~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ヘルマン・ホイヴェルス師の 第45回 追悼ミサ
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
来たる6月9日(木)、ホイヴェルス師の没後 第45回目 の節目の追悼ミサが行われます。一人の宣教師の没後、追悼ミサが毎年行われ、45回も続いてなお人が集うという話は、日本の教会では前代未聞の特筆すべきことではないでしょうか。
ホイヴェルス師は、日本人と日本の文化を深く愛された司祭、そして、多くの日本人から愛された司祭でした。
このホイヴェルス神父をひとことで言えば、「現代日本に生きた偉大な宣教師」と言うことが出来るでしょう。
ホイヴェルス師は、16世紀、日本に初めてキリスト教を伝えた聖フランシスコ・ザビエルと同じイエズス会の会員で、ドイツのウエストファーレン出身。師が日本に来て40数年ぶりに故郷のドライエルヴァルデ(訳せば「三ツ森村」)の生家に帰られた時、私は師の少年時代の勉強部屋で師と二人だけで師の姪のタンテ・アンナの手料理をいただきながら、歌舞伎「ガラシャ夫人」のドイツ公演の計画や日本の宣教について語り合いました。
師は1923年9月1日の関東大震災の1週間前にキリスト教の宣教のために日本に来られました。
上智大学の2代目学長になり、第2次世界大戦のときは軍部の圧力で学長を退くと、四谷の聖イグナチオ教会を開いて初代主任司祭を長く務め、その後も名誉主任司祭として1977年6月9日に帰天するまで、愛する日本人への宣教のために生涯をささげられました。
宣教とは何か。それは、天地万物の創造主の神が存在すること、その神が長い進化の歴史の頂点に理性と自由意思を備えた人格を持つ人間を創造し、死後その人間は深い眠りに就くが、世の終わりの日には神の子キリストの十字架上の死からの復活の力によって、罪の贖いとからだの復活と永遠の命を人類に与え、終わりなく神の愛の中に憩うよう定められていると言う「よい知らせ」をすべての人に伝えることです。
師は宣教を通じて実に多くの日本人にキリスト教の真理を伝え、信仰へと導きました。
ほんの一例をあげれば、田中耕太郎最高裁判所長官や、優秀な哲学者、科学者の大学教授らを育てる傍ら、多くの子供たちや無名の信者たちからも愛され慕われました。哲学者、詩人であり、劇作家であって、名女形歌右衛門を主役に細川ガラシャ夫人を歌舞伎座で一か月公演したり、宝生流の舞台で春ごとに復活のキリスト能を奉納したり、今のお金で数億円をかけて「日本二十六聖人」の映画を当時の松竹トップの俳優を動員して制作したり、国からは外国人が受けられる最高の勲章を与えられたりしました。それでいて、常に謙遜に子共たちや無名の貧しい人たちの友でありつづけ、一言で言えば、全ての人にすべてとなることができる方でした。
わたしが最近のブログでホイヴェルス師の初期のエッセイを、今は絶版の「時間の流れに」から何篇か取って紹介したのは、生前の師の姿に接したことのない世代にも、師の面影と魅力を伝え、師について学び、その魂を受け継ぎ、師の生涯の使命であった福音宣教の情熱を分かち合いたいと思ったからです。
話は飛躍しますが、アメリカの大富豪、スペースXでは宇宙開発をし、ツイッター社の買収話でも世を驚かせたイーロン・マスク氏は「日本消滅」というショッキングな予言をしました。それは日本の急激な人口減少に因んだものでしたが、その意味では、「日本の教会消滅」の危機はそれ以上の勢いで差し迫っていて、今日ほど福音宣教が喫緊の課題になった時代はかつてありません。
コロナウイルスの蔓延を受けて、国が最初の緊急事態宣言を発出するや、全国のカトリック教会は過剰なまでに反応しました。
重症化のリスクの高い高齢者は日曜のミサに参加しないように求められたり、信徒を4班にわけて、各日曜日一つの班だけがミサに招かれ、結果的に月に一度しか教会に行くことが許されなかったりで、要は、なるべく教会にいかないことが良いこととして勧められる結果となりました。数年にわたって教会にいかないことに馴れしまった信者たちは、コロナが下火になって社会に日常の活気が戻っても、海外旅行や娯楽やスポーツと同じように教会にも以前と同じ熱心さで人々が戻ってくるかは疑わしい。ひとたび楽な生き方に慣れてしまうと、人はなかなか負荷の高い元の生活には戻ろうとしないものです。
もともと宣教に無関心であった教会に、コロナを機に信者が怠惰な方に流れたまま戻って来なければ、日本の「教会消滅」は一気に加速するばかりです。だから、今こそ心を引きしめて踏ん張るべきときでではないですか。
