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