自燈明・法燈明の考察

立正安国論について➂

 立正安国論の話を続けます。

 それまでの「鎮護国家三部経」に対する捉え方は、その経典のもつ功力によって国の安寧を得るというものでした。この事については立正安国論の冒頭でも日蓮が述べています。

「或は七難即滅七福即生の句を信じて百座百講の儀を調え」

 ここで言う「百座百講の儀」というのは、仁王会の儀式の事で、仁王教巻下護国品第五などにあるものです。鎮護国家・万民豊楽を祈り、天変地異・疾疫流行などを祓うために、百座を設け、百法師を講じて、仁王経を講ずる法会を言いました。
 鎮護国家の仏教では、『仁王護国般若波羅蜜経』や『金光明最勝王経』に説かれている事で、これらの経典を供養することで国家が守護されるという考え方であり、その事から仁王会や最勝会と言った法会を開き、そこで経典を儀式として講義する事を行っていたのです。

 しかし日蓮の考え方はこれとは異なっていたのです。

◆経典の功力には依らない
 日蓮は立正安国論の冒頭に、以下の言葉を書いています。

「旅客来りて嘆いて曰く近年より近日に至るまで天変地夭飢饉疫癘遍く天下に満ち広く地上に迸る牛馬巷に斃れ骸骨路に充てり死を招くの輩既に大半に超え悲まざるの族敢て一人も無し、然る間或は利剣即是の文を専にして西土教主の名を唱え或は衆病悉除の願を持ちて東方如来の経を誦し、或は病即消滅不老不死の詞を仰いで法華真実の妙文を崇め或は七難即滅七福即生の句を信じて百座百講の儀を調え有るは秘密真言の経に因て五瓶の水を灑ぎ有るは坐禅入定の儀を全して空観の月を澄し、若くは七鬼神の号を書して千門に押し若くは五大力の形を図して万戸に懸け若くは天神地祇を拝して四角四堺の祭祀を企て若くは万民百姓を哀んで国主国宰の徳政を行う、然りと雖も唯肝胆を摧くのみにして弥飢疫に逼られ乞客目に溢れ死人眼に満てり、臥せる屍を観と為し並べる尸を橋と作す、観れば夫れ二離璧を合せ五緯珠を連ぬ三宝も世に在し百王未だ窮まらざるに此の世早く衰え其の法何ぞ廃れたる是れ何なる禍に依り是れ何なる誤りに由るや。」

 この立正安国論の冒頭には、当時の社会の悲惨な状況を述べ、それに対して様々な宗教や仏教の宗派が、こぞって様々な儀式を行い、それを対治しようとした事が述べらえていて、そればかりか国家の政治としても「徳政令」という救済策を講じて来た事が述べられています。しかしそれらは全て「然りと雖も唯肝胆を摧くのみにして弥飢疫に逼られ乞客目に溢れ死人眼に満てり」というもので、その状況は何も変化が無かった事を述べています。

 星の運行も正常であり、伝承でもこの日本は守られると言われているのに、何故この様な事となってしまうのか。この冒頭の部分は、日蓮が幼少の事から考えて来た事を端的に述べているのです。

 そして日蓮は比叡山延暦寺の修学で、これに対する答えを得ていました。それは立正安国論では以下の様に語っています。

倩ら微管を傾け聊か経文を披きたるに世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず。

 つまり日蓮が経文を紐解いてみると、世の中がみな正しい事に背いて、悪に帰依している。その為に諸天善神が国を捨て去ってしまった事が原因だと言うのです。

 つまり鎮護国家仏教とは言え、それらの経典を尊び、それを儀式として講義をして、その功力を期待しても、それらは今のままでは「悪に帰依している」という事だと、日蓮はここで述べているのです。

◆正と悪について
 では日蓮が言う「正」と「悪」とは何でしょうか。この部分を読むと、一般的な正義とそれに対する悪を想像してしまいますが、どうやら立正安国論にある事は、そんな事とは少し違うようです。
 立正安国論を読んでみると、この後に客人からの質問に対して金光明経に云く「其の国土に於て此の経有りと雖も未だ甞て流布せしめず捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず云々」と様々な経文の内容について語り始めています。これらの経文にある「此の経」とは、従来であれば、それは金光明経であったり、それぞれの経典を示す言葉と解釈をされて来ました。だから仁王会や最勝会といった法会では、それぞれの経典を講義し、それを供養する事によって経典の功力を頼んでいたのでしょう。しかし日蓮がこの立正安国論で読んだ各経典の読み方では、それらの経典(法華経以外)にある「此の経」とは、全て「法華経」を指す読み方としているのです。

 つまり経典の解釈の考え方を、日蓮が大きく変えたものであったと言う事なのではないでしょうか。

 従来の鎮護国家の仏教に於いては、それぞれの経典に功力があると考えていた物を、日蓮はそれらの経典はすべて法華経に対する説明をした内容であると位置づけに変えました。そしてその様な仏教の解釈を「正しい解釈の仕方=正」とし、従来の様に一つ一つの経典に功力があるいう解釈を「間違えた解釈の仕方=悪」と呼んだ。私はこの立正安国論の冒頭にある内容から、この様に解釈すべきでは無いかと考えました。

 仏教の教えとは、法華経を中心として出来ている体系であり、そこを間違えてしまうと、結果としてそれは間違えた解釈となり「悪に帰依する」事になる。鎮護国家の教えとしても、当然の事、法華経を中心として尊ばなければならない。

 これこそが日蓮の主張したかった事なのではないでしょうか。

 この立正安国論とは、やもすると日蓮の独りよがりとか、独善的な思想だとか言われますが、この事を理解して読むと、この日蓮の主張についても、もう少し理解が深まるのではないかと思いました。


クリックをお願いします。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「私の思索録」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事