:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ ある日のお説教

2023-10-28 00:00:01 | 説教

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ある日のお説教

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 森一弘司教の葬儀が9月5日で、その日に書いたブログを最後に、気が付いたらもう一か月半以上も更新をさぼってしまいました。

 別に森さんが死んでブログを書く気力が失せたわけではありません。たまたま何かと身辺忙しく、また、特にこれという材料も見つけなかっただけのことでした。

 そんな時は、たまに自分の説教について書くのも手かと、ふと思います。

 私は、普段は週に2度説教をします。火曜日の夜は「みことばの祭儀」と称して聖書を学ぶときに。また、主日の感謝の祭儀は土曜日の夜たっぷり時間をかけて祝います。そして、ミサの時の説教は、ほとんどがその日の聖書朗読個所の言葉、特に福音を「噛み砕く」ことに終始します。

 とは言っても、私の場合、福音朗読の後すぐ説教に入るのではありません。いつも祭壇をコの字形に2列に囲んで座っている会衆の中の子供たちに感想を聞くことから始めます。

 私の晩のミサの参加者を仮に約40人としますと、そのうち大人は例えば22~3人、子供が15~6人、乳母車の中に1~2人の乳幼児がいて、さらに若いお母さんのおなかの中にの胎児がいたりします。普通の小教区とは真反対で、恐ろしく平均年齢の若い会衆です。時々赤ん坊がぐずると、若いお母さんが急いで部屋の外へ連れ出したり…賑やかなミサです。

「さあ、こどもたち。今日の3つのみことばを聞いて、何か心に残った言葉やわからなかったことがありましたか?」と水を向けると、小学生から中学生の子供たちが、手を挙げてマイクをもらって話し始めます。中にはとっても大事な点に触れる賢い子供もいて大人顔負けの場面もあります。 

 子供たちの後で、大人たちも3~4人、自分の日々の体験に重ねて、聖書のみことばが語りかけてくれた内容を分かち合います。

 司祭はそれらの声を受け止め、まず子供や大人の分かち合いに反応する形で語り始めます。それがあらかじめ準備した説教にうまくつながる日もあれば、準備した話はそっちのけになって、思いがけない方向に展開する日もあります。

 このひと月半の間のどの日の説教だったか忘れましたが、マルコの福音の「最も重要な掟」の個所が朗読されました。:

 そのとき彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」

イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。(マルコ12.28-34)

 この「最も重要な掟」というテーマについては、マルコの他にマタイとルカの福音書にも類似の記述がありますが、少しずつニュアンスが違います。

マタイでは:

 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」

イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22.34-40)

 私は、イエスが「最も重要な掟は何か」と問いかけられ、直ちに「第一はこれこれ、第二はこれこれ」とすらすらお答えになったのを読んで、好奇心から、この「一対の最も重要な掟」は旧約聖書のどの個所に起源をもつものかをしらべようとしました。しかし、私の力の及ぶ範囲では、旧約聖書のどこを探しても、この第一の掟と第二の掟をセットにして「最も重要な掟」として明快に記している個所は見つかりませんでした。

確かに、「神を愛しなさい」は、申命記に:

「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6.4-5)とポツンと独立した形で記されています。

 それに対して、イエスが最も重要な第二の掟とする「隣人を自分のように愛しなさい。」は、レビ記のなかに「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」(レビ記19.18)という形で現われます。

 しかし、これら二つの「掟」は旧約聖書の中では全く別の書物の中に、別々に孤立して埋もれていて、二つの間にはになんの脈絡もないように見受けられます。そこで私は、これら二つの全く関係のなかった言葉を聖書の中から発掘して、「最も重要なひと組の掟」として結合させたのは、神の子ナザレのイエスのオリジナリティーではないかと直感しました。

 ところが、すぐに問題があることに気が付きました。それは、ルカの福音書にあるイエスの別の有名な「よきサマリア人」のたとえ話を読んだ時です。

それにはこう書いてあります:

 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」

律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカ10.25-37)

 これによると、イエスから薫陶を受けた弟子ではなく、むしろイエスを試し、陥れ告発する糸口をつかもうと狙っている敵対者が、イエスの前ですらすらと複雑多岐にわたる膨大な律法の中から、第一と第二の最も重要な掟を二つ一組にして答えたところを見ると、それは学識のあるユダヤ人の間ではよく知られていたことなのだろうかとも思えてきて、イエスのオリジナリティーではないかと考えた私の直感と期待はシャボン玉のように消えてしまいそうになりました。

