自燈明・法燈明の考察

人生の事について雑感

 最近、ブログの更新が滞ってました。これには生活リズムも関係してくるのですが、モチベーションも大いに関係してきます。開目抄の事や、その他様々な事を書き連ねたいと思いながら、記事に起こすだけのモチベーションがなかなか持てないんですよね。まあ仕事でもないのでこれからも淡々とやりますので、引き続きお付き合いいただければと思います。

 昨日ですが、Facebookのメッセンジャーに友達外からメッセージが来た旨、表示されました。一体誰だろうと見てみると、高校時代の部活のOBのとある大先輩からのメッセージでした。何でもFacebookで私を見つけ、わざわざメッセージをくれたようです。
 懐かしさ半分で読み始めると、先輩は今年で職場を定年退職するという事で、今は有給休暇を消化中、暇なのでネットを徘徊しているうちに、私のFacebookを見つけたとの事でした。

 この先輩には高校時代には、部活を通して大変お世話になったので、とても懐かしかったのですが、そんな先輩も今年定年退職の年齢になるとの事。考えてみれば私も五十代半ばを過ぎているので、さもあらんと改めて思いました。

 人生とは有限なもの。若い時にはこの人生は無限に続くように誤解をしますが、この年齢になると人生とは時間が限られている事を感じ始めます。
 私もあと十年程で恐らく社会人としては一旦リタイヤする事でしょう。もしかしたら残りの人生で少しは社会人として関われるかもしれませんが、そこは今の段階では全く見えません。

 インドの人生観によれば、今は家長期として家族を養うのに必死ですが、あと十年程したら隠棲期になり、自分自身の今までの生き方を振り返り、整理する段階に入ります。

 人生には様々な事があります。私の場合、仕事ではベンチャー企業で、ある意味「好き勝手に」仕事をしてきたのが十五年ほどありました。いまはとある大企業に派遣社員として仕事をして、何故か間もなく二十年目になりますが、こんな仕事人生なので、人に語れる事は結構あります。

 これは仕事ばかりでは無く、私生活でも創価学会という、今から考えたらとんでも無い団体に関わり四半世紀以上過ごしてきまして、そこで見てきた事、経験した事でも結構語れる事があります。

「将来子供が出来たら、笑いながら話せる生き方をしたい」

 私は常にこんな事を思いながら生きて来ましたが、そこはなんとか思い通りの生き方をして来れたかなと、最近になり思える様になりました。

 日蓮の御書で日女御前御返事というのがあります。そこには日蓮が顕した文字曼荼羅の意義について書かれているのですが、そこには有名な以下の御文があります。

「此等の仏菩薩大聖等総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり。」

 これは法華経には仏菩薩や様々な衆生が書かれていて、日蓮の文字曼荼羅にもそれぞれ勧請されています。

 この文字曼荼羅には日本の神々である天照大御神や八幡大菩薩、伝教大師もありますが、中国の天台大師も認められています。またインドのバラモン教の大梵天王や帝釈天王、あと大日天王や大月天王、大明星天王という星々も認められています。
 あとは第六天魔王や鬼子母神、十羅刹女という魔物や鬼も勧請されており、釈迦の弟子たちである舎利弗や目犍連も認められ、それに相対する形で釈迦や多宝仏、地沸の四菩薩が書かれていて、四方は四天王が固めており、左右には愛染、不動が梵字で認められています。

 その中央(首題)には南無妙法蓮華経という題目があるのですが、日蓮によれば文字曼荼羅に認められた仏菩薩や様々な衆生も、この題目の光に照らされて「本有の尊形(本来あるべき尊い姿)」になる事を、文字曼荼羅では表現しているそうです。
 因みに首題の南無妙法蓮華経という文字は「髭題目」と呼ばれる特殊な書き方をされていますが、あれは題目が光り輝く様を表現していると言うのです。

 また日蓮はお題目は単なる経典の表題ではなく、仏教の肝心であり、仏の名前だとも呼んでいますが、この仏とは如来寿量品で明かされる久遠実成の釈尊で表現された、心の本質だと私は捉えています。

 つまり心の本質から様々な仏菩薩や衆生を見たとき、それらには本来あるべき尊貴な姿が見えてくると云う事を表しているのではないでしょうか。

 そしてここでは仏菩薩や衆生と呼んでいますが、仏教が内道の教えと言うことであれば、これを具体的に考えてみると、人生の中で出会う様々な出来事により、人の心は様々な姿を現します。それは菩薩の心であったり、学びの姿勢であったり、喜怒哀楽や四苦八苦を感じたり。まあ様々な姿を現してきます。これらをここでは仏菩薩や衆生として表現しているのではないでしょうか。
 そして人生の様々な出来事とは、この心の本質の位置から見直してみると、けして無意味な事ではなく、それらにはそれぞれ本来あるべき尊貴な形、つまり人生に対して有意義な意味があると理解できる。それは楽しい事やうれしい事以外にも、苦しい事や閉塞感、または絶望感でさえ、それぞれに意味があるのだと理解できると言う事です。

 日蓮の文字曼荼羅には、そんな意義が顕されているのかもしれませんね。

 人はとかく、苦しい時、行き詰まりそうになった時、また絶望感を拭えない時に宗教に依存してしまいます。戦後の創価学会とは、敗戦後の日本社会の中でそんな人々によって急速膨張してきました。そして日蓮の文字曼荼羅を、まるで万能の御札のように語らってばら撒いてきたのです。

 しかし日蓮の文字曼荼羅とは、そんな御札のようなものではなく、この人生を理解するための一つのシンポル的な表現を認めた「曼荼羅」なのでは無いでしょうか。

 私は最近になり、自分自身の人生を振り返りながらも、そんな事を考えたりしているのです。


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