:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 教皇フランシスコに盆栽献上

2019-11-01 16:42:08 | ★ 教皇フランシスコ

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教皇フランシスコに盆栽献上

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ローマ空港に届いたばかりの盆栽の点検・手入れに余念のない森高準一氏。翌日、教皇フランシスコに献上されるのだが、ここに至るまでには、苦節15年、執念の日々があった。その歴史を辿ってみよう。 

 

 

話は30年近く前に遡る。リーマンブラザーズなどの国際金融業に見切りをつけた私は、50歳で神父を志して教会の門をたたいた。しかし、全ての門は固く閉ざされていた。恩人の高松教区の深堀司教様は、最後の望みを託して私をローマに送られた。そこで生き延びられなければ、貴方には司祭への召命はないと思いなさい、と言い渡されて

ローマでは、聖教皇ヨハネパウロ2世が1988年に設立したばかりのレデンプトーリス・マーテル神学院に3期生として受け入れられた。

 

 

久しぶりに訪れた同神学校には、刷り上がったばかりの30周年記念誌があり、その中に助祭に叙階されたときの私の写真があった。上の写真中央、黒いボールペンの先の黒髪の若者が私。

司祭の叙階式のあと、ローマで神学の教授資格を取ると、高松教区に戻り、母校の姉妹校の建設に取り組んだ。現在、世界に姉妹校が125あるが、高松のそれは、最初期の名誉ある第7番目だった。

神学校が建設された地元の町長さんは、過疎の地に世界から若者が集まり、地元の活性化と国際交流に貢献してくれることを喜び、東かがわ市の初代市長に就任した機会に、当時の教皇ヨハネパウロ2世に感謝をこめて日本の国花ソメイヨシノを献上しようと考えた。それが、徳島からは蜂須賀桜の苗木が、愛媛からは地元の盆栽が献上される展開とになった。

3県合同の「巡礼団」100名がバチカンを訪れ、バチカン庭園内で、教皇がお人払いして午後一人静かに散歩する小道の両側で、約30本の植樹祭を盛大に挙行してから、すでに15年の年月が経った。当時小指ほどの太さだった苗木も、今は直径12-3センチの成木になり、毎春満開の桜トンネルを繰り広げる。

 

2004年1月22日と記したステンレスの銘板は今も残っている。

 

土を洗い落とし、水蘚で根を巻いた桜はうまくいったが、土のついた盆栽は、思いがけない植物検疫の壁に阻まれて、間に合わなかった。近い将来必ずお納めすると言う言葉と写真の入った豪華なカタログを教皇に渡すのが精一杯で、実物の献上の目途は立たなかった。

事業の浮沈もあったが、今は広大な盆栽農園主に返り咲いた森高氏は、期が熟したと見て、先日、不意に連絡を取って来られた。急いでバチカンの人脈の回復を試みたが、多くは元の職にいなかった。ただ一人、元バチカン庭園担当の農学博士が、出世してまだ関連のポストにいることが分かった。

 

 

謁見の前晩、彼と夕食を共にした。受け取ったバチカンの封筒には、教皇からの白い招待状が2枚入っていた。白は教皇の色。フランシスコ教皇に親しく接見出来ることを保証するもので、他の色の招待状ではだめなのだ。

10月30日は、曇天だった。聖ペトロ広場の教皇の天蓋のある壇の右手の一列目は枢機卿、大司教らの高位聖職者の席だから、一歩退いた我々の席は、庶民としては最前列だった。案内役の衛兵は、手元のリストとカードの番号を見比べ、「盆栽の人」ですねと言って敬礼をした。

盆栽は、離れた下の方の台の上にポツンとおかれ、教皇の席からは明らかに死角にあった。どうして教皇の席の近くに置いてくれなかったのかといささか不満だったが、今さら文句を言えるわけもない。

 

 

待つことしばし、広場には何万人入っているだろうか。定刻に、はるか遠くで歓声が上がった。2000ミリのズームで引き寄せて見ると、パパモビレの上に教皇フランシスコの姿があった。

 

 

見慣れた防弾ガラスの覆いもない。彼は、世界中で一番暗殺される可能性の高い人物の一人なのに・・・。

事実、聖教皇ヨハネパウロ2世は至近距離からソ連差し向けのプロの殺し屋の銃弾2発を腹部に受けた。生ける殺人兵器として訓錬された失敗しない男は、後日、赦しを与えるために牢獄を訪れた教皇を見て、幽霊だと言って怯え、取り乱した。それはそうだろう。殺人マシーンの彼にとって、失敗は絶対に、絶対に、あり得ないことで、しかも彼は奇跡を信じないのだから。 教皇の暗殺失敗は、後のソ連の崩壊につながった。