 私はローマのグレゴリアーナ大学で神学を学んだ時、「教会法」でもなく、「聖書学」でもなく、「倫理神学」でもなく、「教義神学」を専攻しました。ですから、私は聖書については一般の信者さんと同レベルの素人の一人にしかすぎません。

 しかし、虫好きの昆虫少年が自分の図鑑に見当たらない不思議な虫を見つけた時は、もしかして新種を発見したのではないかと胸を躍らせながら専門の先生に調べてもらうことがあるでしょう。私もルカの福音の記述があるからと言って「最も重要な第一と第二の掟のセット」はイエスの独創性に由来するのでは、という考えをあっさりと放棄する気になれず、かえって何かトリックが隠されてはいないだろうかと、必死に知恵を絞ります。

 鍵は、どうやら「律法の専門家が、イエスを試そうとして『先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。』」と尋ねたというマタイの表現に隠れているような気がします。そもそも、もし、律法が複雑多岐にわたって、何が重要で何が重要でないかわけがわからなくなってみんな混乱しているという社会状況がなかったら、「イエスを試そうとして」わざわざあの「難問?」をぶつけたりしたでしょうか。イエスを陥れようとしてあの質問をした本人も、世の律法学者たちも、何が最も重要な掟か誰にも分からなくなっていたからこそ、イエスに「お前も答えられないだろう。どうだ、さあ、答えてみろ」と迫ったのではなかったでしょうか。

 マタイとマルコではイエス自身の口から出たその答えを、ルカは質問者自身にすらすらと答えさせているのは、ルカの場合の律法学者の本当の関心事が「重要な掟」の答えにあるのではなく、その後に続くもっと意地悪な罠、つまり、「イエスよ、お前は第二に重要な掟は『隣人を自分のように愛しなさい』だと言うが、『では、わたしの隣人とはだれですか』、さあ、答えてみろ、答えられないだろう」、と言う点をハイライトしたかったからではないでしょうか。

 イエスはその律法学者の魂胆を見抜いて、隣人とは「隣近所に住む人のことだ」とか、「同じユダヤ人のことだ」とか、広く「同胞」のことだ、とか、何と答えてもさらに際限なく上げ足を取られることを知って、あの有名な「よきサマリア人」のたとえ話をされたのに違いありません。

 よく読んでみると、そもそもイエスは「私の隣人は誰ですか」という問いに対して、全く何も答えていないのです。ただ、「強盗になぶりものにされた旅人を助けたサマリア人のように、お前もその傷ついた人の隣人になりなさい」と命じられたに過ぎません。

 こうして、イエスは律法学者の仕掛けた悪意に満ちた罠をするりとすり抜けて、相手を黙らせたのです。

 この手法は、実はイエスの常套手段で、イエスはしばしば悪意の質問者の問いに、その質問が期待する答えは与えず、全く意外な方向に話の出口をもっていって窮地を逃れるのです。「皇帝に税金を納めるのは正しいか」の場合や、「姦通の現場を押さえられた女」の処遇をめぐってなど、その例は枚挙にいとまがありません。

 因みに、サマリア人は当時のユダヤ人からは、律法を守らない卑しい劣等人種として軽蔑されていた人たちです。

 ルカが「最も重要な掟」の答えを、イエスにではなく、質問者自身に言わせたのは、ルカの関心が二番目の質問、即ち「では、私の隣人はだれですか」にあることを強調するために敢えて話をマタイやマルコと違う形に組み立て直したのだとすれば、謎は氷解します。

 私はこの説教の最後に、「共同体の皆さん。あなたたちは実に立派です。共同体の兄弟・姉妹の間では本当に深く互いに愛し合い、よい隣人として生きています。」とひとまずは持ち上げておいて、「しかし、あなたたちはよきサマリア人だとはお世辞にも言えません。まだまだ回心が足りません!」と結びます。

 だから、その夜もまた、共同体のメンバーは私の説教のために、何となく釈然としない気分で家路につくことになるのでした。

 さて、カトリックとプロテスタントの聖書学者の皆様にお願いします。

 「あらゆる掟のうちで最も重要なのは、第一は『あなたの神である主を愛しなさい。』で、第二の掟は、『隣人を自分のように愛しなさい』」だ、ということを最初にセットにして言ったのは誰か、新・旧約聖書のどの個所にまで遡ることができるのかを調べて、正しく教えてください。私は聖書のど素人ですから。

