自燈明・法燈明の考察

立正安国論雑感②

 さて前回の記事の続きです。
 日蓮は「南無妙法蓮華経」という題目を唱えました。この題目の意義とは御義口伝によれば、それなりに深い意義があるのですが、端的に言えば妙法蓮華経に帰命する、つまりは信じて生きていくという事の意味ですね。では妙法蓮華経に書かれている肝心はと言えば、それを日蓮は一念三千という法門の事だと開目抄で述べています。

 この一念三千という法門を提唱したのは、中国天台宗の祖、天台大師智顗ですが、これは私達の心の本質は仏であるという事を示すものでした。そして天台宗ではそれを覚知する為に「内観」という修行に重点を置いていて、それは座禅による瞑想だったと言われています。禅宗という言葉がありますが、もともと中国で当時、禅宗と云えば専ら天台宗の事を指していたそうです。因みに日本の禅宗は、中国では達磨宗と呼ばれていました。

 この一念三千という法門は、日蓮も如来滅後五五百歳始観心本尊抄にて述べているように、天台宗の摩訶止観を始めとした重要文献には示されておらず、観心行(内観)の手ほどきの教えとして語られていたそうで、そこから考えると天台大師が重要視していたのは、妙法蓮華経の如来寿量品で明かされた己心の中にある仏(久遠実成の釈尊)の覚知であったのかもしれません。

 つまり自分自身の心の本質について、理解をする事であったのかと、私は思うのです。

 日蓮はこの一念三千について「事の一念三千」と呼びましたが、自身が信じる処の法華経への信仰。これは法華経を広める事で、それにより法華経の勧持品で説かれる三類の強敵を呼び出して、その強敵と戦う事で自分の心の奥底にある仏を覚知しようとしていました。
 そして日蓮は、この妙法蓮華経にある仏の心(久遠実成の釈尊)を自身の中に覚知する為には、この法華経を広め、弘通をする中でしか、この末法という時代にはあり得ないと述べていたようです。

 つまるところ、日蓮が立正安国論で述べた「正を立て」とは、自分自身の心の中にある仏を覚知するという事に過ぎるものではなく、その為に日蓮は法華経を中心に据えた鎌倉時代の仏教界の再構築を求めていたのではないかと、私は推察しています。

 自身の心の本質を理解する。これこそが混乱した国を立て直す事、そして社会の安寧を招来するものであると言うのです。その観点から考えると、単に経典を引用し三災七難が来るとか、マントラの様なお題目を唱える事とか、ましてや一つの宗派団体の興隆を、単純に日蓮は求めていた訳ではないと、私は思うのです。

◆今の人類社会
 日蓮はこの娑婆世界は「第六天の魔王(天子魔)」の所領と考えていました。この天子魔とは「魔」と付いているので、私達はつい魔物の様に考えてしまいますが、これはれっきとした天界に住む王です。別名を「他化自在天」ともいい、人々を自在に操ることで、快楽を覚えると言われています。

 さて、今の時代、人を意のままに操る存在とは何でしょうか。私はこの働きを端的に表すものは「お金(資本)」だと思います。人類社会の中に還流している資金を人々は如何に多く得られるのか、その得た資金で如何に自分の人生を謳歌出来るのか、人は常に苦心惨憺しています。このお金の多寡がその人の人生の自由度を決定すると言っても良いでしょう。

 第六天の魔王が天界に住むという理論は、この事を考えた時には良くできた視点だと思います。

 このお金とは一つの姿であり、その本質とは何か。私はこれを簡単に言えば、人の欲求であり執着であると思います。仏教でいえば煩悩という事かもしれません。

 そもそもお金は「貨幣」とも言われ、貨幣経済が人類社会の中で発明されてからこのかた、人々はこの貨幣に翻弄され、自由自在に操つられてきました。しかし貨幣の始まりは物々交換の経済活動から、より自由度と汎用性を求めて作り出された制度の道具です。しかし人の欲の上に成り立つ制度でもあるので、それがいつの間にか人の心の奥底にある煩悩が具現化した姿へと変化をしました。

 そして元々は互いに持ち合う交換物を、効率よく流通させる為の道具である貨幣そのモノに価値が見いだされ、現在の資本の元になったとも言えるでしょう。人々の多くがこの貨幣で表された数字を価値としてみなし、それに狂奔されているのが、現代の人類社会の姿ではないでしょうか。いまや人の命でさえも、この貨幣の数字により取引され、この貨幣所有の多寡が人の価値とも誤認識されています。

人類社会の価値観
 近年では、例えば環境に排出される炭酸ガスの「排出権」なるものまで、国の間で貨幣によって取引される時代になりました。変な話で、そもそも人類の経済活動により炭酸ガスが多量に排出され、それが地球環境に多大な影響を及ぼし、結果としてそれらは人類以外の生物種にも多大な影響を及ぼしているにも関わらす、人類社会では、その人類の中でしか通用しない資本(貨幣)で炭酸排出量の取引を行い、それが環境保全に役立つと錯誤しています。近年いわれている「持続的な開発目標(SDGs)」も似たようなもので、今の人類社会の価値観では、どう考えても地球環境に負荷をかけ、他の生物種にも影響を与えているのですが、そんな貨幣を動かす事だけで、解決の道筋が立つと誤解をしています。

 これから人類に必要なのは、この「資本(貨幣)」に振り回される生き方を見治す事ではないかと、多くの人々が気づき、そして価値観を変える事で、それのより文明そのものの在り方を見直す事であり、そこにヒントを与えてくれるのが、一念三千で現された仏教の思想なのではないでしょうか。

 今の時代、日蓮の立正安国論を展開するのであれば、ここまで思考の枠を広げて考えなければいけないと、私は考えていたりするのです。

(続く)

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