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バルカンの古都ブラショフ便り

ルーマニアのブラショフ市へ国際親善・文化交流のために駐在することに。日本では馴染みの薄い東欧での見聞・体験を紹介します。

ブルガリア(1) 首を縦に振らぬ国民

2007年11月25日 00時05分48秒 | ルーマニア事情
 承諾の場合は「首を縦に振る」、拒絶の場合は横に振る。これはホモサピエンスに普遍の行為と思っていた。ところが、これを逆にする国民が存在するという。それはブルガリア。それならドナウを隔てた隣国だ。試しに行こう。  

 ブカレスト駅を夜7時半に出る列車に乗ると、翌朝6時にブルガリアの首都ソフィアに到着する。寝ている間に着くから便利である。もっとも国境越えの時に出入国検査があり、途中で起されるのが難点であるが。
切符は安い。寝台車は、一室2人・4人・6人の区分があるが、一番高い2人部屋でも往復乗車券・特急券ともで15,000円くらいである。

 到着したら、暇そうにしているブルガリア人に次々と質問してみた。「美人は好きか?」「夏は暑いか」 ・・・・・すると、・・・・・ おうおう!首を振るではないか。「ダア(イエスの意味)」と言いながら、しっかり横に。そのうち何でそんな当たり前の質問をするのだというような怪訝な顔をし出したので、そのあたりで止めておいたが、これで旅の当初目的は達せられた。

 
屋根だけを地上に出す教会。後ろは旧共産党本部

その隣に当時建てられたイスラム・モスクの威容
 
ロシア教会

落ち葉と教会
 
公園の落ち葉
 
落ち葉を掃く人
 
路面電車や車の合間を行く馬車

  ソフィアは秋色真っ最中。他の欧州各国と同じく枯れ葉は黄色一色で、日本のように紅色は混じらない。これが石の建物と調和して実に良い。
どうしても、ルーマニアと比べてしまう。今年1月、ともにEU加盟が認められるなど、経済環境や街の質素さなどはルーマニアと似ている。
しかし、一つの大きな違いは、トルコとの歴史的関係であろう。ルーマニアは南部地方を除いてオスマントルコの侵入をほぼ防ぐことが出来たが、ブルガリアは長くオスマントルコの支配下に置かれその圧政に苦しんだ。その象徴が市の中心部にある。キリスト教会は屋根だけ地上に出した半地下になっており、いかにも肩身狭く過ごしたであろうことが容易に想像される。その隣に当時建てられたイスラムモスクは堂々としている。

  次回は、ブルガリア最大の観光地リラの僧院について報告します。お楽しみに。

追記: (2008年3月15日記)
日本にもブルガリアと同じ首の振り方をする所があることが判明しました。何と、それは神奈川県 !
里謡に曰く: 
 一生添うとは男のくどき、
 嫌じゃ嫌じゃは女の癖、
 相模女は嫌じゃと首を縦に振る
昔から女はよく分からない。嫌よ嫌よも吉のうち、と言いますから。
以上です。


音楽会と演劇

2007年10月01日 23時11分49秒 | ルーマニア事情

多用のため、しばらくブログをサボっていました。読者の皆様には申し訳ありませんでした。再開しますのでご愛読下さい。

 ルーマニアの方が日本より進んでいる物を一つ挙げよと言われたら、私なら「演劇と演奏」を挙げるだろう。ブラショフは30万人都市だが、人口の割に劇場、音楽会場は多い。また、これら専門の会場のほかに、教会ドームや城も会場になる。毎週どこかでクラシックの演奏をしているから、演奏頻度は日本より多いと言えよう。

 
「オペラ劇場」ブラショフの主要劇場の一つ (この日はウクライナ・バレー「白鳥の湖」を上演。)

 先日、ブラショフ名所の黒の教会で天満敦子さんのバイオリン演奏会があった。会場に入って驚いたのは、聴衆150人ほどのうち何と半分が日本人だったこと。ブラショフには日本人は4人くらいしか住んでいないのに・・・・・ 一体どこから湧いて(失礼)来たのかと思って聞いたら、天満さんの追っかけで日本から来た人達とのこと。「追っかけも地の果てまで来る時代になったのか」と感慨ひとしお。


演奏を終えて追っかけファンに挨拶する天満さん。(黒の教会前で)

 圧巻はやはり「望郷のバラード」。この曲は、日本で言えば「荒城の月」のような国民的愛唱曲である。ベストセラー「百年の予言」にも登場する。天満さんは、いち早くこの曲をオハコにし日本に紹介した。私は彼女の演奏は素晴らしいと思ったが、ルーマニア人の中には、「アツコの演奏は器用だが、心が足りない。」という人もいるとか。外から見れば上手でも、母国の人から見れば何かシックリいかないものがあるということだろうか? 我々日本人が「蝶々夫人」を見たときの違和感のようなものかな? 外国人が自分なりの解釈を取り入れて発展させてゆけば、それはそれで一つの進化にもなるとも思うのだが、母国人から見れば所詮亜流と映ってしまうというのは避けられない傾向のようだ。 とにかく異文化交流は難しい。