一連の写真は私の散歩道のスナップ 今日は 6292 歩歩きました

(おわり)

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6 コメント

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訂正いたします (新米信徒)
2024-04-20 08:41:11
谷口神父様 

わたし(新米信徒)が書いた上のコメントの次の箇所を訂正いたします。すみませんでした。

J・アブリ神父様の本からの引用の後
誤:・・・等が引用されています。
正:・・・等が挙げられています。

最後から二番目の文節  
誤:・・・、「手」、「霊」、「魂」が省略されたり他の言葉にかえて訳されているのと同様に、・・・
正:・・・、「手」、「霊」、「魂」が省略されたり他の言葉にかえて訳されている場合と同様に、・・・
返信する
Mc 12:28-37 と Ps 110 (新米信徒)
2024-04-19 22:54:12
谷口神父様

この記事に、神父様が異動される半年程前の教会の様子があることを改めて知りました。当時は他の記事と併せてうすうす想像していました。先日の記事にも若い母親と思われる方が写真に写っていました。

「正教会の暦で読む 毎日の福音 府主教 イラリオン・アルフェエフ [著] 修道司祭 ニコライ 小野成信 [訳] 教友社(2021)」 の、「第一の戒命は?」(第 33 週間の水曜日、マルコ 12 章 28-37 節)、に、
「・・・。これら二つの戒命の関連について、イイススと旧約の律法の間の関係のコンテキスト(文脈)で金口(きんこう)イオアン [ヨハネス・クリュソストモス] は次のように書いています。『・・・。さて、もし神を愛し、隣人を愛していて・・・隣人への愛が戒命の遵守をその果実としているとすれば『この二つにまさる掟はほかにない』というのはまさに真実だ。・・・第一の戒命について質問されながら、第二と呼ばれておきながら、第一のものとほぼ同様に重要な第二の戒命をも
引用し、・・・このようにして、救世主は、自らが律法と預言者に従っていることを証明なさったのだ。』・・・。聖詠の中で既に『主』という呼称は、神と、約束されたメシアを指しています。イイススの話の中で『主』という呼称は、それを持つ者の神性を指すものとして理解され、イイススによって自身に対して適用されているのです。」 cf. pp. 27-28.  ここで、聖詠は、詩編 110 のことです(続く、Mc 12:35-37 で、Ps 110 の冒頭が引用されています)。「時課の典礼」において詩編 110 が特別な詩編であることは以前から感じていましたが、今もって新約聖書とのつながりはあまり実感することができていません。

「聖書の讃美歌 詩編とその解説(II)J・アブリ(神父様) [著] エンデルレ書店 (1967)」の第一〇九編(第一一〇)の解説には、「・・・。初めのことば『主はのたまえり』は、預言者の初めのことば『神のみことば云々』という言いかたと同じである。・・・。メシアはわれわれの世界に神の世界を代理して来られるものである。ゆえにこの詩編は、新約でも一番多く引用されている。・・・。のちには使徒たちもこの詩編を引用して、イエズスが救い主であること、復活して天国の光栄のうちに、おん父の右にあることを示した。・・・」この後に、Act 2:33 or below、Heb 1:13, Rom 8:34, 1 Cor 15:25, Eph 1:20, Col 3:1 等が引用されています。この「毎日の福音」を読むと、繰り返し、イエス様が自身の神性や権威を完璧な形で相手に顕していることが強く伝わってきます。ただし、著者は、毎日の朗読箇所から論理を駆使して明確な結論を引き出そうとしている
ようには感じられません。「訳者あとがき」に、「・・・。正教会の信者の方々にとって本書は、教会歴にしたがって毎日福音書を読み進めて、その内容をさらに深く理解し、日々ご自身の信仰生活を見直す際の道しるべとなることでしょう。カトリックやプロテスタントの信者である方々にとっても、本書が聖書の内容について新しい視点を得、何かを発見するきっかけとなれば幸いです。・・・」とあります。cf. p. 558. 「信仰生活を見直す」、「新しい視点を得、何かを発見する」 とあり、理屈や結論の提示から聖書に関する何らかの知識を得ることとは異なり、自由意志をともなって聖なる伝承に基づく何かを少しずつ受け取っていく(掴もうとすることにあらず)ことにつながるように書かれていること
を感じます。

