餓鬼界:物心に飢えを感じ、貪る様な状態
畜生界:本能の赴くままの状態。
修羅界:他者に勝りたいと思い、怒りを持つ状態
人 界:平穏で礼節等を弁えた状態
天 界:物心で満たされ、喜びの状態
声聞界:他者に耳を傾け、向上しようとする状態
縁覚界:縁に触れ、物事を理解した状態
菩薩界:他者に施す状態
仏 界:釈迦等の仏と同じ状態
仏教を少しでも触れたことがある人であれば、この十界論のそれぞれの事を耳にした事があると思います。私がこの十界論を初めて聞いたのは、高校生の頃、創価学会の中で聞きました。
当初は日蓮独自の教えかと思いましたが、よくよく自分で調べてみると、天台教学の伝統を表した『仏祖統紀』巻50に書かれている、人の心の中の境涯(状態)の分類だという事が解りました。
よく「日蓮仏法」とか言いますが、調べてみると日蓮の教学の大半は天台宗教学を基礎としています。まあ日蓮は元は天台僧で、延暦寺の修学により阿闍梨号(弟子を持つ資格で、現代で言うなら大学教授という処でしょうか)を得た人物なので、当たり前の事です。
この十界のうち、地獄・餓鬼・畜生を「三悪道」と呼びます。これは人と言うよりも動物に近く、善悪とか思案、向上心や利他心という事は持てない状態であることから、このように括られているのでしょう。
またこの三悪道に修羅界を加えたものを「四悪趣」と呼びます。これは先の三悪道に比べて、他よりも勝りたいという心がある分、多少はましという事でありますが、やはり人としては問題のある状態には変わり有りません。
人界は平穏で落ち着き、周囲の事を観察し、思索出来ますが、何分安定していません。直ぐに他の状態に遷移してしまいます。
また声聞や縁覚は二乗と呼びます。
大乗経典では、この二乗については「永不成仏」と嫌われており、法華経以前の経典では、舎利佛や目連、阿難といった代表的な釈迦の弟子たちは、師匠の釈迦から叱られ続けたと言います。
しかしこれは本当の事なのかと癒えば、それは少し違うかもしれませんね。
元々大乗教が発生した背景には、部派仏教といい、釈迦滅後に教義的な解釈の違いから、仏教教団は細かい部派に分裂しました。そしてその中にいた僧侶は、自分たちが特権階級の様に振る舞い、在家信徒を見下すばかりか、細かな理屈をこねくり回して現実社会から遊離していたと言いますから、その当時の僧侶に対するアンチテーゼから、二乗は嫌われたのかもしれません。
だから日蓮宗派内の各教団にある、教学を真摯に学ぼうとする人達を「二乗かぶれ」なんてコケにするのは、全くのお門違いな事なのです。
そして「仏界」がありますが、これについて明確な説明はありません。
この二乗に菩薩界を加えたのを三乗と呼び、法華経の「開三顕一」では、人々を仏乗に至らせる道程だと述べました。
ここに仏界を加えた四界を四聖と呼び、人々が目指すべき境涯だという話もあったりします。
最後に仏界について、これについて具体的な説明をしたものはありません。
「但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ、」
(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)
日蓮もこの様に、他の九界が人の心にあるのだから、仏界もある事を疑ってはならないという説明に留まっています。
ただこの仏界というのは、他の九界とはあり方が異なるように思えます。
「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし、」
(開目抄)
この開目抄では、仏界に九界か具わり、また九界にも仏界が備わると述べています。こういった表現は、他の九界では為されていないのです。これについては、もう少し思索が必要だと思います。
思うにこの十界論とは、後に開く一念三千という論の為のパーツという様な意味合いであり、恐らく心の形の概要的なモノを表現するには足りると思いますか、この十界論だけで、人の心を表す事は出来ないでしょう。
よく「貴方の生命の基底部は○○界なのだ!」なんて決めつける言葉に、この十界論を利用している人が居ますが、それは間違いであり、逆に人の心を誤解させてしまう危険性もあるのです。
そんな事を言う前に、しっかりと勉強して欲しいものですね。