 

群衆の間を一巡した後、

教皇はやおら正面の座に歩をすすめた。

 

今、これで私たちと教皇の距離は約15メートル。

11月25日の東京ドームでは、はるか遠く豆粒にしか見えないことだろう。

 

 

自分のメッセージと説教が何か国語にも翻訳されて伝えられるのを、忍耐強く聞き入る教皇。

イタリア語、フランス語、ドイツ語、英語、ポルトガル語、ポーランド語、アラビア語、その他私の聴き分けられないいくつかの言葉。

突然、猛烈な通り雨がきた。

一瞬教皇は胸に手を当てて祈ったようだった。数分後に晴天になった。森高氏は、洗礼を授かったと冗談を言ったが、顎からはしずくがしたたり、背広の下のシャツまで濡れていた。

最後の「主の祈り」はラテン語だった。そして祝福があった。

高位聖職者との個人謁見はいつも通り壇の上で行われた。その後、予想に反して、教皇は壇を降りて、一般群衆の最前列にいた病人たち、障害者たちに挨拶し、握手し、頭に手を置いて回った。その間にわたしたちは警備のものに導かれて、盆栽の前で待機した。

 

 

歴代の教皇は、個人謁見の時決して動き回らなかった。最初にパパモビレで群衆の間の通路を回った後は、最後まで壇の上の天蓋の下のポジションをキープし、拝謁を賜るものは列をなし、歩いて教皇の前に近寄るのが決まりだった。

教皇が私たちの許へ歩いてやって来る?あり得ないと思っていた。しかし今、初めて盆栽が壇の下の端に置かれたわけが分かってきた。ほんとうに教皇が歩いて私たちのところに来るのだろうか?

その瞬間が来た。通訳をしようと思ったが、森高氏は緊張してか、ほほ笑むばかりで言葉を発しなかった。  

 

私は、聖教皇ヨハネパウロ2世にも接見の機会があったが、会って、握手して、写真を撮ってもらって、ハイ次の方、という流れ作業だったと思う。

今回は記念の品までもらった。しかし、纏まった会話のやり取りは枢機卿などの限られた高位聖職者の特権だという先入観に縛られていた私は、とっさに、森高氏が誰であるか、日本にお越し下さるに先立って盆栽を献上しに来ました、盆栽の樹齢は150年で・・・、ぐらいまでが精いっぱいで、それ以上に、ここまでの長い歴史を、そもそもから説き起こすことなど、衆人環視の中、状況から言って不可能だったし、心の準備もまるでなかった。 

 

それでも、最後に蛮勇を奮って、実は、私は新求道共同体の司祭であること、そして大変な困難の中にあることを告げた。すると、「わかっている。私は貴方たちを心から愛している。元気を出しなさい!」という力強いお言葉を戴いた。もうそれで満足だった。胸がいっぱいになった。

 

 

清貧を生きたアシジの聖フランシスコを歴代教皇では初めて自分の名に選んだアルゼンチンのベルゴリオ枢機卿は、教皇になっても歴代教皇のバチカン宮殿に移り住むことを固く拒んだ。教皇選挙の時に泊まったサンタマルタというガソリンスタンド前の質素なアパートホテルに居座って、贅沢な生活に慣れ染まった高位聖職者のお歴々に、無言の模範を垂れているのだ。

アパートの入り口には、一人のスイス衛兵と独りの警備員がいるだけで、誰でも側に近寄れる。盆栽の一つは、入り口を入ったホールに置かれ、その間、もう一つは屋外で手入れを受け、適宜入れ替える手筈になっている。

 

 

謁見が終わって初めてローマの町に繰り出した。スペイン階段、カフェ・グレコ、コルソ通り、トレビの泉、真実の口、etc.。遠くの聖ペトロ大聖堂のクーポラ(丸天井)の上に登れば、眼下に桜並木が見える。

 

 

テベレ川はローマの北と南のはずれに落差の小さい早瀬があるので、それを越えての航行は出来ないが、それでもたまには船が通る。

 

冬時間に戻った11月の日は早く暮れる。夕焼けだから明日も晴天だろうか。

 

(このローマの報告、つづく)

 

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