(日本のカトリック)「教会の祈り」や「典礼聖歌」の詩編 110 は、「神は わたしの主に仰せになる。・・・」と訳されているので、旧約聖書と新約聖書のつながりが分かり難くなっているように感じます。「教会の祈り」において「主」ではなく「神」と訳される場合にも、「手」、「霊」、「魂」が省略されたり他の言葉にかえて訳されているのと同様に、何らかの規則(神学?)が働いているのかもしれないと感じます。以前から多くの箇所で確認しています。

異動されて間もない中、また長文をすみません。
返信する
Mt 22:35-46 (新米信徒)
2023-12-27 20:13:17
谷口神父様 

「正教会の暦で読む 毎日の福音 府主教 イラリオン・アルフェエフ [著] 修道司祭ニコライ 小野成信 [訳]  教友社 (2021)」、の、最重要な戒命(五旬祭後第 15 主日、マトフェイ 22 章 35-46 節)、に次のことばがあります。cf. pp. 351-352. (聖書のことばは、新共同訳聖書(1987) から引用されています)

「この箇所で戒命は『聞け、イスラエルよ。我らの神、主は
唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』(申 6・ 4-5)と記されています。些細な違いこそあるものの(おそらくイイススの言葉をアラム語からギリシャ語に訳したために発生したものでしょう)まさにこのバージョンで、イイススは一つめの最重要な戒命をあげています。
 二つめの戒命、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ 19・ 18)は、レワィト記から引用されています。オリジナルの旧約聖書テキストでは、隣人とはすなわち
同族、イスラエル民族の誰かを指していました。イイススは自身の教えの中で『隣人』の概念を広げて、人類の誰かに関するものとして用いています。
 旧約聖書においてこれら二つの戒命は、互いに関係するものではありません。反対にイイススの言葉においては、これらは緊密に関係していす。・・・。
 律法学者は、聖書のテキストを用いて、イイススの言葉の揚げ足を取ろうとしていました。イイススも聖書を引用して質問をし、その質問によって自身の神性を証明しています。・・・」

このことばは、神父様がこの記事に書かれたことに近いように感じます。"Liturgia Horarum" では第一土曜日の朝に詩編 117 を唱えますが、「教会の祈り」を唱え始めた頃には、この短い詩編の大切さがよくわかりませんでした。「聖書の讃美歌 詩編とその解説(II)J・アブリ(神父様)著 エンデルレ書店(1967)」に「賛美の呼びかけは信者のうちから出る。聖パウロは、異教から改心した信者も神の慈悲のゆえに感謝するとして、神の慈悲に関してのべた(ロマ十五・十一参照)。ゆえに教会はこの詩編を、晩課(聖務日課?)においてすべての他の詩編の終わりに用いている。
 教会はまた食後の感謝の祈りとしてこの詩編を用いる。・・・」、とあります。

イスラエルの神がすべての民の神であるということは、まことに有り難いことであると感じます(普段はなかなかそのように思えませんが)。また、Liturgia Horarum の水曜日の晩に唱えるコロサイ 1・12-20 を思い出します。
返信する
ユダヤ人と異邦人 (新米信徒)
2023-11-03 11:38:19
谷口神父様 

神父様の問いかけに対してまた外れたことを書きます。今日 (03/11/2023) の Litugia Horarum(時課の典礼) の Laudes matutinae(朝の賛歌)の Lectio brevis(短い読書)は、Eph 2:13-16 でした。この 14 節のフランシスコ会による訳 (2011) の注釈 (5) は、「『人を隔てていた壁』は、パウロが考えていたものに最も近いと思われるものは、エルサレム神殿内に築かれた高さ一・五メートルの石の壁である。この壁は、ユダヤ人のみが入ることが許された神殿そのもの、およびそれに続く中庭を、『異邦人の庭』から分離するためのもので、この境界を侵害した異邦人には、死刑が科せられた。なお、使 21・27-36 参照。」です。このことばは、時課の典礼(教会の祈り)で何度も朗読しているはずですが、今、イスラエルとガザ地区でのことそして民族間の紛争のことを改めて思い知らされました。

