自燈明・法燈明の考察

人生とは苦難と悩みが付き物です

 今週も今日で終わります。一週間という時間はあっという間に流れて行ってしまうものですね。

 さて、最近の報道を見ていると、どうやら世界はまるでキングギドラの様な思考に支配されている様な印象を受けてしまうのですが、これを感じるのは果たして私だけなのでしょうか?

 新型コロナで「オミクロン株」の感染拡大が来ているとマスコミでは連日報道していますが、その割に医療現場では「みなし陽性」という事が言われていたりして、この感染拡大を防ぐには、ワクチン接種をシャワーの様に受けなければならないという県知事発言まで出る始末。
 そもそも感染判定を行う「PCR検査」にしても、その判定精度については当初から疑問視されている事もあり、従来の風邪からインフルエンザなど、新型コロナ以外でも陽性反応が出るという問題を抱えているにも関わらず、この判定によって「感染拡大」が騒がれています。

 なんかこの状況を見ていると、人類社会全体が「ええじゃないか騒動」を新型コロナを使ってやっているのか、それとも、とにかく全人類に強制的にワクチン接種を勧めようとする「新たなファシズム」に踊らされているのか。何やら訳の分からない世界になって来ていると思うのです。

 一方、多くの人達はマスコミから垂れ流される「感染拡大の恐怖心」に煽られてしまい、こういった情報の一貫性を読み取る事が出来ない位、混乱してしまっています。

 これからどうなっていくんでしょうね。

 さて今日の記事ですが、昨今の混乱した社会であれば尚の事、様々な苦難に直面している人も多くいると思いますが、この苦難という事について焦点を絞り、少し記事を書いてみたいと思います。

◆人生の上での苦悩に付いて
 できれば人生、苦悩が無く過ぎしていければ良い。これは万人に共通した考え方ではないでしょうか。日々何事もなく、まるで凪の海の様に平穏無事に過ごしていけたら、人生、これに過ぎたるものはないでしょう。
 しかし人間とは生きて行けば、大なり小なり、様々な苦悩に直面してしまいます。むしろ苦悩自体が人生そのものという人も少なからずいるのではないでしょうか。

 私は鎌倉時代の仏教僧の日蓮の事や、それを通じて仏教や釈迦の事を少し独学ですが学んできました。そこで解ったのは、日蓮も釈迦も、いずれもこの苦悩を自ら求めて人生を生きていたという事です。

 釈迦の人生を振り返ってみると、彼は釈迦族の王子としてこの世界に生まれ、望むのであれば王宮の中で何不自由なく過ごしていける環境にいました。しかし彼は、この人生の苦悩という事を自身の身の上に起きた事ではなく、王国の民の姿を通して実感し、出家という苦難の道を進みました。これは「四門出遊」という故事に見える姿ですね。

 これは日蓮にしても同様です。かれは才知を師匠である道善房に見いだされ、出家の後、比叡山延暦寺に修学に出て、若くして阿闍梨号を取得する事が出来ました。恐らく彼も望めば、出身地の安房小湊で、それなりの地位に付く事も出来たであろうし、鎌倉に出ても、恐らく鎌倉仏教界の中心人物に成りうるだけの能力は持っていたと思います。しかし彼は若い頃から肌身で感じた、この社会の不条理を正すべく、立正安国論を上呈に、それ以降、亡くなるまでの間、権力側と対峙するという苦難の道を歩んだのです。

 この二人に共通している事。それは「苦難」からけして目をそらす事なく、真正面に捉えて人生を生き抜いたという事では無いでしょうか。まあ誰もが当たり前だと思う事なんでしょうが、最近の私はその事を強く実感するのです。

「又このやまひは仏の御はからひかそのゆへは浄名経涅槃経には病ある人仏になるべきよしとかれて候、病によりて道心はをこり候なり」
(妙心尼御前御返事)

 これは有名な日蓮の言葉ですが、ここでは「病ある人仏になるべき」と言い、「病によりて道心はをこり候なり」と言っています。ここで「病」と言っていますので、これは単なる病気だけかというとそうではありません。
 人は病気になり、それが重病であればあるほど、自分自身の生き方を振り返ります。これは病気になって初めて人生の有限性、刹那性を実感できるからだと思います。そしてこれは病だけではなく、苦難が深ければ深いほど、人は同様に自分の人生の来し方と、これから先を考えていく事があり、そこで初めて「道心(生きる道を求める心)」が芽生えてきたりします。

 つまり人生の苦難とは、自分自身の生き方について、嫌が応にも見つめなおさせる機会となるのです。

◆苦難を自身を見つめなおす機会に出来るのか
 とは言え、苦難に遭遇すると人の思考はとかく「近視眼的」になりがちとなります。これは「目先の事に右往左往してしまう」という傾向があるのです。そうなると「道心」どころではなく、苦難をより倍増させてしまう結果にもなりますし、苦難が倍増するとより近視眼的な傾向が強くなってしまいます。

 その結果どうなるか。そう、泥沼化した苦難に飲み込まれて、身動きが取れなくなってしまうのです。多くの人は、こういった経験が多くあるのではないでしょうか。

 ここで大事な事は、苦難に会った時にどれだけ「楽観主義(オプティミズム)」の心を維持できるのかだと思います。しかし言葉で言った処で、この楽観主義の心を維持するのは容易な事ではありません。

 そのために人は「自分自身の心の姿」を理解する必要があると、私は考えています。簡単に言えば「自分は何者なのか」という事を、自分自身でしっかりと把握する事だとも言えるでしょう。そして本来、そういう事の役割を引き受けるのが「宗教」であると私は考えていました。
 しかし実際には、多くの宗教では、信仰させる導入部としてそこの事を説きますが、実際に深く関係すると、宗教は社会的な集団という側面もある事から、実は「宗教の駒」として人々を取り込み、動かしていくという傾向があると思うのです。

 創価学会や日蓮正宗でもこういった傾向はありますよね。

 本来は宗教に依存せずに、そういった事を知る機会、理解できる時間が得られれば良いのですが、どうも今の人類では、そこは難しい様な気もします。

 私はいずれの宗教でも、そこを学ぶ事で「自分自身の心の姿」を知りえる機会はあると思います。でも一方で宗教に関係する事で、そこに依存心など様々な事が起きてしまい、結果として求めた事と違う方向になってしまう事も多くあります。

 そうならない為にも、人々は賢くならなければなりませんが、そこが一番困難なのかもしれません。

 ただ人生の苦難とは、自分自身を理解する為の大きな機会である事は間違いないと思います。苦難を乗り越えた人ほど、人生の豊かさと深味を理解できると思いますので、それを忌避しない生き方に勤めていきたいものですね。


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