バルカンの古都ブラショフ便り

ルーマニアのブラショフ市へ国際親善・文化交流のために駐在することに。日本では馴染みの薄い東欧での見聞・体験を紹介します。

ルーマニア漫画事情

2006年10月26日 23時34分37秒 | ルーマニア事情

 意外に思われるかも知れませんが、欧州では日本のマンガってすごく人気があります。前にロンドンに行った時も、「MANGA KAFE」というのが何カ所かあって、のぞいてみたらサムライのパネルが一杯張ってありました。MANGAという日本語は、KARAOKEに次いで市民権を得たように思われます。
 いつの間に日本のマンガがこんなに世界を制覇したのでしょうか。私の知る限り、もともとマンガは欧米の文化であったように思えます。例えば仏紙ルモンドの風刺漫画などは歴史の教科書にも登場するくらい昔から定評があるし、世界大戦で活躍するアメリカの飛行士スヌーピー(ピーナッツ)などは世界のマスコットにもなっています。これらの4コマまたは1コマ・マンガのジャンルから更に発展し、長編小説にも匹敵するくらいストーリーがしっかりしていて描写力の優れたMANGAが日本で独自の発展を遂げたと言うことでしょうか。

 ここルーマニアでも、MANGA(アニメ)は大人気です。アニメチャンネルというアニメ専門のTVチャンネルがあり、夜のゴールデンタイムは、ほとんどが日本製アニメで占められています。私にとって嬉しいのは音声が日本語のまま出てくること。ルーマニア語の字幕が目障りです。(完全に異邦人!!)  配役も日本語のまま(しかも漢字で)出て来るので、おお懐かしいという感じです。内容は、冒険もの、SFもの、セーラー服ものなどです。
  
   

 日本語で配役(懐かしい )  純情(?)セイラー服もの 

 ブラショフの当センターのシンパで自ら「オタク」と称する熱烈マンガ・ファンがいます。彼が先日「オタク・フェスティバル」を主催しました。これが、その時のポスターです。

  会場では、「アキバ系」とか「オタク」について秋葉原で変な外人がインタービューしている様子を映写(ルーマニア語字幕)し、いわば日本のデジタル化風俗として紹介していました。結構若者で会場は賑わっており爆笑も絶えず、受けは上々と言う所でした。自然院も、ここで初めて「フィギュア系」とか「メイドカフェ」とかいう言葉を知りました。海外に来て外人に日本の風俗を教えてもらうというのも変な話ですが、これが日本の最先端の風俗として紹介されているというのもちょっと違和感を覚えます。これってオジンになった証拠でしょうか?

 当センターでも、マンガ教室を開催しています。インストラクターは素人マンガ画家ですが、なかなかのもの。マンガを書いてみたいという若者に人気があります。

  


寒い朝

2006年10月26日 19時56分51秒 | ルーマニア事情

先週急に寒くなり朝の気温が2度となりました。「いつもアパートの前にいる鳩たちは、こんな寒い朝はどうしているのかな」と窓から覗いてみたら・・・・・さすがは共産党に鍛えられた鳩ですね。体を寄せ合って温め合っていました。目白は寒い時は目白押しをして暖め合うそうですが、ここでは鳩もね。

でも、どの社会でも仲間に入り切れない者って居るもの。下の鳩は独りで交互に片足を上げて羽の中で暖めていました。 鳩の後ろに見えるのは、掃除のおじさん。前に「ブラショフは掃除が行き届いているので、清潔」と書きましたが、実はこのおじさん達が、清掃車とクルーになって夜から朝に掛けて毎日掃除をしてくれるのです。この清掃には市当局は随分力を入れているように思えます。
「寒鳩と掃除のおじさん」。この二つは全く接点のないというアンチテーゼに、この写真の良さを感じるのですが。(ちょっと強引なこじつけ)


ブラショフはワンダーランド

2006年10月23日 20時51分36秒 | ルーマニア事情

例えば、下の写真。外に張り出した出窓、バルコニー、彫刻、壁画・・・・・・・・・・・・・。どこかの博物館かと思われるかも知れませんが・・・・・

実は、これ、私の住んでいるアパートの隣の「普通の」家なんです。因みに、お向いのお宅はこれ。

これらの家が作られた14世紀頃は、おそらく貴族の館だったのでしょう。でも、700年ほどが経ち、今は普通の人たちが普通に住んでいます。もちろん水回り、内装は改造されていますが、外装は基本的に当時のまま。