来月は、黒教会でパイプオルガンの演奏会がある。あの巨大なパイプからどんな音が出るのか? ブラショフへ来る前から是非聞きたいと思っていたので楽しみにしている。


帰国報告会 (7月27日追記付き)

2007年07月19日 17時29分04秒 | ルーマニア事情

帰国報告会が行われることになりました。私が、ルーマニア事情と当センターの活動について話し、在日ルーマニア人がルーマニア人から見た日本の印象について話します。本ブログの読者の方のご参加をお待ちしています。

日時:7月26日(木)7:00 pm
場所: スイングホール (武蔵境駅北口前)

《7月27日追記》
昨日は46名(関係者を入れると56名)の方が集まって下さいました。熱心に聴いて下さり有難うございました。


自然生活そしてコウノトリ 

2007年05月21日 14時53分13秒 | ルーマニア事情
  文明から離れた寒村で自然とともに暮らしてみたい。・・・そんな夢を持っておられる方も多いことでしょう。日本人女性J子さん(30代)も その一人。でもやることは、スケールが大きい。オーストリア人のご主人(40代)と有機農業をしながら栗を植林して生計を立てようと土地を物色して、4年 前にルーマニアの寒村に移り住んだ。この村は嘗ては数100人が住んでいたらしいが、今は15人の、それも老人しか残っていないという典型的な過疎村であ る。ここを選んだのは、1キロメータくらい続く広い土地を数百万円で買えるのは当時ルーマニアの僻地しかなかったからだという。しかし、J子さんは東 京育ちで農業などしたこともないし、ご主人も同様。ルーマニア語を覚えたのも現地へ来てからというから、その行動力には敬服せざるを得ない。

  お誘いを受けて、ブラショフから車で三時間、一泊でおじゃました。栗の木は育ち始めたが、ジプシーと山羊という思わぬ伏兵が 待っていたとのこと。ジプシーは土地の所有などという概念は無い人種。実がなっていれば、誰の物だろうと取って行く。放牧された山羊も新芽が出てくれば、 すぐに食べてしまう。これは、日本やオーストリアにいる時には考えも及ばなかった想定外の課題で、目下対策を検討中とのこと。

   ところで、この村に来てみると、本当に文明から離れた場所だと言うことを実感する。自宅の車以外の車はこの三年間来たことがないというくらいだから、人工 騒音は無いといってよい。昼は、鳥と犬の鳴き声、それに裏の養蜂場からの蜂の羽音がするだけ。夜は時折、鳥の声と獣の遠吠えが微かに静寂を破ることがあるのみ。あ あ、こんな暗騒音のない世界があったのだ、そしてこんなに心安らぐものなのだと、再発見させられた。更にこの時は月がなく、外は屋内からの漏れ灯があるだけ。漆 黒の世界とはこれか、という思いであった。この発見も嬉しい。

 
  翌朝、 屋根にコウノトリが留まった。近くの電柱に巣を作って子育てをしている。コウノトリは体も巣も大きくて端正で、まるで絵本から抜け出たよう。調べてみると、日本 では野生コウノトリは1971年を最後に姿を消したとのこと。 (それから、少子化が始まった?) 貴重な体験をさせて貰った。

雪は降る ~♪~♪♪~

2007年02月11日 18時47分18秒 | ルーマニア事情

 ブラショフの真冬は昼間でも零下10~20度にもなり、街は雪に閉ざされる。外にいると足下から冷たさがしんしんと伝わり、顔は寒さを通り超して痛みを感じる。 ・・・ 赴任前はこんな風に聞いていたのだが、今年は全くの異常暖冬。たまに雪が降っても、数日で消えてしまう。気温も零下5度くらいまで下がった日が数日あったくらいで、たいていは零度から10度くらい。東京と変わらない。それでも雪の降った数少ない日を選んで雪景色の写真を撮りました。


 ブラショフ雪景色(向こうはツンパ山)
 ブラショフ中心街(尖塔は黒の教会)

 暖冬は助かるが、楽しみにしていたスキーがなかなか出来ない。ポイアナ・ブラショフという欧州でも有数の、外国客が多いというスキー場が、何と車で20分で行ける。こんな恵まれた所に住んでいながら雪不足で足止めとはと悔しい思いでいたが、先日多少降雪のあった日を見計らってスキー場に出かけた。高低差の大きい雄大なスキー場だった。学生時代は早朝からリフトの終了時間ぎりぎりまで滑っていたものだが、今回20年振りにやってみたら、2時間でもうグロッキー。体力の衰えをいやという程実感した。

