自燈明・法燈明の考察

神天上の法門

 日蓮は立正安国論で、国に正法を立てる事で国家が安寧になると考え、その内容を論としてまとめて最明寺入道(北条時頼)に上呈しました。この中で日蓮が述べたのは、国に正法が途絶えると、諸天善神は威光を無くし天上界に去り、国を導く聖人は国を捨て去り、結果として国に悪鬼や魔が入り込み、様々な災難が国に襲うと述べています。

 そしてこの諸天善神が国を捨て去り、天上界に帰る事を、後世の弟子たちは「神天上の法門」と呼ぶようになりました。しかしそもそもですが、諸天善神とは何でしょうか、天上界とはどこで、神々はとんな処に帰るというのでしょう。

 創価学会ではこの立正安国論を元に、各種の選挙活動をしてますが、実は依処である立正安国論のこう言った基本的な事については、何ら思索すらしておらず、単に創価学会会員の国会議員を国政に送るとか、地方自治体の議会に送れば安国になると言い、会員を扇動し続けています。しかし結果としては、その安直で会員が思考しない無責任な行動が日本の民主主義の根幹を破壊していて、会員葉その現実に気づくべきなのです。

 ここではこの立正安国論の「神天上の法門」について、少し私の考えた処を記事として書いてみます。

◆諸天善神とは
 仏教でよく言う諸天善神とは何なのでしょうか。例えは大梵天王とか帝釈天王はもともとがバラモン教で説かれている神々でした。大梵天王はブラフマーという神で、古代イントにおいては万物実存の根源とされたブラフマンを神格化したものです。帝釈天王は同じく古代インドの神であるインドラと同一の神です。また四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)も帝釈天に仕える神々でした。

 仏教ではこの様なバラモン教の神々も、仏教を守る諸天善神として取り込み位置づけをしたのです。

 これは日本に於いても同じであり、天照大神や八幡大菩薩というのも、元を辿れば日本の土着神でしたが、仏教が日本に伝来してから、仏教守護の諸天善神として取り入れられました。

 一言で「神」と言っても、ヤソ教(ユダヤ・キリスト・イスラム)の一神教の神と、バラモン教を始めとして日本の八百万の神に代表される多神教の「神々」は、本質的に異なる存在です。

 ヤソ教の神とは人間を創生し、その人間を導き、時には罰し破滅させ、時には護る。そして最後は「審判の日」に選別し、選ばれた者は天上界へ行き、それ以外は煉獄へと落される。つまるところ人間の「主(あるじ)」として存在している神と言っても良いでしょう。
 一方でアジアの宗教は多神教が多いのですが、それらの多くは自然界の中の様々な働きを「神々」と尊崇する事が起源であったり、また日本の場合等はそれ以外にも「祟り神」という神もありますが、やはり基本的には自然界の中の働きを神と見ていると言っても良いでしょう。

 この様な事から考えてみると、仏教の諸天善神とは、仏教を信じる人を守るという自然の働きや社会の動きを「神々」と呼んでいると考えても良いのかしれません。

◆諸天善神の住処
 また諸天善神に関する事を考察する上で、この善神は何処に住むのかという事がありますが、日蓮は御書の中に以下の事を書いています。

「今までは此の国の者ども法華経の御敵にはなさじと一子のあひにくの如く捨てかねておはせども霊山の起請のおそろしさに社を焼き払いて天に上らせ給いぬ、さはあれども身命をおしまぬ法華経の行者あれば其の頭には住むべし」
(新池御書)

 ここで日蓮は諸天善神は、日本人を法華経の敵にしないように必死に取り組んでいたが、霊山浄土で諸天が釈迦仏に起請(誓い約束した事)に背くことを恐れて、社(やしろ)を焼いて天上界に帰ってしまったが、法華経の行者がいれば、その頭に住むと語っています。この事を捉え直すと、諸天善神とは、本来は人の心の中に住むものであり、それが周囲の環境や社会等に反映して、人を護る働きの事とも思えます。仏教はどこまでいっても内道、つまり人の心の思想という事から言っても、その様に考えるべきだと思うのです。

 つまり諸天善神とは、人の心に宿る善性であり、それによる人々を守護する働きという事ではないでしょうか。

 日本国内の神社仏閣には、この諸天善神の像が数多ありますが、それらは全てこう言った人の心の中の善性をシンボル化したものであって、どこぞにその様な神々が居ると言うことでは無いと私は思うのです。

◆神天上の法門とは
 この様に諸天善神の存在を考えてみた時、神天上の法門とはどの様な事を指すのでしょうか。それを一言で言えば「心の内面にある、人の善性の穏没」という事では無いでしょうか。そして諸天善神が威光を増すために食す「法味」というのは、社会の中にある人の良き心や特性を伸ばす風潮でもあり、その為の仕組みや哲学なのでは無いかと思うのです。

 そういった事が弱くなったり無くなったりした社会は、人の為よりも自分のため、人を目的とはせず手段とする様な風潮がつよくなるのではないでしょうか。そして国や地域がその様になった時、そこには社会の安寧や平和というのがなくなるのは、ある意味で自明の理だと言えるでしょう。

 日蓮が鎌倉時代に指摘して責たのは、当時の仏教界が、人の内にある善性を見ることもせず、鎌倉幕府の進める文化政策に乗っかって、それぞれの宗派や出家者が我利我利で動いているという事であり、為政者自身もその様な事に気付きもしない。そういう事に対する事だと思うのです。

 そして現代の日本はどうかと言えば、市場原理主義(リバタリアリズム)を導入し、社会を利益最優先に舵を切り、政治の世界では宗教組織を利用して、それぞれの政治家が、己の保身を図ったりしているように、私の目には見えてしまいます。そこに人の心の中にある善性を熏潑するものは一切ありません。

 本来、立正安国論を語り、神天上の法門を語るのであれば、そういう処に目を向けなければならないのです。




クリックをお願いします。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「日蓮仏法再考」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事