もっとも写真では、豪華に見えますが、よく見ると壁はあちらこちら崩れ落ち、ペンキは何度か塗り直されて、それでも剥げ落ちた箇所が多く、鉄格子は錆だらけというのが実情です。初めての人にはオバケ屋敷に見えるかも知れません。
荒れ果てた感じですが、掃除が行き届いているので不潔感はありません。何百年も昔の遺産を大事に慎ましく使っている。中世と現代」、「絢爛と質素」が交錯する空間、これが、ブラショフの素顔、醍醐味です。


ルーマニアとサッカー

2006年10月18日 19時48分18秒 | Weblog

昨夜、ブカレスト・チームとマドリ-ド・チームの試合があった。ヨーロッパ杯をかけた大きな試合であることと、ベッカーなどスター選手がくるというので、朝から国中騒いでいた。その割には、キックオフの時間になっても、なかなか試合が始まらない。準備体操をしている選手もいる。ルーマニアでは、少し(または、かなり)遅れて試合が始まることが常識だそうだ。秒単位でコマーシャルを売っている日本のTV放送から考えると、信じられないことかも知れないが。・・・ 結果は、4-1でブカレストの負け。「マドリッドは大金を積んで世界中から選手を集めているのだから仕方がないよ。」と、当地サポーターの言。

こういう大きな試合があった後は、決まってブカレスト大学広場は明け方まで群衆が騒ぐのだそうな。ルーマニアは、やはりラテンの国。サッカー熱は尋常ではない。先日もTVでサッカーの試合を見ていたら、興奮して騒いでいるサポーター達に警備員が高圧ホースで水を掛けて鎮圧(?)していた。サポーター達はキャーキャー逃げまどいながら熱狂的に声援していた。「こんな事はよくあるのか?」と現地の人に聞いたら、「いや、昨夜の騒ぎは例外だよ。」と言っていた。しかし、数日後の試合でもやっぱりホースで水を掛けていた。

サッカーとラテンというと、30年前のブラジル出張を思い出す。リオデジャネイロでブラジル人アテンド氏がサッカーを見に連れて行ってくれた。試合前から太鼓の音がドンドンと低く響き渡たり、不思議な陶酔感を呼び起こしていた。ボールがゴール近くに来るたびに総立ちになって周りは雄叫びの渦。これがゴールすると大変。男女構わず周囲の他人同士が抱き合い頬ズリし合う。わたしも抱きつかれた。(オバさんだったと思うが。)試合が終わると、帰るのがまた大変。乗り合いタクシーが一般的な交通手段となるが、運ちゃんは出来るだけ沢山の人を乗せたいから、同方向の客を募ってキューキューに押し込む。そしてタクシーの中では、さっきの試合についての評価に花が咲く。というか、それぞれが唾を飛ばしながら、がなり立てているといった方が正しいか。私はポルトガル語が分からないからその輪に入れず、大男達の大声に挟まれながら独りポツネンとして、車が一刻も早く目的地に着くことをひたすら祈っていた。  ホテルへ着きチェックインしている間に、かのアテンド氏はゲストである私の事はほったらかしで周辺の人たちに先ほど見た試合の様子をと得々と報告していた。彼の周りは黒山の人だかり。
ブラジルでは、優勝出来なかったチームの監督の家が焼かれたり、家族が誘拐されたり、命駆けのイベントである。ちょっと付いてゆけない。


ルーマニア難病姉妹救済のための募金活動

2006年10月17日 20時53分06秒 | 活動

ブラショフの当センターで以前日本語を学習されていた女性の二人のお子さん(4歳と10歳の女の子)が脊索萎縮症という難病を患われた。手術費用だけでも約900万円かかるといわれるが、平均年収が30-40万円のルーマニアにおいては個人で賄えるような額ではない。そこでルーマニア全土で手術費用捻出のための募金活動が盛り上がった。

当センターとしても、お母さんが嘗ての教え子で日本語をお子さんに教えるような親日家でもあり、ブラショフとは姉妹都市であることから、日本からも支援しようということになり、前所長と自然院が発起人となり7月に募金活動実行委員会を立ち上げた。ご協力を申し出て下さったボランティアとともに、関連団体への呼びかけ、チャリティ・コンサート、街頭募金などを実施した。マスコミでは読売新聞が記事として取り上げた。街頭募金は9月初頭の2日間、中央線駅前、炎天下で4時間立ち詰めは辛かったが、市長・市議会長なども呼びかけに加わって頂き盛り上げる事が出来た。
(写真)
少し意外だったのは、若者たちからの寄付が多かった事。(失礼ながらこの世代には一般的にシラケというイメージを持っていたので。) これには皆さん驚かれたり頼もしく感じられたり。こうして、多数の方々のご支援を頂き、義援金は総額118万円に達した。