スキーと靴一式のレンタル代は約1,800円、リフト代が2,000円。平均月収が4万円前後と言われる一般のルーマニア人にはちょっと贅沢な遊びということになる。スキーをしない(できない)人達は、近くの斜面でソリ(といってもビニール袋を尻に敷いただけのもの)遊びに興じていた。家族・友人どうしで結構はしゃいでいた。

 
 ポイアナブラショフスキー場

 ビニール袋製のソリで遊ぶ市民


茶道教室

2007年01月27日 20時32分38秒 | ルーマニア事情

当センターでは、日本語・書道教室を軸として絵手紙教室・折り紙教室・着付け教室・茶道教室を行っている。茶道の講師はブカレスト大学の男女2人の学生で日本で修得した。畳はもちろん無いので床に毛氈と茣蓙をしくなど不便はあるが、内容は鉄瓶を使った本格的なもの。

嘗ての日本では、嫁入り前の女性のたしなみとして、お茶とお花は一通り習っておくということがごく普通に行われていたように思うが、いつの間にかすたれてしまった。逆にこんな異郷で、茶道に新鮮さを覚えて熱心に習いに来る若者がいる。こういう現象を見ていると、文化とは何なのかと考えてしまう。本国で廃れる原因は?海外での興味は表層的か?海外普及とともに本質が変化しないか? いろんな意見があろうが、自然院は、日本文化は日本人が最も深く理解できる筈だという考えに拘らないで、たまたま日本で発明された優れた文化をいろんな国の人達が実感できる機会が増え、新たな視点からの発展の可能性が生まれることは結構なことではないかと、割り切って考えようとしている。日本発の寿司が世界各地で同化し進化発展しているように。ただし、柔道のように世界化した代償として単なる格闘スポーツの一種目に成り下がったような形が良いのかどうかは、未だ疑問が残る。発信国の責任は残ると思うし、責任が果たせなくなった時は自然淘汰に委ねるだけで良いのか? このテーマはライフワークである。


あまりにチャウシェスク的な「国民の館」

2007年01月21日 16時06分01秒 | ルーマニア事情

人間は絶対的な権力を持つと何を建てたいと思うのだろうか? 一つの実例がここにある。ブカレストにある「国民の館」。「国民の・・」とは名ばかりで、実はチャウシェスクによるチャウシェスクのための権力誇示モニュメントである。ただ巨大な物を造りさえすれば、国内外の畏敬を集めることが出来るという単純な発想で、地上建造物としては世界第2番目の大きさ(一番は米国防省庁舎ペンタゴン。)というこの建物が造られた。

元々、ブカレストはバルカンの小パリと呼ばれ、美しい建物や通りを有する古都であった。下の写真を見て頂きたい。右側の白い優雅な建物と、左側の茶色っぽい無粋な建物が見える。元々は白い建物が周囲を占めていた。ところが共産党時代に、ここに大通りとその両側にアパート列を建造することになり左側の茶色い建物が割り込むような形で建てられた。将に「木に竹を接いだ」ように、異質の建物が不調和に繋がっている。

チャウシェスクは共産党関係の巨大な建物や大通りを街中至る所に建設し、そのために旧市内の歴史的建造物はことごとく破壊されてしまった。その最たるものが、統一大通りである。パリに憧れた彼はシャンゼリゼ通りと同じ長さ・幅の大通りを造ってしまった。そのルーマニア版シャンゼイゼ通りの終着が「国民の館」である。 
 
統一大通りから国民の館を望む  豪華な大理石柱が並ぶ巨大ホール

宮殿の内部は、天井・壁・窓枠に至るまで純金装飾が施され、豪華な柱はルーマニア各地から集められた最上級の色とりどりの大理石がふんだんに使われている。贅の限りを尽くしたという感じだが、その陰で国民は「欧州での最貧国」と言われるような飢餓を強いられた。一説によると、晩餐会で宮殿のシャンデリアが灯されるごとにブカレスト市内の1/3が停電になったという。
現在、宮殿は見学できるが、入場料は日本円で約2000円。当国平均月収の約一割に当たる。 説明は全て英語で、明らかに外国人観光客をターゲットにしている。故チャウシェスクの遺産は今は外貨稼ぎに貢献している。(高いコストを払って。)
とにかく、巨大さには圧倒されるが、知的なもの、美的なものからは程遠い。乱暴な比較かも知れないが、その百年ほど前に、カロル国王が建造したペレシュ城(2006年11月21日ブログ参照)がうっとりとするような美的感動を人々に与えることと比べれば、何たる違いであろうか!