それなのに、日本の教会では、司教団として、又は、どこかの司教区レベルで、あるいは、修道会の緊急のスローガンとして、さらにある奇特な主任司祭のイニシャティブとして、現在の教会の最優先課題として「宣教」を高く掲げる姿が見えてこないのはどうしたことでしょう。
もし、誰も声をあげず、立って先頭を歩もうとしないのであれば、不肖の私が、ホイヴェルス神父様の生前のお姿を知る最後の世代の一人として、この記念すべき 第45回 の追悼ミサを機会として、新しい「宣教」の開始 を宣言したいと思います。
一種のインスピレーションとして、ホイヴェルス神父様の声として、師の生前の姿に接したことのない世代にも、師の宣教の熱意を受け渡し、福音宣教の火を新たに燃え上がらせる運動を始めることの必要性を強く感じます。神様のお望みに応えるために、師の記念日に集い、ともに祈り、互いに自分たちの召命を語り合い、神様の愛を証しする使命のために立ち上がりたいものです。どうすればいいかは、集まって祈れば上から示されるでしょう。初めは小さな火であっても、ともに神様を賛美しながら、やがて大きく燃え広がっていきましょう。
そもそも「宣教」とは何か。「宣教」を具体的にどう実践すればいいか。各自が自分の持ち場でなにをすることが出来るかなど、具体的に研究し、学んでいきましょう。
このブログを読まれた方の中には、おなじ危機感を抱きながら孤立して動けなかった方も多いのではないでしょうか。連帯と継続は力です。この思いに共感される方は、繋がりを求めて多数お集まり下さい。お待ち申し上げます。
ホイヴェルス師の 第45回 追悼ミサと懇親会
日 時: 2022年6月9日(木) 午後3時から5時半ごろまで (ミサと懇親会)
場 所: JR四谷駅 麹町口1分 主婦会館プラザエフ (部屋は当日入り口に表示)
参加希望者はこのブログのコメント欄 (右下のわたしの名前のさらに下の細い目立たない コメント をクリックして開く)に
- お名前
- ご住所とe-mailアドレス
- 追悼ミサ参加します
とお書きください。プライバシーは護られます。コロナ対策に万全を期し、ゆとりのある広さの部屋を確保するために、あらかじめ参加希望者のおよその数を把握したいと思います。
谷口幸紀神父
ブログは時の流れの中を絶えず流れ下って行きますので、2か月前のブログにいま新しく一つのコメントが加わっても、それに気付いて読む人は稀です。
それで、あなたに一応お断りしたうえでここにコピーして乗せたいと思います。
「2022/05/21 06:59:08 mie
2か月も前ですが
こちらのブログを知ったのは最近で、「バンカー、そして神父―放蕩息子の帰還」を購入し読ませて頂き、非常に面白かったです。後でアマゾンレビューも書く予定です。1980年代末に故志村神父様の本でファティマを知り、教会では決して教えてくれない神様やマリア様からの様々なメッセージがあることを知り、積極的に本を読むようになりました。神様からのメッセージ(もちろん慎重に)や聖人から積極的に学んでますが、そういう人は教会の信者内でも浮きます。話題にして良い相手なのか、いつも気にしてしまいます。今回の「ロシアの奉献の祈り」は、tligの方から教えてもらいました。ファティマの預言から100年以上も経ってやっと実現するのに、あまりに直前に発表されましたので、知るチャンスもない人が多いのでは?と思い、何人かに連絡したりしました。日本では大阪の司教様がyoutubeでお祈りを公開してくださいました(日本時間の25日)。さらに、リアルタイムでバチカンの祈り(午前2時半位)にも参加しましたが、世界中で数多くの教会が同時間にお祈りをライブ配信してましたのに、日本からは無かったのが、とても残念に思いました。事前に東京カテドラル他いくつかの教会に電話して聞いてみましたが、受付レベルでは、そもそも知らない様子でした。司教様がお祈りする気があっても教会ではできない雰囲気なのかな?という感じを受けてしまいました。ふと、カトリック教会がイエス様の時代のパリサイ人みたいになってるような気がしてしまいました。ちなみに、先ほど「司祭・谷口幸紀の「わが道」」も注文しました。神父様の包み隠しのない人間味ある内容、ビジネスの話や世俗の内容も非常に面白く、気持ちは何というか始終ソワソワした不思議な気持ちでしたが、結果的にとても神様に思いが向きました。識別してみると、本当に読んで良かったと思いました。ただ、本はブログより無難に書かれてるなと思いました。マンモンと一言でのみ書かれてますが、もっと具体的な組織とかもあるのでは?と思いましたので。オフ会があったら参加したいです。」