募金以外に千羽鶴を贈ろうという動きも高まった。チャリティショウ後の懇談会で有志の方々が折り始めた。その時ある婦人が言われた。「自然院さん、千羽鶴の謂われを知っていますか?原爆症を患った少女の闘病物語がルーツですよ。」 聞いてみると、・・・・・ 広島で被爆した2歳の少女が原爆症と認定され広島赤十字病院で入院生活が始まった。「千羽折れば願いが届く」と祈りながら、薬包紙で鶴を折り始めたが、願い空しく12歳で人生を閉じたという。その時まで折り上げた鶴が644羽、残りの356羽は同級生によって折られ彼女と一緒に埋葬されたという。私の子供の時代、たしかに医者からの薬はほとんどが粉薬で正方形の紙に包まれていた。物資の乏しかった戦後の時代、残った紙は少女にとって夢を叶えてくれる貴重な財産と覚えたのかも知れない。

10月4日。ブラショフ市庁舎で、ブラショフ市長立合のもと、新聞・TV取材陣が見守るなか日本からの義援金贈呈式が行われた。義援金は日本から訪問中の市議会議長から難病少女の母親に手渡された。千羽鶴については自然院から、その背景を説明した。「広島で原爆症と闘った少女とブラショフで難病と闘っておられる少女をダブらせて、多くの日本人が快気を願って心を込めて折りました。」と説明すると会場は厳粛な雰囲気に包まれた。通訳さんは目をウルウルさせて通訳された。贈呈式の模様は地元TV・新聞で、かなり大きく報じられた。 (下記は贈呈式を報じる地元各紙) 新聞記事のWEB版は下記URLで見れる。(ルーマニア語だが、数字と固有名詞をたどれば大体の意味は掴めます。) http://www.monitorulexpres.ro/?mod=monitorulexpres&a=citeste&p=actualitate&s_id=31389

朝は、当地TV局のモーニングショウに約30分生出演、日本とルーマニアの交流についてインタビューを受けた。TVスタジオ入ったのは初めてだが、ずいぶんライトが眩しいものだと感じた。


バルカンの月見

2006年10月07日 00時08分58秒 | 活動

昨日我が家の窓から見た満月の写真です。仲秋(旧暦八月)の名月は今年は九月にあった。だから、この十月の月は晩秋の名月ということになります。

 月づきに 月見る月は多けれど 月にあらぬはこの月の月

やはり、秋の月は澄み切って良いですね。ブラショフのシンボル・ツンパ山に掛かる名月です。   

 天の原 振りさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも

 おなじみ阿倍仲麻呂です。命がけで渡航した遣唐使の頃と時代は全く異なるが、バルカンで見る月は日本と同じかなァと素朴な疑問は湧いてきます。(同じでした。・・・念のため)

高校生の頃、「何故昔の歌には月が沢山出て来るのだろう?」という疑問があった。その疑問に見事に答えてくれたのは、旺文社の「古文の研究」。「昔の夜で、一番明るかったのが月だったから。」 ・・・・ この一文で、それまで嫌いだった古文が一気に好きになってしまった。ある満月の夜、近くの山の頂上に登って月の明るさを体験してみた。すごく明るい。しかも青白い不思議な世界だった。この本は他の受験参考書に比べてユニークであった。例えば、  

  * 昔の御姫様は髪が長かったのでシラミ退治が大変だった。   
  * 絵巻物では御姫様はいつも十二単だが、夏は数枚だった。  
  * 藤原道長は、「この世をば我が世と思う」ほど栄華を極めたが、
      現代人の 方が彼よりもすっと贅沢な物を食っている。 
 * 昔の暖房はチャチだった。貴族といえど、手を炭にかざす程度で寒かった。

従って、昔の貴族より現代の庶民であることを有り難く思いながら古典を読めということで、当時のわたしには目に鱗だった。著者は、京都産業大学(?)の小西甚六先生と記憶するが、四十五年くらい前のことなので自信はない。

まあ、いろいろ思い出しながら、異郷の月を眺めたという次第です。

自然院