今日は午前中に散歩をしたのですが、少し暑さが緩くなったとは言っても酷暑には変わりなく、二時間ほど歩きましたが、全身、汗でびちょびちょになり、帰宅後にシャワーを浴びて着替えましたが、昼寝のつもりが先ほどまで寝てしまっていました。
地域の中をブラブラと散歩すると、学生時代に歩いた道、また子供の時に遊んだ場所などもあり、ふと当時の事を思い出したりしてしまい、ついこの間にあった事に様に思い出しますが、街並みも当時とは異なり、時間が確実に経過している事を実感したりしました。
私はもう五十代も半ばの年齢になっています。
昔の事ですが、母親が言っていた言葉で「体と見た目は年取っているんだけど、頭の中身は高校生時代のまんまなんだよね」というのがありましたが、この年齢になってみて、本当にその通りなんだと実感しています。
「心のかたち」という事で、様々な事を書いてきましたが、人の心というのは実に不可思議なものだと思います。
中有世界について研究しているJ.L.ホイットン氏によれば、この世界というのは人にとっては「予定調和」の様なものだとありました。
「カルマの概念のもたらす結論としていちばん重要なのは、私たちのおかれた境遇は決して偶然のなせるわざによって決められたのではない、ということだ。この世で私たちはバルドで選んたことを体現している。私たちが、バルドの肉体をもたない状態にあって決定したことによって今生の境遇が決まり、潜在意識のありかたによって、良運や悪運がめぐってくる。カルマの法則が真実だと確信することはすなわち、たとえ現状がいかに困難でも、この現状にわが身をおいたのは自分自身なのだ、と認めることなのだ。人はそれぞれ、試練や苦難の中にこそ学び成長するための最大の機会がある。と理解したうえでその試練や苦難を探し出していくのである。」
これは何もJ.L.ホイットン博士が自分自身の考え方で言っている言葉などではなく、中間世の研究で多くの被験者を退行催眠で中間世に誘導し、その被験者の語った内容から、結論の一つとして語っている言葉なのです。
J.L.ホイットン博士の研究によれば、人は亡くなると中間世で裁判官(賢者という表現もある)に合うと言います。言葉の表現というのは被験者の持ち合わせているイメージによるので、被験者たちはその存在をその様に感じて表現をしたのであり、これについては、アレクサンダー・エベン氏は以下の表現をしていました。
「私はその場所で、無数の宇宙に豊かな生命が息づいているのを見た。その中には人類よりはるかに進歩した知性を備えるものたちもいた。数限りない高次の次元があることも知った。」
法華経においての「久遠実成の釈尊」というのも、もしかしたらこれに類する存在なのかもしれません。
兎にも角にも、私達の人生で巻き起こる様々な苦難や試練というのは、この生を受ける前に、自分自身が選択して計画し、カルマ(業)として背負いこんで来た事だと言うのです。そしてそれはJ.L.ホイットン博士は「学び成長するための最大の機会」と表現していますが、私はこれよりもニール・ドナルド・ウォルシュ氏が「神との対話」の中で語っている「創造者が、「創造者である自分」を体験する方法は、ただひとつしかない。それは、創造することだ。」という事ではないかと思うのです。
人生の苦難や試練というのは、それに巡り合った時には、追い詰められ、解決の道も見えない状況と感じれるものですが、いざそれを解決するという事は、自分の人生の中で新たな経験を創造しているという事であり、それを「経験」する事が、この人生の目的なのでは無いかという事です。
まあこの辺りは各自が人生の中で「感じる事」であり、感じ方も人それぞれであり、固定的な概念で語る事なんて不適切だと思いますので、参考までに捉えて頂ければと思います。
私が最近になり感じている事は、以前にもこのブログで書いた事なのですが、人生五十年以上生きて来れば、様々な事を経験するものです。私の場合、ふと思い返すと、苦難や試練に巡り合っても、そこで逃げ出しさえしなければ何かしら人との出会いがあって、新たな環境に入り、その結果、いま生きている環境になっているという事です。実感としては「まるで計画されてきた様に」、絶妙なタイミングで人と出会い、その先にあった事は、それまでの経験が大抵役に立つ環境へと移行してきたという事です。
こういう経験からしても、J.L.ホイットン博士の研究結果の言葉が、妙に私自身の中にしっくりとくるのです。
実際、私の生きている環境では、今も様々な課題が山積しています。これは創価学会が教える「宿命転換」というものではなく、まるで山登りをしている感じに似ており、一つの峰を越えると、さらなる峰が見えて来て、越えなければならない課題が出てくる感じに似ています。でも逃げ出さず、出来る努力を続けて行けば、必ず峰は乗り越える事も出来るし、そこで新たな経験をする事も出来ると感じています。
人生とはある意味で「予定調和」であり、逃げ出しさえしなければ、様々な経験をするものなんですね。
以前に長年付き合っている友人(創価学会の活動家)が、転職が中々きまらずに焦燥感に悩やんで、ひたすら唱題しているという時、私は「人生とは流れに似ているから、あわてずに泳ぎ続けて居れば、最適なタイミングで良い転職が出来るから、焦りなさんな」とアドバイスをした事があります。
この友人はそれから間もなく転職がきまり、今のコロナ渦の中でも仕事にあぶれる事なく、多忙な仕事をしながら家族を養っています。
こういう事なのではありませんかね。
私の人生も、あと二十数年程度であり、ここに書いた事が真実かどうかは、いずれ自分自身が経験する事なので、私としてもその時を待つしかありませんが、「娑婆世界で生きる」というのは、この先も様々「輪廻転生」を繰り返し、そのタイムスパンは数十年や数百年という時間では無いのかもしれません。
あとどれだけこの人生で、どんな経験をするのか解りませんが、大事に生きて行きたいと思っています。
(続く)