:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 10年ぶりに 日本で 復活の徹夜祭

2018-04-08 00:53:46 | ★ 復活祭の聖週間

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

10年ぶりに 日本で 復活の徹夜祭

~~~~~~~~~~~~~~~~~

この10年間、復活祭の頃はいつもローマにいて、日本で復活祭を祝うことがなかったが、今年は久しぶりに東京・横浜の共同体の合同復活徹夜祭に参加した。首都圏の某教会を使わせてもらって、3月31日(土)の夜11時半に祭儀は始まった。

最初は光の祭儀。聖堂の入り口で、小さなかがり火を焚いて、その火から復活したキリストを象徴する大ローソクに火をともす。暗くて見にくいが、かがり火の上に縦に光っているのがそのローソク。中央斜めの光の線は懐中電灯に照らされた典礼の本。

 

 子供たちは復活徹夜祭の主役の一翼を担う

復活のキリストのローソクから近くの人に火が渡されていくと、ぼんやり回りが見え始める。停電などめったにない日本で、蛍光灯やLEDの光しか知らない子供たちにとって、復活の徹夜祭の光の祭儀はとても神秘的な体験だ。

復活の大ローソクを先頭に暗くした聖堂の入る

子供たちも

おとなたちも

聖堂の灯かりが点されると祭壇もその前の洗礼盤にもいっぱい花が飾られている

これから長い聖書の朗読がある。旧約の創世紀に始まり、出エジプト記、・・・

7つある各朗読の前にその意味を解説する信徒の導入の言葉があって、朗読があって、それに答えて賛歌が歌われる。実に、1時間以上延々長蛇のみ言葉の祭儀だが、さらにそのみ言葉に基づく信徒の分かち合いが入るから、いやでも長い典礼となる。

復活の徹夜祭の中では、子供たちだけで歌を歌う場面がある。そして親たちに向かって様々な質問をする。今年、ある子はお母さんに向かって、「今夜私たちは何を待っているのですか?」とた訊ねたのが心に残った。母親は立って、イスラエルの民がモーゼに引き連れられて、紅海を渡り、約束の地の入ったように、イエス・キリストが十字架の苦しみと死を越えて、復活の命に入ったこと、そして、今夜その復活したキリストに出会うことを私たちは待っている、というような意味のことを子供にわかる言葉で説明する。会衆はその親子の対話を見守ると言う場面だ。

左の男の子がソロの部分を歌った。

パウロの書簡が読まれ、マルコの福音の復活の朝の情景をメロディーをつけて歌う役は私が受け持った。司式司祭の説教のあと、洗礼の式が行われた。

復活の大ローソクを漬けて洗礼の水を祝福する

子供たちは、赤ちゃんの洗礼の様子を見ようと、洗礼盤のまわりに集まってきた

 

裸の赤ちゃんが「父と、子と、聖霊のみ名によって・・・」と、水の中に頭のてっぺんまで3度沈められる

ビックリして泣く子もいる 

おや、珍しくアイフォンを手にした私が写っている

今年は男女3人の赤ちゃんの洗礼があった

洗礼式の後は、ミサが執り行われた。プロテスタントの教会では聖餐式と呼ばれるとか。

ユダヤ教の過ぎ越しの祭りにどこか見ている。9本のローソク。イーストで膨らませていない種なしパン。このおおきさのパン3つを100ほどに割くと、一人ちょうど一口の量になる。

ぶどう酒は16角形の縁の銀の大杯3つと金の杯ひとつ。なみなみと注がれたのを皆で回し飲む

聖体拝領が終わり、短い祈りのあと、司祭は会衆を祝福して、祭儀の無事終了を告げる。

司祭たちが退堂すると、ギター、バイオリン、リコーダー、タンバリン、カスタネット、ボンギなどに合わせて賛歌を奏でる、一同が歌う

5音階のオリエンタルなメロディー

会衆の一部がそれに合わせて自由に祭壇の周りを踊りだす。大人も子供も。他の者はそれを見守る。

踏むステップもリズムも、ユダヤ教の過ぎ越しの祭りと似た伝統の踊りだ。

この踊りが復活の徹夜祭の最後を飾る

全てが終わったのは午前4時38分。なんと5時間の長丁場だった。夜中に起きて100人の人間が徹夜する。普通の人間の生活にはあり得ない狂気の沙汰と言うべきか。しかし、これがお祭り、まさに非日常的な「お祭り騒ぎ」なのだ。

十字架上の最悪の拷問死のあと三日目にイエス・キリストは復活した。死すべき運命を共有する我々も、死後キリストの復活にあずかって神の生命の懐で永遠に生きる。全ての被造物、壮大な宇宙もその復活にあずかって永遠に存続する。

世の終わりの復活の思想はユダヤ教にも陰のごとくにあった。しかし、その十全な理解はユダヤ教徒のキリストを待って初めて開花した。肉体を持った人間の復活、物理的時空の永遠の持続に対する確固として明快な信仰は、キリスト教以外の宗教には見出せない。

あらゆる宗教行事を巧みに金儲けの機会にする商業主義は、キリスト教のクリスマスを取り込んだ。デパートのクリスマスセールや、銀座のクラブのクリスマスパーティー、etc. バレンタインデーもチョコレート販売促進に巧みに利用した。しかし、如何なる拝金主義も、まだキリストの復活祭を商機として有効利用することに成功していないと思われる。せいぜいがイタリアの子供向けの大きなチョコレートの玉子ぐらいなものだ。

キリスト教の復活信仰とお金の神様は、お互いに天敵か?とにかく、よほど相性がわるいらしい。キリストの復活、我々の復活、永遠の生命、の信仰はキリスト教の根幹をなしている。お金の神様と共存・両立は原理的に不可能なのだ。

どうでもいいけど、私もうだめ眠たい耐えられない!!(午前4時30分)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする