信者ブログを見ていると、近頃は、疑に悩んでいる方が増えているようです。
思い返してみれば、信者だったころの自分も同じでした。何かの拍子に、「あれ? 変だな。何かおかしい」などと疑の心が浮かんでくると、次のようなことを自分に言い聞かせて頑張ったものでした。
「疑ってはいけない。自分のような小さき者に、仏陀の心が分かるはずもない。この疑は下からの誘惑だ。負けるもんか。もっと強い信仰心を持たなくては……」
ある夜は、半泣きしながら、次のように祈ったりもしました。
「仏陀様。信仰心が弱くて本当にすみません。『何かおかしい』という疑の心をどうしても消すことができないのです。どうか、わたしに強い信仰心を与えてください。お願いです……」
けれども、マインドコントロールが解けた今は、「何かおかしい」という疑は魔の誘惑ではなくて、良心の声だったということがよく分かります。疑だと思い込んでいたのは、「それはおかしい。間違ってるよ!」という良心の声だったのです。
自分にはこういう経験があるので、疑に悩む信者さんには「何かおかしい」と感じたときに、「疑ってはいけない」と決めつけ、「何かおかしい」という良心を圧殺するような愚かなまねはしてほしくないと思います。
「何かおかしい」という良心を圧殺することはできないし、そんなことを無理に行おうとすれば、良心だけではなく、自分の心全体を損なうばかりです。
正しいものに対する疑は、悪かもしれません。けれども間違っているものに対する疑は、正義の義です。正義の義を、駆逐すべき疑だと勘違いしてはいけません。
なんだか、ややこしい言い方になってしまいましたが、疑に悩む信者さんは、このあたりのことをよく考えてみてはどうかと思います。