Dr.mimaが医原病を斬る!

C型肝炎の解決を目指し、国の責任を追及するため闘っています。

BCGと人体実験

2019年06月06日 20時57分36秒 | その他
第286回日本内科学会北海道地方会(2019、07、06)による演題が採用されませんでしたのでブログにUPします。

BCGと人体実験

『目的』
いまなお乳幼児にBCG接種が続けられているが、医学的根拠は結核予防会1943年発行の「結核予防接種に関する報告書」である。今回この報告書を再度検討した。
『成績』
報告書の実験動物験はモルモットであるかのごとく記載されている。モルモットの体重を100倍すると実験動物の体重になり、BCGの感受性は実験動物ではモルモットの100倍であった。モルモットのBCG接種量とツベルクリン反応陽性率との間に相関はない。実験動物ではBCG接種量とツベルクリン反応はBCG接種量が多いほどツベルクリン反応は早く反応し、長く続いた。モルモットではBCG接種による結核菌予防効果は認めたが、BCG接種量と予防効果の間に相関はなかった。実験動物ではBCG接種量が多い程、結核菌予防効果を認めた。実験動物は人と思われる。報告書の臨床治験でBCG未接種群(1126人)とBCG既接種群(1099人)にわけて結核感染率と死亡率を検討している。結核菌の感染は呼吸器感染であるが、報告書の結核菌感染方法は皮下接種で行われていた。
『考察』
「結核予防接種に関する報告書」で使用された人は4953人に達していた。人類史上最大の人体実験集である。BCG接種の医学的根拠にならないばかりか倫理的にも許されない。BCG接種はただちに中止すべきである。
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ご無沙汰しています

2019年06月01日 12時13分09秒 | その他
ご無沙汰しています。
しばらく更新していませんでしたがまたブログを少しずつ書いていこうと思います。

由仁・三川C型肝炎訴訟は2018年3月14日に残念ながら棄却という判決となり、控訴は諦めることにしました。

原告の皆さんは本当に頑張って頂きましたが大変残念な結果となりました。

今度は違う形でアクションを起こしていこうと考えています。
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ホームページ開設しました

2015年05月21日 08時01分59秒 | その他
ホームページを開設しました。

Dr.mimaが医原病を斬る!

http://kannen.wix.com/mima-kanen

ブログについてもこちらのブログからホームページ内のブログに移設しますのでよろしくお願い致します。

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柳澤謙の青春時代

2015年05月20日 07時00分00秒 | その他


彼は学生時代の思い出を次のように述べている。
「東大医学部在学中、夏休みに東京市療養所(現国立国際研究センター国府台病院)に、2ヶ月半くらい毎日通って結核の勉強をした。
ここでは結核の臨床ばかりでなく、病理、細菌、血清学、免疫学などの研究を行っており、学生の私にも親切に指導して下さった。
夏休みも終りに近づき、9月半ばには大学もはじまるので、お世話になった先生方にお礼の挨拶にゆくと、岡先生を除く先生方は来年の夏もまたおいでといわれた。
岡治道先生だけは、来年の夏は結核の基礎研究をやっている伝研の佐藤秀三のところへ行きたまえ、僕が紹介してやるからといわれた。
3年生の夏休みには、いわれるままに佐藤秀三のもとで勉強することにした。そこで私は見習学生として、まず菌の染色、培養を習い、ついでモルモットを用いての実験、結核菌の感染方法、経過の観察、ツベルクリソ反応の検査、解剖所見など一通り教えてもらった。その頃は結核症に対しては予防接種もなく、治療の特効薬もなかった。
万が一発病したら、安静にして栄養のあるものを摂り、きれいな空気を吸うということ以外に治療法はなかった。
早期診断としてのツベルクリン反応の陽性転化が、結核の感染と如何なる関係にあるかも、いまだ研究中という時代であった。
 伝染病研究所は東大の付属研究機関であったが、その気風は極めてなごやかで、上下の区別もさしてなく,教授連と一緒に野球をしたり、夜はビールをくみかわすといった風で、僅か2カ月半程の見習生活であったが、10年の住み家のように感じた。この時私は,卒業後はここで結核の研究を一生やろうと
と決意したのである。」
ところが四年目には何を実習したのか、その記載はなかった。
背蔭河に行くための特殊研究をしていたと考えられる。
背蔭河では人の生き造りをするのだから、実験動物(人)を生きたまま殺すための訓練は必要である。ホルマリン付けにした人間の解剖実習も初めはいい気のするものではない。
1989(平成2)年7月2日旧陸軍医学校跡地に100体を超える人骨が発見されたことと無関係ではあるまい。
「伝研に東京帝大医学部から私も含めて5人が基礎部門に入った。臨牀の方には、7人入ったので、1931(昭和6)年度の卒業生がいい合わせたわけではないが、一度に12人も伝研の門をくぐったことになる。」と語っている。
確かに柳澤謙は、1931年4月30日付けで伝染病研究所技手として採用されていた(「実験医学雑誌」雑報、15巻6号)
 先にもBCGの超音波処理のところで書いた、伝染病研究所の矢追秀武は著書「私の70年史 」のなかで「柳澤謙を知ったのは、1937(昭和12年)年4月30日であった(メディカル・カルチャー、1965)と書いており、柳澤謙が1931年春から1937年春までの6年間背蔭河にいたという証拠となった。


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わが一生の思い出

2015年05月19日 07時00分00秒 | その他


私は柳澤謙が「わが一生の思い出(非売品)」という遺稿集を自費出版していたことを知ったのは2007(平成19)年8月末のことである。
その後どうしても柳澤謙の遺稿集(わが一生の思い出)の全文を読破しない限り、BCG研究の全容を解明できないと判断して彼の遺稿集を必死で探した。
その結果、彼の故郷が新潟県中頸城(なかくびき)郡津有(つあり)村であることが解った。
ここは現在の高田市に当たる。
2007年12月、高田市立図書館へ電話したところ、図書館が所蔵していることが判明した。
早速札幌市立中央図書館に貸し出しを依頼して送ってもらった。
「わが一生の思い出」は、第一編 誕生から結婚まで、第二編 研究生活とその周辺、第三編 海外旅行の印象記からなっていた。
暮れも押し迫った12月28日、第二編 研究生活とその周辺を全部コピーした。
その後幸運なことに古本屋にあることが解り、2015(平成27)年4月16日購入することができた。
ついに核心に迫れる時がきたのである。
 この自叙伝は、1977(昭和52)年8月、彼が国立予防研究所(現国立感染症研究所)所長を70才で退職後、毎年夏の一ヶ月半、山中湖の別荘にこもり、執筆していたものであることが解った。
「わが一生の思い出」は未完であったが、彼の息子は父の意志を次いで出版しようと考え、遺稿集(非売品)を出版した。
第二編は出版の前に家族が国立予防研究所(国立感染症感染症研究所)の検閲を受けていた。
その結果、彼の業績目録の中から肝心な論文は削除射さていた。
この自叙伝は、1977年(昭和52)年8月、彼が国立予防研究所の所長を70才で退職後、毎年夏の1ヶ月半、山中湖の別荘にこもり、執筆していたものである。
 ところが、「悪魔の飽食」が1981(昭和56)年11月に発売された。
発売と同時にベストセラーにもった。
 彼にとって人生最大の恐怖だったと予測される。「悪魔の飽食」出版半年後の1982年5月3日に心筋梗塞をおこし、一時よくなるも6月18日には再発作をおこし死亡した。75才であった。


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