:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ インカルチュレーション =キリスト教の受肉=

2012-02-10 15:35:44 | ★ インカルチュレーション

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インカルチュレーション

=キリスト教の文化への受肉=

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二回続けて軽いタッチの雪のブログを書きました。評判はまずまずでした。今朝からまたローマは雪ですが、このテーマはもう新鮮味が失せたので繰り返しません。

 重い能に軽い狂言が混じることによって舞台は立体化しますが、狂言ばかりでは能楽の舞台は成立しません。それで、私のブログの舞台もまた少し重いテーマに戻りましょう。

 



人々がどのようにして私のブログに辿り着くかは、「検索キーワード」というツールを監視していると、ある程度見えてきます。そして、最近気が付いたのですが、度々上位にランクするのが「インカルチュレーション」というキーワードです。

何かおかしくないですか?

なぜって、私のブログの読者の中でクリスチャンは必ずしも多数派ではないと考えられるのに、きわめて特殊なキリスト教の「業界用語」が頻出しているのですから。

 

 「インカルチュレーション」つまり、直訳すると「カルチャーの中に入ること」という言葉は、アジアのカトリック教会では以前からの流行語です。日本では盛んにキリスト教の「土着化」とか言い換えられていますが、私は直観的に危険な臭いを感じて、その言葉を好んで使う人たちを常に懐疑的な目で見てきました。

 手始めに、「新カトリック大辞典」と言うのをひも解いてみました。他の項目とは不釣り合いに、「インカルチュレーション」の記述は2ページ余りにわたる長文のものでした。しかし、案の定これと言う収穫はありませんでした。こんなのを話のベースに用いるなんてとんでもないぞ、とも思いました。

 



 やはり、確かな出発点は教皇の教えでしょう。前の教皇ヨハネパウロ2世は、1990年に「救い主の使命」Redemptoris Missio)という「回勅」を発表しています。「回勅」の内容には、カトリック教会の正しい教えとしての権威があります。

 教皇は(したがってカトリック教会は)インカルチュレーションを「福音の文化内開花」としてとらえ、「人間のいろいろな文化のなかにキリスト教を入れること」「その文化の実際の価値を親しみをもって変容させる方法」と定義しています。また、教会は「『インカルチュレーション』をとおして福音を種々の文化の中に受肉(インカルネート)させる」とも言っています。

 ヒントとしては、これで十分でしょう。

 

 手始めに、私の理解したインカルチュレーションの具体的な例を2-3のべましょう。

 

 私がまだ20歳台前半の若い学生だった頃の話です。東京四谷の聖イグナチオ教会の当時の主任司祭は、戦時中に上智大学の学長の座を軍部の圧力で解任されたヘルマン・ホイヴェルス神父でした。哲学者、詩人で、戯曲作家としても活躍し、皇居で外国人が受けることの出来る最高の勲章にも輝いた優れたドイツ人イエズス会士でした。私は、18歳で上京して以来、神父が亡くなられるまで、ずっとその薫陶を受け、幸せな青年時代を過ごしたものでした。

 

 最初の例は、ホイヴぇルス師が宝生流のために新作能「復活のキリスト」を創り、上演したことです。木戸久平という能面師が、世界にただ一面キリストの能面を打ちました。能楽の伝統と歴史にとって画期的な出来事でした。初演以来、毎年春、神父の没後も、復活祭の頃になると宝生流ではこの「復活のキリスト」の能を上演するならわしになったと聞いています。日本の文化の代表的な能と能面の世界に、キリスト教の最も大切な教え、「キリストの復活」がインカルチュレート(受肉)したよい例だと思っています。

 

在りし日の中村歌右衛門


 二つ目の例は、同じホイヴェルス師の原作の歌舞伎「細川ガラシア夫人」が、東京の歌舞伎座で一カ月にわたって上演されたことです。戦後を代表する立女形六代目中村歌右衛門が舞うガラシア夫人の姿は怪しいまでに美しく、大好評でした。私は、初日、中の日、落の日の3日間、常にホイヴェルス神父の隣の席にいて、舞台を見つめる師の真剣な横顔を何度も見上げたことを懐かしく思い出します。ホイヴぇルス師と歌右衛門の二人だけのはずのところにも、なぜかちょこんと同席した学生の私に、師はカトリック新聞に劇評を書くようにすすめられ、怖いもの知らずで書いた殆ど半ページに及ぶ記事が新聞に掲載されました。今のカトリック新聞とは全く違う編集の雰囲気でした。 

 これなども、「人間のいろいろな文化のなかにキリスト教を入れ」「その文化の実際の価値を親しみをもって変容させる」という教皇の定義にぴったりの例ではないでしょうか。


在りし日のホイヴぇルス神父様


 三番目の例は、やや時代を遡りますが、日本の茶道です。私は小学校に上がるか上がらないかの頃に、父親から本籍地の地名を暗記させられたものです。キョウトシ・ウキョウク・サガ・シャカドウモンゼン・ウラヤナギチョウ・○○バンチ、と72歳になった今でも、すらすらと口をついて出てきます。嵯峨釈迦堂門前・・・とは、嵐山に近い清凉寺前のことで、その裏の竹藪を抜けると厭離庵という尼僧院があって、その側に旧大蔵次官をしていた父の長兄の家がありました。私はその門構えから玄関に続く敷石道の両側の楓の林をよく覚えています。私の祖母は、晩年は京都のこの家から、父を頼って私の家に移ってきました。

 祖母は表だったか裏だったか、茶の湯をとても愛していて、子供の時よく正座させられて、足がしびれて往生したものでした。その後もイエズス会の修練院では毎週一度お茶の先生がやってきて、たて方を教わりました。

 長くなるので堺の豪商の千の利休が密かに洗礼を受けていたかどうかの議論には入りませんが、聖フランシスコ・ザビエルのもたらしたカトリックの信仰を、彼は深く深く理解していたと私は断言できます。古田織部、細川忠興、高山右近ら、利休七哲のうち5人までが熱心なキリシタン大名であったことを見ても、利休が彼らと同じかそれ以上にキリスト教の真髄をきわめていなければ、キリシタンの弟子たちを導き、茶の湯の精神的世界を樹立することは絶対に不可能だったに違いありません。

 下手な作文をするよりも、裏千家講師で春日部福音自由教会の高橋敏夫牧師が19941月の「福音自由誌に書いた一文を引用しましょう。

 


茶道は、日本文化の結晶である。(中略)(当時)キリスト教と茶道とのかかわり、歴史的な事実を、痕跡さえも意図的に抹殺しようとする力が働いたので、その事実関係を明らかにすることは、まことに困難を極めている。思想においても、造形においても、キリスト教とは全く無縁のものとして、茶道はその拡がりを見せていったのである。

 以下は、まことに一般的なことであるが、キリスト教と茶道の関わりについて申し述べよう。

 先ず第一に庭である。庭園の思想は、そもそもパラダイスの思想である。(中略)茶庭におけるいわゆる坪庭、露地は天国に旅する求道の道である。蹲踞(つくばい=低い手水鉢)があしらわれ、その傍らに灯篭が置かれ、一人しか歩くことのできない飛び石が打たれる。この庭を考案したのは、キリシタン大名古田織部である。その飛び石は、一人でしか歩めず、自らを赤裸々にして歩み、蹲って命の水によって清められる。世の光なるキリストに照らされて歩む歩みでなければならない。まさにそれは天路歴程の姿なのだ。

 そして、である。茶室に入る折は、躙り口(にじりぐち)を通らなければならない。これは千利休が考案した茶室特有の出入り口である。(中略)なんとその利休考案の躙り口、前述した山崎の妙喜庵に国宝待庵の茶室として、400年の月日を経て現存しているのである。それはまさに主の御言葉、「狭き門より入れ」の御教えでなくて、なんであろうか。(中略)

 高山右近の高潔な品格と交わりが、秀吉に接近しつつも、真の交わりは、世にあるものをすべて捨て去れなければならないことを、利休に気付かせたのではないか。その茶室の入り口において、彼はそれを表現したのである。

