自燈明・法燈明の考察

今の時代を立正安国論でみれるか?

 いよいよ明日に政府は「緊急事態宣言」を解除するそうです。しかしそもそも感染症が微増であり、飲食店は21時までの営業と、引き続き制限を課すというのが、まったく意味不明なのですが、皆さんはそう感じないのでしょうか。


「意味不明!」

 私は昨年から主に自宅籠りで仕事をしています。周囲のIT企業もテレワークを行っています。様々な方策を講じているから、感染数も通年のインフルエンザよりも少ないという事であって、人の接触機会というか、社会が通常の動きになっていけば、それなりに感染者は増加していくのではないでしょうか。

 「緊急事態宣言解除」なんて言葉が、これ以降、日本社会の中でどの様な行動を誘発するのか、そこが気になります。

 私は何も「新型コロナ」というものを極度に恐れる必要は無いと思っています。それこそ道を歩くにも、森の中を歩くにも、常にマスクを外してはいけないとか、アルコール消毒を家の出入りの度に細かく励行しなければならないとは思えないのです。いま大事な事は「正しく怖がる」事であり、政府にはその情報発信を正確にまずは行う事と、「正しく怖がる」為の政策を取って欲しいと思っています。
 でも今ではこのパンデミックも「政局」になったりしていて、そもそも日本の政治家には「安全保障」を理解している人も少ない様なので、こんな事を期待すら出来ません。彼らの中は「東京オリンピック」と「選挙」しか見えてない様に思えてなりません。

 さて、毎度前置きが長くなってしまいますが、今回は「立正安国論」について少し考えてみます。

 私は創価学会の活動から距離を置く事になり、それから数年間はこの「立正安国論」こそが社会を安寧にさせる方途が秘められている重要な御書と考えてもいましたが、その後、幾度かこの御書を読み、社会の情勢などを考え、過去からの人類史を省みたりするうち、けしてこの「立正安国論」というのは「金科玉条」のものではないし、今では鎌倉時代の人々がもし社会を安寧に導くという事であれば、こういった考え方もあったのだろうという一つの資料だと思う様になりました。

 この御書に書かれている日蓮の視点というのは、とても「ユニーク」なものです。それは従来、仏教界の中では「国家の安寧を願う経典」として取り扱われていた経典である金明光経や仁王経を法華経を中心とした体系として解釈し、その上で法華経を中心とした仏教を提示するというのは、過去の日本の中の僧侶には無い視点であったと思います。でもそこにあるのは、所詮と言ってはなんですが「天平時代」から日本に流入した仏教を「鎮護国家の教え」という位置づけで解釈した、日本独自の仏教解釈の延長線上にある内容にしか過ぎません。それでは仏教そのものへの解釈も、読み間違えを誘発してしまうと言うものです。

 現にこの時代になっても、創価学会が公明党という政党を利用して政治に参画し、この国の民主主義の根幹を破壊する切っ掛けの思想として、この「立正安国論」が使われていますし、過去を見ても田中智学氏の提唱した「八紘一宇」の思想、2.26事件の青年将校の精神的支柱であった北一輝、「世界最終戦争」という事を論じた石原莞爾といった人々の思想の根幹にも、この日蓮の「立正安国論」というものが影響を与えていたのではありませんか?

 「正を立て国を安んじる論」と言いますが、「正=正義、正しい事」というのであれば、そもそも「正しい」というのは立ち位置の問題であり、それは所詮、相対的な事柄でしかありません。社会のあるべき姿としての論であれば、そこは考えても良いかもしれませんが、けしてそれを宗教的な解釈として用いるべき事では無いと私は思うのです。

 ネットの中では今の新型コロナ過の世の中、また米中間の緊張の高まりなどで「自界叛逆難、他国侵逼難、三災七難」が良く理解できるという様な、学会関係者や、元学会関係者の発言もありますが、今の世界の状況とは、そんな単純な出来事ではないと思いますよ。

 ちょっと「立正安国論」や「鎮護国家の仏教」、また鎌倉時代の仏教観とは距離を置いて、現代の人類社会に対して、もう少し俯瞰して考えてみる必要があるのではないでしょうか。



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