話は飛ぶが、自然院は80年代サウジアラビアに駐在したことがある。第2次オイルショックの頃で世界から集まるオイルダラーを使って国造りに沸き返っていた頃である。当時の国王は首都リヤドの因習的な風土を嫌い、開放的な紅海に面したジェッダに理想の私的宮殿を造った。その建設を請け負ったのは日本の大手ゼネコンK建設。懇意にしていた関係者の方の手引きで引き渡し前の宮殿を見せて頂いた。世界一の、とてつもない大富豪のお宅である。興味津々。庭は砂漠にふんだんに水(原油を燃やして海水を蒸発させ、その蒸気から作った水)を撒いて緑化したもの、建物は分厚い大理石で覆われた堂々としたもの。将に「砂上の楼閣」。「王様がここにお尻をおろすのかな」と思いながら金ぴかの便座に触ったりした。(不遜なヤジウマ) 真ん中に大きな噴水がある部屋があったり(下の写真)するのはアラビア的。もっとアラビア的なのは、大きなプールのような瓢箪型お風呂で、これが4箇所ある。イスラム法では、4人の妻とその家族を平等に扱わなければならないという掟があるので、なるほどと納得した覚えがある。イスラムではアラベスクに代表されるように直線模様が珍重されるなど、日本人とは美的感覚が全く異なる。従ってこれを自然院が評することは固より烏滸がましい限りだが、それを承知で言わして頂ければ、とんでもない贅沢をしているというほかは、それほど感動するものではなかった。

これらを見ると、所詮、人間は有り余る富があっても絶対的権力があっても、それだけでは大したことはできないものだという気がする。 (無理に自分に納得させている面もあるが。)


ブラショフ復帰

2007年01月12日 23時11分29秒 | ルーマニア事情
今朝ルーマニアへ帰国(?)しました。一ヶ月ぶりに帰ってくると、やはり「懐かしいなァ」という感がします。日本での滞在は短期間でいろいろ果たすべき渡世の義理があり、慌ただしく過ぎてしましました。そんな訳で、本ブログ更新も滞りましたことお詫びします。

さて、当地は異常な暖冬です。例年なら10月から雪が降り、昼間でも零下となるところですが、現在街には積雪がありません。(クリスマスの前後のみ降雪があり、ホワイトクリスマスとなって良かったと人々は喜んでいますが。)新聞によると、ニューヨークでも暖冬で、セントラルパークでは半袖でくつろぐ市民の写真が出ていました。北半球が全くの異常気象ということで、楽ですが、ちょっと気持ち悪いですね。

ブカレスト大学における書道授業

2006年11月27日 18時32分21秒 | ルーマニア事情

 小泉改革の一環として2004年に国立大学が法人化された。この時から国立大学といえども独立採算を強いられる事となり、企業経験者を産学協同推進者として一斉に登用し始めた。自然院もその一人としてT大学の産学コーディネーターを勤めた。一応大学人なので「先生」と呼ばれることもあった。しかし学生を教える訳ではないので「先生」には違和感があった。やはり本当の先生らしく教壇に立ってみたいと思った。それが、遂に実現することになった。

 場所は、日本なら東大に当たるルーマニア最高学府ブカレスト大学。日本語学科の学生40人(教室の都合で20人ずつ2回に分けて)に書道を教えることになった。隔週木曜日ということで、10月から始まった。  9割が女学生。「箸が転げても可笑しい年頃」というのは万国共通で、実に明るく、ジョークを言うとよく笑う。ノリが良ろしい。自然院が手本を書くと40の瞳が固唾を飲んで見守る。書き上げると直ぐに見せに来る娘もいれば、最後まで見せたがらないのとか様々。

 全員が筆を持つのは初めてだが、楷書・行書・草書・かなと進み、学年末には中国の書聖や日本三筆の臨書まで行きたい。こんな超特急シラバスを日本の習字の先生が見たら目を剥くかも知れない。しかし、ここでは日本の小中学生の授業のように基礎から積み上げて字を綺麗に書かせること(いわゆる習字)を目的とするのではない。書道である。多少背伸びをしても、臨書という疑似体験により先人の書の素晴らしさ(例えば、王義之の精緻さ、玄宗皇帝の大胆さ、空海の多彩さなど)を感じ取り、それにより日本文化の奥深さを実感する人が一人でも増えれば幸いと思う。
かくて、師弟のチャレンジが始まった。

  独り言: 
 それにしても、自然院の30余年にわたるサラリーマン時代の専門分野である機械工学や国際マーケティングではなく、趣味の書道で教壇に立つとは !! ・・・・・・・・ 神様、またまた悪戯ですか?