mie さん。コメント有難うございました。最後のひとこと「オフ会」が心にとまりました。
思い返せば10年以上前に一度だけオフ会を開いた記憶があります。そのご、余裕がなくて継続できませんでした。しかし、今ならまたできるかな?という思いが湧いてきました。
6月9日のホイヴェルス神父様の第45回追悼ミサまではいろいろ忙しくしていますが、それが済んだら、考えてみたいと思います。
それと、mie さんの年齢やお仕事を知りませんので無理かもしれませんが、もし可能でしたら、6月9日3時から四谷でのミサにおいでになりませんか?オフ会のはなしもするかもしれません。詳しくは最近のブログで見て下さい。来られる場合はこのブログのコメント欄に出席の旨お知らせください。
谷口幸紀拝
「教会の祈り」復活節 第 5 土曜日の「結びの祈願」の最後に「・・・わたしたちを、神の国の完成に導いてください」とあります。神の国の完成に導く、という日本語がよくわかりません。ラテン語の規範版をみると、神の国の完成は、"plenitúdinem glóriæ" のように感じます。素直に考えると、イエス様の福音がこの地のすべての人へ宣べ伝えられ、裁きについてはよくわかりませんが、すべての者が全能なる神様を讃え、神様の栄光につつまれた国(例えば、黙示録の第 21 章や第 22 章にあるような)のように感じます。今のわたしには、ローマ書の第 10 章も大切なことばです。
日本 FEBC は、がんばっているようですが、維持会員が減ってきているようです。わたしのことを振り返ると、一般の人へ向けた聖書を(素直に)通読する会のようなものも大切な気がします。聖職者の方の簡単な話があればよいと思います。わたしはプロテスタント教会の英会話の教室で聖書に出会いました。初めは聖書に反発する気持ちがありましたが、聖書のことばは残りました。聖書を一人で読み始めることはしんどいと思います。
徳の高い聖書学者に導かれながらの勉強会はなかなか機会に恵まれません。司祭のミサの中での短いお説教(ホミリア)はその日の聖書朗読個所のみことばをちょっとだけ掘り下げて分かりやすくかみ砕くのが正攻法ですが、それにも限界があります。
いきおい一人で読むと言うことになります。通読もよし、天を仰いで手でパッと開いて指が落ちたところから数行,半ページほど読み進んで、それを今日神様が下さったみことばと思って黙想するのも悪くないですね。みことば(聖書)は向こうから語りかけてくるもので、それをいただけば十分ではないでしょうか。研究熱心のあまり詮索を深めることには危険もともないかねません。
貴重な記事を載せて下さり心から感謝しています。また、更に読みたいと希望しているうちにイエズス会三木図書館の存在を知り、5冊程借りることが出来ました。
ホイヴェルス神父様の追悼ミサに参加したいですが、遠方ですので、心合わせてお祈りしたいと思います。ホイヴェルス神父様のお話が日本人に伝わりやすい気がしています。多くの日本の方々が
そのお話に触れることが出来ますように、お祈りいたします。谷口神父様、どうもありがとうございました。
返信をありがとうございます。
知識が少し増えてくると、気をつけないといけないと思います。初めて聖書を読み始めたときは、何も知らなかったので、そのことがかえってよかったと感じます。反発や信じることができないということは感じましたが、聖書を文字通り読みました。
キリスト教のことをほとんど知らない人へイエス様のことを伝えることで私が他に思いつことは、「こじか」を手にとってもらうことです。私がカトリック教会のミサへ行ってみようと思ったきっかけは、出張先で、夜に道を歩いているときに偶然カトリック教会と出会ったことです。少し勇気がいりましたが、建物の中に入りました。聖堂は閉まっていましたが、入り口の近くにいろいろな冊子がおいてあり、持って帰ってホテルで読みました。しっかりしたことが書いてあると感じました。「聖書と典礼」や「こじか」もありました。それ以前に、FEBC で何人かの神父様の話を聴いていたことも大きいですが、そこにある教会と適当な時に出会ったことは大きかったと思います。街中にある教会は「こじか」を入口の近くに適当な部数を置いたらよいのではないかと思います。京都の河原町教会には「こじか」のバックナンバーが置いてあり、よく持って帰って読みました。比較的最近、一年間ほど「こじか」を購読しました。いろいろと教えられます。