:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 現代のキリスト教ミッション - 〔小説〕 「大聖堂」 -

2012-01-20 22:02:45 | ★ 福音宣教

 

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現代のキリスト教ミッション 

- 〔小説〕 大聖堂 - 

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ヴァレンシアでのマヌエル君の叙階式に参加した後、半ばお忍びでクリスマスと正月を日本で過ごした。

ローマへの帰路はルフトハンザでフランクフルト経由だった。成田のフィンガーから搭乗するときになって、機材が最新鋭の総 階建て エアバス A380 であることに初めて気が付いた。


エアバスA380 第1号機のお披露目式


キャビンの総面積でボーイング747ジャンボ機の1.5倍、標準座席数で1.3倍の世界最大の旅客機なのだが、気が付いた限り、在来型のジェット機との最大の違いは外殻の厚さにあるように思えた。窓の二重ガラスの間隔は、一見したところ約10センチあまり、在来機の約3倍ほどはあるな、と思った。そのせいか、エンジン音と機体の外壁を擦る空気の音が小さく、機内が目立って静かだという点だった。

その静けさに気をよくして、読みかけていた小説 「大聖堂」(ソフトバンク文庫) を夢中になって一気に読み進んだ。ケン・フォレット作、上・中・下 三冊で合計1800ページほどの大作で、原題の “The Pillars of the Earth” は 「大地の柱」 とでも訳すべきか。

12世紀中葉、イギリスに最初のゴチック聖堂が建てられていく過程を通して、恋あり、戦争あり、王権と教会・修道院の権力のせめぎ合いを織り交ぜ、最後はイギリスの聖殉教者トーマス・ベケットの史実につながっていく。


三冊のうち 「上」 は日本で読み切ったので置いてきた


愛と詩情とグロテスクを織り交ぜた、スリルとサスペンスの息つく暇もない展開に、久しぶりに小説の世界に引き込まれてしまった。そして、昼間ボーっとして夜眼が冴える時差ボケを口実に、ローマの夜を徹して今朝ついに全巻読み終えたところである。

なぜこんなことを書くのか? それは、この長編小説を読みながら、自分の信仰観の歩みにまた一つの新しい襞(ひだ)が付け加えられたように感じられたからだ。

人の信仰というものは、年輪を重ねるにつれて広がり深まり変化するものなのだろう-またそうなければならない-。

わたしがカトリックで洗礼を受けたのは、中学2年の時だった。神戸のミッションスクールで、中学1年の終わりには同期生の十数人が洗礼を受けた。しかし、その時私は生意気にも 「まだ納得しないから」 と受洗を見送った。そして、その1年後、今度は 「納得した」 と思って受けた。今振り返ると、まだ14歳の子どもの幼稚な考えであった。高校を卒業するころには同期生の約3分の1が受洗していた。そして、最近ふと同窓会に出てみると、なんと同期生の約半数が洗礼を受けてカトリック信者になっていて驚いた。195060年代には、まだミッションスクールはキリスト教の 宣教の場 として立派に機能していたと言うべきだろう。初代の日本人校長のT神父は、父兄会当日の朝礼で、居並ぶ父兄を前にして、「わが六甲学院はキリスト教的人格教育を旨としております。東大合格を期待して子弟を送られたご父兄は、進路を誤っておられますので、早速に近くのN校に転校されることをお勧めします。」と豪語することを恐れなかった。

ところが、それから10年もしないうちに事情は一変する。2代目の外国人の校長は、父兄の圧力に屈して、遅まきながら受験校への路線転換を断行した。その効果はテキメンで、関西でもまずまずの成績を上げるようになったが、その裏で、生徒の受洗者の数はほとんどの年がゼロになった。あっという間の急展開だった。 

高等部を卒業した私は、イエズス会の神父になるべく上智大学に進み、2年後には入会準備のため修練院に入った。しかし、そのわずか23年のあいだに私の信仰は成長していた。自分の社会性の未熟さを痛感し、そこを去り、国際金融業に転じた。ドイツのコメルツバンクを皮切りにリーマンブラザーズなどを転々とするうちに私の信仰は新たな展開と深化を遂げ、改めて司祭職への道に入ることを決意した。

ローマで4年間の神学の勉強の後-という異例の速さで-1994年に神父になるのだが、そのローマでの体験は私の信仰のあり方をまた大きく変えた。さらに、最近の67年間のめまぐるしい展開 (その大半を再びローマで過ごす結果になったのだが) は、信仰内容のさらなる開眼を結果した。