先日、偶然、YouTube にある「オンライン伝道会『活ける神』19 新しい契約」(話し手大阪ハリストス正教会 司祭ゲオルギイ松島雄一」を視聴しました。この話の中で、西方のある人たちの「信仰のみによる救い(義化)」に対して、「正教は、まず私たちを救うのは神の憐みであって、私たちの信仰ではないということを強調したうえで、・・・」、と仰っています。今日の時課の典礼では、例えば、Canticum の Hab 3:2-4,13,15-19 の 3:3 "Cum irátus fúeris,* misericórdiæ recordáberis." 「怒りのうちにも、あわれみを思いおこしてください。」(バルバロ神父様による訳 (1980))とあります。また、Canticum De Messia eiusque præcursore (Lc 1:68-79) の Lc 1:78 "per víscera misericórdiæ Dei nostri,* in quibus visitábit nos óriens ex alto," 「それは、われらの神の深いあわれみによる。そのために、朝日は上からわれらにのぞみ、」(バルバロ神父様による訳 (1980))とあります。そして、Ps 50:3-21 Miserere mei, Deus の 51 (50):3 に" Miserére mei, Deus,* secúndum misericórdiam tuam; et secúndum multitúdinem miseratiónum tuárum* dele iniquitátem meam." 「神よ、慈しみによって、わたしを顧み、豊かな憐れみによって、わたしの咎を消し去ってください」(フランシスコ会による訳 (2011))とあります。このことをおもって、改めて Eph 全体を読むと、父なる神と主イエス・キリストからの恩寵と平和そして互いに愛し合うことについての聖パウロの具体的な説教であるように感じました。この書簡における平和についてはよくわかりませんが、信仰における平和であるように感じます。わたしの単純なおもいです。
返信する
Unknown (MG)
2023-10-28 17:03:40
神父様、よかったです。久しく更新がなかったので体調を崩されているのかとも思っていました。安堵しました。まずはそのことだけお伝えしたくて。これから本文読みます。
返信する
主、先生そして掟 (新米信徒)
2023-10-28 14:15:15
谷口神父様 

プロテスタント教会との関りによって、正教会と偶然に出会いました。以前も、神父様のブログに引用しました FEBC の番組「光、イイススというお方 ゲオルギイ松島雄一(日本正教会大阪ハリストス正教会管轄司祭)」(2019 年 4 月 2 日から 9 月 24 日放送)は、ごく一部の回を除いて正教会の典礼暦に沿っているそうです。その第 23 回目の放送の朗読箇所は、Mt 19-26 でした。松島司祭は、財産を持っている青年が初めに、 "Magister," (Latin) 、「先生」と、言っていることに注意しなければいけない、と仰っています。Mt 5:17-20 のことばと Magister と言われた際の律法の範囲での完璧な答えとその律法を行ないなさい、とのことばは深く結びついているようです。以下の聖書からの引用は Nova Vulgata からの引用です。マタイによる福音書において、初めてイエス様のことを「主」と言った「人」はだれだろうと思って読みました。Mt 7:21-29 の 29 に "sicut potestatem habens" とあり、続いて、Mt 8:2 に "Et ecce leprosus veniens adorabat eum dicens: “ Domine, si vis, potes me mundare ”. " とあります。"leprosus" (重い皮膚病を患っている人 新共同訳聖書 1987)が初めてイエス様のことを "Domine" と言ったのではないかと思います。マタイによる福音書において、イエス様の「弟子」で初めて "Domine" と言った人はだれだろうと思って、読むと、Mt 8:21 "Alius autem de discipulis eius ait illi: “Domine, permitte me primum ire et sepelire patrem meum ”. " とあります。Mt 8:14-15 があるので、autem de discipulis (ほかの一人の弟子 フランシスコ会による訳 (2011))は、聖ペトロではないように感じますが、聖ペトロの姑が癒されたことの方が大切なことだと感じます。Mc 12:28-34 では、後半の 32 に、" “ Bene, Magister," とあり、Lc 10:25-37 では、25 に、"“ Magister," とあります。わたしの所属している教会の神父様が強調して仰っているイエス様の掟は、Io 13:34-35, 15:7-10 です。どのようにしてこれらの掟を行なっていくかが大切なことだと思います。

神父様からの問いかけと随分ずれたことを書いていると思いますが、先ず、イエス様を「先生、教師」ではなく「主」であると心からおもうことが大切であるように感じます。無知で聖書をろくに読んでいない疎かなる者が書いたこと故、間違いがあると思いますが、お許しください。
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