自燈明・法燈明の考察

政治形態について

 先週で仕事は一山超えたと思っていましたが、今週に入りちょっとバタバタが続いてしまい、なかなかブログ記事を更新する事が出来ませんでした。
 さて今回は政治形態について少し考えてみた事を記事にしてみます。お時間のある方はお付き合いください。

 実は仕事が忙しいと言っても、仕事が終わった後に気持ちの切り替えのために、アマゾンプライムビデオで「銀河英雄伝説」のアニメをちまちまとみていました。このアニメは田中芳樹氏の代表作の小説で、確か1990年頃に放映していたものです。最近になりリメイク版のアニメも製作されましたが、やはり昔のアニメの方が原作に沿っていると思いますので良いと思いました。

 この物語では専制君主制と立憲民主主義という政治体制の事について描かれています。一般的に専制君主制というのは過去の人類の政治制度であり、近代では民主主義こそ人類の取りうる制度という状況ですが、英邁な君主が執り行う専制君主の政治と、衆愚政治となった民主主義ではどうなのか。そこから民主主義として重要な事は何かという事を、二人の英雄の姿を通して描いている物語です。

 人類社会では国家という集団が出来てから、この政治体制については、何かと議論にもなり、それぞれの政治体制で悲劇も起きてきました。

 専制君主制では確かに英邁な君主の元であれば、人々は平和で幸福な生活ができるかもしれません。しかし英邁な君主というのは、それこそ稀有なものであり、人類歴史を振り返ってみると、多くは愚かな君主であったり、暴虐な君主であったりするので、そこで人々は多くの苦しみを味わってきました。まあ専制君主制ではそのような君主が出て来ても、人々はそれをひっくり返す事はほぼ不可能ですからね。

 一方で民主主義というのは、国の政治を司るものを、人々が「選挙」で選出するので、その指導者がたとえ凡庸であっても、悪政を行う者であったとしても、その責任はすべて政治家を選出した「国民」によるもであり、「選挙」で指導者をひっくり返す事も制度的には出来ます。その部分を見ても政治制度としては専制君主制よりはマシな事なのかもしれません。

 近年ではこの政治形態に「経済形態」も関係してきて「共産主義」と「資本主義」という言葉も出てきました。私は社会論の学者でもなく、経済論の学者でもありませんので、一市井の中にいる一人としての視点でしか語る事が出来ませんが、この経済形態のいずれにしても「民主主義」という制度を採り入れています。しかし名前は民主主義であっても、本当の民主主義なのか、形として民主主義なのかという違いもあったりします。

 この社会の経済形態について、例えば共産主義では経済的な格差を無くし、財産はすべて社会の共有財産として、国民にはみな等しく仕事と給与を与えて、ある意味で経済的にも平等を目指したのが共産主義でしょう。(ごめんなさい、ざっくりとした話です)
 一方の資本主義は、財産の私物化を許容し、社会の中では自由な経済競争を促し、国民はその経済的な競争の中で仕事をして給与を得る事となり、そこでは富の集中や貧困格差も発生します。

 本来であれば共産主義は理想的な社会の様にも見えますが、過去に例えばソビエト社会主義共和国連邦では、経済的な格差は消えたものの、その一方では共産党という指導的な政党の中での階級格差が生まれ、上位の階層ほど豊にかつ自由な生活が出来るようになり、下位の階層ほど貧しく自由の無い生活となってしまいました。しかも計画経済という、経済活動も「五か年計画」などで政治主導で取り組みましたが、帳尻合わせで「経済的な成長を成し遂げている」としていましたが、実際には経済的に破たんをしたりしていました。
 また共産主義においては仕事で業績を上げようと上げまいと、個人の収入には何ら反映されない事から、人々の勤労意欲は上がらない状況で、当時のモスクワの大手デパートでは、商品の陳列も簡素であって、購買意欲なんて無縁なものであったのは有名な話。しかも売り場に人達もやる気がなく、接客態度はかなりてきとうな態度だったそうです。

 また「共産主義に勝利した資本主義」なんて言葉もありますが、資本主義では富の集中がどうしても発生してしまい、富の大半を一部の「資本家」が独占し、多くの人は経済活動の上で搾取されてしまうという構図がどうしても出て来てしまいます。現にアメリカでは病気になっても医者にかかる費用がなく、切り傷を自分自身で縫合する人もいたり、虫垂炎という日本では軽く見られる病気であっても、その手術費用が数百万という、日本から見たら法外な治療費が当たり前の社会となっています。

 思うに人間というのは、自分自身の利益に敏感であり、その自分自身の利益のために働き、その利益の差により喜びもすれば嘆きもする生き物なんでしょう。だから常に自己の目先の利益により行動し、五年後や十年後の自身の事、また大きくは自分達の生きていく社会については、とても鈍感な生物だと思うのです。
 だから政治形態が専制君主であろうと民主主義であろうと、また共産主義や資本主義であろうと、なかなか社会の中で様々な格差が常に生じてしまい、結果としてその格差をテコとしての同種族内での争いが絶えない種族なのかもしれません。

 人間とは社会性を持つ生物です。けして個体で生きていけるほど逞しい生物ではありません。でも社会性を持つといっても、その社会に対して感受性を持ち、常に思考し敏感に行動する事が出来るという生き物では無いようです。
 自分自身の目の前の利益やその損失には敏感であっても、周囲への共感性はいまだ不足し、また多様な意見については受け入れる事がなかなかできない。そういう事なのではないでしょうか。

 まあ生物全般の中で、確かに思考する能力を持ち、自分自身を認識できる感性を持っていますので、そこは進化しているのかもしれませんが、まだまだ精神的な進化が必要な未熟な種族という事なのかと思います。これは私自身を含めての話ではありますが。

 そんな事を考えたりしています。


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