中学2年の洗礼の時に芽生えた信仰は、60年近い歳月の流れの中で、大きく変貌していった。小さな苗木が大きな樹木に育つような連続的な成長というよりも、セミの幼虫が脱皮を通して全く別の形の成虫になるような劇的な変化を、人生の節目ごとに何度も繰り返して経験してきたと言った方が実態をより良く言い当てているように思う。

今朝、長編ロマン歴史小説「大聖堂」を読み終えたとき、この数年のローマでの生活を通して、私の信仰がまたまた大きく変貌を遂げていた事実に、はっと気付いて深い感慨に耽った。

今の私の信仰は、洗礼を受けた当時のような幼稚なものではない。最初に司祭職を志した時のようなセンチメンタルなものでもない。金融業に明け暮れた時期の遠い希薄なものでもなく、再度司祭職を志した時のように教会組織に過大な期待を寄せた熱烈なものでも、最早ない。

「大聖堂」 の小説の舞台であるヨーロッパ中世を含む太古からの歴史の流れと、宇宙物理学の果てしないマクロの世界から、素粒子の限りないミクロの世界まで、その全てを統べたもう神の 「創造的愛とゆるぎない救済の意志」 に対する無条件の帰依、とでもいうべき信頼に満ちた信仰的オプティミズムと言えばいいだろうか。そして、大切なのはそこから湧き上がる抑えがたい宣教への思いだ。

 

 

          

             聖トーマスの暗殺場面の描かれた装飾写本                 ヘンリー2世                     

 トマス・ベケットThomas Becket1118年12月21日 - 1170年12月29日)は、イングランド聖職者カンタベリー大司教。当初はイングランド王ヘンリー2世大法官として仕えた。しかし、大司教に叙階された後は教会の自由をめぐってヘンリー2世と対立するようになり、ヘンリー2世の部下の手で暗殺された。死後2年経ってから、殉教者としてカトリック教会より列聖された。(Wikipedia)             

 

では現実はどうか。日本の人口12500万人の中のカトリック信者の数は、

                 2008年  452138人 

         2009年  4497042434人)

         2010年  4484401264人)

と、年毎に確実に減少している。信者の親は子供に信仰を伝えない。現役信者が高齢化して死んでいく自然減に、新しい入信者の数が追い付かないためだ。

 上の数は全国の教会の洗礼台帳に記載されている信者の総数であるが、平素実際に信仰生活を実践している信者はその約4分の111万人ほどだといわれる。その数は日本の人口の約 0.1 パーセント、日本人の1000人に1人という、ほとんど無視していいほどの数でしかいない。そして、もしこの割合で減少を続ければ、やがて日本からカトリック信者は消滅するだろうと予測される。

 キリスト教の信仰は「大聖堂」の小説が描いた12世紀の中世のそれからすれば、今日ではずいぶんと進化し、変化している。それはまた。私の短い一生における個人的な信仰形態の変遷と重なるものがある。

 あの小説の時代、中世ヨーロッパでは、洗礼を受けていない人は救われないとか、懺悔をしなければ罪は許されないしそのまま死ねば地獄に落ちるとか、どんな大罪も形式的な懺悔の手続きを踏みさえすればべて赦されるとか教えていたようだ。そんなことを今日の日本の実情に当てはめれば、実に滑稽なことになる。それなら99パーセント以上の日本人が救われず地獄の滅びに入ることになるが、それでは愛と慈しみの神と全く相容れない矛盾に陥るだろう。

 すべての被造物とともに人間を創造した「愛と赦しと憐れみ」の神は、すべての人に救済と永遠の喜びに入る道を用意しているはずではないのか。(にもかかわらす永久に滅びる人がいるのも神秘だが・・・。)

 では、キリスト教の宣教は不要か?キリスト教は日本の社会からこのまま消えてしまって、それでいいのか?先輩の宣教師たちの努力は無益だったのか?このままで日本人は幸せか?日本の自殺者の人口比は、アメリカやドイツの2倍、イタリアの4倍と統計にあるが、それを一体どう説明すればいい・・・?

 (つづく)

 

 

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2 コメント

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待ってました! (keisuke yamajchi)
2012-01-25 10:08:42
新年のご挨拶を申し上げます。昨年貴兄のお許しを得て以来、貴ブログ掲載の過去ログ再編成を続けています。今回の更新分はぜひ収録したいものと、続編を楽しみにお待ちしています。
紙本のタイトルはずばり『司祭・谷口幸紀』。(貴兄にお許しいただければ、の話ですが…)
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Unknown (谷口幸紀)
2012-06-14 23:22:42
ありゃ?こんな投稿があることに今日気づきました。ごめんなさい、継祐さん。これの続編?大聖堂の?どうしよう・・・・?ちょ、ちょっと考えさせてください。(2012.06.14)
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