~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★ いま明かす、私がアーミッシュに拘った本当のわけ
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
2年ほど前のある晩、四谷三丁目のこ洒落た和風のお店で、亜紀書房のK編集長と美味しいお酒を呑みました。
それは、数日後に書店に並ぶ 『アーミッシュの赦し』 という新刊書出版の内祝いでした。
原題は:
“AMISH GRACE”
–How Forgiveness Transcended Tragedy–
私とこの本との繋がりは、「本文中のキリスト教関連の記述、用語の翻訳に関してアドバイスすること」 でした。
この本の原題をどう理解し、どう言う言葉をあてるべきかについては、訳者も、K氏自身も大いに悩まれたようでした。私の意見がいささかのヒントになったとすれば幸いです。
○ 06年10月2日、アーミッシュ学校で銃乱射事件が起こり、女生徒5人死亡、5人重傷。
○ 年長の少女は犯人の前で 「私を(先に)撃って」 と名乗り出た。
○ コミュニティーはすぐに犯人とその家族を赦した。
○ 賞賛と同時に様々な論議を呼んだ衝撃の事件の全貌を記す。
○ 全米ベストセラー!
私は、翻訳原稿を早い段階でじっくり読む機会に恵まれました。そして、自分の信仰内容と、自分が帰属するキリスト教集団、つまり日本のカトリック教会の現状について、深く考えさせられるものがありました。いま思っても文句なしのお勧めの一冊です。 このテーマに関心を持たれた方は、是非お読みくださるようお招きします。
さて、アーミッシュ成立の歴史的背景や、アーミッシュの現実の生活スタイルに関しては、いろいろと意見が分かれるかも知れません。
しかし、こと 「赦し」 に関する限り、予断と偏見を排して聖書を素直な心で読めば、アーミッシュの共同体で生きられている精神は、聖書の教えの真髄そのもの、キリスト教の大きな教派・教団のほとんどが、いつの間にかどこかに置き忘れてしまった最も本質的な部分を、現代社会の中で力強く証していると言わざるをえないのです。
カトリックにもプロテスタントにも、個人としてはアーミッシュと同じように、福音的 「赦し」 の精神を生きて体現している人はいるでしょう。カトリックの場合は、教会から公に聖人として顕彰されたほどの人たちは、皆この赦しの達人であったに違いありません。
カトリック教会では、神父を養成するための神学の科目の一つに、倫理神学と言うのがあります。私など、試験が終わると大概の細目は忘れてしまうのですが、テーマの中には、確か「聖戦論」と「タイラント殺し」、それに、新しいものとしては「解放の神学」などと言うものまであったように記憶します。
「聖戦論」とは、一口で言えば、キリスト教会は、-と言うか、キリスト教的国家又は集団は-、事と次第によっては、信仰ゆえに、正義のために武器を取って戦うことが赦される、と言う立場で、カトリック教会は今だにその説を堅持しているようでした。(ただし、十字架の旗印の下に戦われた戦争で、動機において、モラルにおいて、結果から見て、聖戦の定義に叶った戦争は歴史上ただの一回もなかった、と言うコメントを付け加えないと合格点はもらえませんが・・・。)
同様に、邪悪な非人道的な独裁者から国民を守るためには、その独裁者-例えばヒットラーのような-を殺す以外に方法はないと良心的、主観的に確信するに至った者は、その信念に忠実に行動を起こして、独裁者を斃すことを神はお赦しになる(タイラント殺し)とか、民衆の抑圧と収奪が忍耐の限度を越えた悪しき政治体制は、暴力革命をもって覆すことも赦される(解放の神学)とか、を容認した上で、ここでも、歴史上かつてそのような倫理神学の基準の満たした暗殺も革命も存在したことがない、と付言していました。なんとも歯切れの悪い講義だった、と言うのが、試験の後に残った印象でした。
アメリカは、いわゆる「9.11同時多発テロ」の直後、国際的なテロとの戦いと言う旗印の下に、アフガニスタンやイラクになだれ込みました。そして、その政策を推し進めたブッシュもキリスト教徒だと言われています。実にひどい話です。
ブッシュに比べれば、捕らえられ裁判にかけられたフセイン国王の顔の方が遥かに尊厳に満ちていたし、オサマ・ビン・ラーディンの顔は、日本ザルのように目鼻が寄ったアメリカの大統領の顔よりよほどストイックで品がいいと感じるのは、私だけでしょうか。
「十字軍の遠征」は言うに及ばず、神聖ローマ帝国を舞台とした人類史上初の世界戦争と呼ばれる「30年戦争」は、カトリックとプロテスタントの間の宗教戦争の一面-あくまで一面ではあるが-を持っていたし、アイルランド紛争も同じです。中東紛争、旧ユーゴスラビア紛争、そしてアフガニスタンやイラクの紛争もキリスト教対イスラムの戦いの側面を持っています。
キリスト教(今のカトリックもプロテスタントも含めて)が、ナザレのイエスの平和の教えを裏切って、戦争の一方の当事者の後ろ盾としての宗教に変質してしまったのはいつの頃からだったでしょうか。
この問いの答えは次回に譲るとして、『アーミッシュの赦し』という新刊書の内容は、こと「赦し」と言う一点に関して、キリスト教が経験したあらゆる歴史的変質を潜り抜けて、今日もナザレのイエスの赦しの革命的教えに忠実に生きようとするる人たちがいるという事実を明らかにした点で、多くを考えさせる力を秘めています。
《 つづく 》
アーミッシュグレースのtv映画を観て、キリスト教嫌いの私が、少し肯定的にキリスト教を見れるようになりました。
ただ残念なことに、アメリカや世界に衝撃を与えたということは、それだけ西洋社会に「赦し」を実行した人が少ないってことですよね?
日本の仏教が堕落(良くいえば変化)したように、キリスト教も堕落したと考えれば、妙に納得できるんです。しかし、同じ仏教でもチベット仏教のような本気な仏教もある。同様に、同じキリスト教でもアーミッシュのように本気で聖書に書かれているイエスの言葉を実践している人もいる。
私はキリスト教徒ではありませんが、私も彼らのように「赦せる」人になりたいと思いました。
このTV映画に出会えて本当に良かったです。