 しかも、利休は述べている。花は野にあるごとく。なんと、主の山上の説教を彷彿とさせる言葉ではないか。

 そして、一椀の茶をみんなですするのは、わが主の命じ給いし聖餐を暗示しているのではないか。しかも、である。利休は、客をもてなす折に、帛紗(ふくさ)を腰につけたのである。これこそ、あの最後の晩餐の席で手拭いを腰に巻いた主イエスの、しもべとなった姿をあらわしている。

 などなど、キリスト教と茶道の関わりについて、申し述べたらキリがありませんが、紙面の都合で、ここまでと致します。

 

 これこそ、インカルチュレーションの極致ではないでしょうか。私に言わせれば、利休の茶室庭園は、キコがインスピレーションを得て開いた「新求道期間の道」を庭園の形にして表現したものです。坪庭、露地は、高橋牧師が言うように、まさに「天国に旅する求道の道」つまり「求道期間の道」であり、飛び石は「道」の各段階であり、蹲踞(つくばいは)は「洗礼盤」であり、傍らの灯篭は受洗者が洗礼の時に受けるともし火であり、「道」を照らす光だと言えましょう。聖書のたとえの「狭き門」である「躙り口」から入った空間(茶室)はまさに聖餐式(ミサ)が執り行われる場所(聖堂やチャペル)です。カトリック教会が第2バチカン公会議以前(利休の時代)に用いていたミサの道具の多くが、茶道具として今日に伝えられています。ミサのホスチア(パンをかたどったもの)は茶菓子に、ぶどう酒は抹茶にと姿を変えてはいますが、茶碗、菓子鉢、帛紗(ふくさ)、茶巾(ちゃきん)、水差し、なつめ、香合、花入れ、などなど、「ああ、これはあのころのミサのあの小道具、この小道具と一対一で対応するな」、と思われるものがたくさんあります。

 それらの道具を用いて利休が象徴的に表現したのが、カトリックのミサだったのです。キリストの最後の晩餐の記念は、戦国時代の将軍や豪商の風流であったと同時に、明日は戦場で死ぬ戦国武将らの最期の宴、能の舞のように最期の心を整える魂の儀式にまで深められた違いありません。

 茶道は日本ではキリシタン伝来以前から愛好されていましたが、それが、利休の手にかかると、見事にキリスト教の魂をインカルチュレートする手段となったのでした。

 子供心に、帯に帛紗を挟んで、両手を帯の下あたりにピタリと揃えて、能の舞のようにすり足でしずしずと畳の上を歩いて入ってくる祖母を見上げながら、早くお菓子が欲しいとしびれる足をもじもじさせていた私は、教会で赤いスカートと白いケープを着けてミサの侍者をさせられたとき、丸暗記した意味不明のラテン語でミサ答えをしながら、「ふーん!ミサっておばあちゃんのお茶みたいだ」と直感的に思ったのが、今は、利休の茶の湯はカトリックのミサを日本の伝統文化の茶道にインカルチュレートしたものだと分かって納得しています。

現代の茶道愛好家たちは、気付かずに400年前にインカルチュレートしたカトリックのミサを日々行っているのです。そして、カトリックの神父たちも信者たちも、流行語のインカルチュレーションを盛んに議論しながら、茶の湯を自分たちの信仰とは無縁の日本の伝統文化だと思って眺めているというのは、考えてみれば実に奇妙な話ではないでしょうか。


「新求道期間の道」の典礼に則ってミサを捧げ、パンを裂くる教皇ヨハネパウロ2世

金銀の器や、手焼きの大きな種無しパン、多数の大きな銀色の盃になみなみと注がれたぶどう酒

確かにここに茶の湯との共通点を読み取るのは容易ではないが・・・

 

一回分のブログの原稿としては既に限度を超えて長くなりました。次回からは、インカルチュレーションの言葉のもとで-またその関連で-行われている、誤った、あるいは、危険な、試みについて論じてみたいと思います。乞う、ご期待。

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1 コメント

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Unknown (ETCマンツーマン英会話)
2012-04-23 21:20:31
はじめまして。千利休とキリスト教に関係を調べていて、こちらに辿りつきました。知人のイギリス人から帛紗とキリスト教の関連を聞き大変興味をもちました。高橋敏夫牧師の一文、とても参考になりました。ご紹介に感謝です。
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