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バルカンの古都ブラショフ便り

ルーマニアのブラショフ市へ国際親善・文化交流のために駐在することに。日本では馴染みの薄い東欧での見聞・体験を紹介します。

ブラショフ冬到来

2008年11月30日 19時47分57秒 | ルーマニア事情
 先週、ブラショフからブカレストへ行こうとして朝起きたら雪がジャンジャン降っていました。今年の初雪です。(初雪にしては遠慮のない降り方ですが。)
 降りしきる雪のなかを駅のホームにゆっくりと入って来る列車は、なかなか風情があります。一般に欧州の列車は機関車で牽引されるタイプが多い。だから、先頭車両はいかつい格好をしています。風に吹かれて流れる白い雪と、地上に頑固に立つ黒い鉄の塊。ああ、雪国だなあという感じ。
 でも情緒に浸ってばかりもいられません。これからカルパッチア山脈を越えて3時間かけてブカレストへ行かなければいけません。懸念していたとおり、山越えではかなりの徐行となり、予定では3時間のところが、4時間近く。まあ、この国では許容範囲でしょう。

 雪のプラットホーム

  この後、ブラショフは一面の雪景色となりました。雪が降ると街の様相が一変します。すべてが白く覆われて綺麗です。車の騒音も吸収され、ずいぶん静かになります。夜は雪明りで明るくなります。でも、そんな風情も束の間、雪が溶け出すと街路はドロドロ。車に泥をかけられないように、また凍りついた歩道で滑らないようにしながら歩くのは楽ではありません。そのうち、解ける雪より降る雪が多くなって、徐々に雪の街になってゆきます。
  
[写真上から] 雪の市街眺望。 雪のスファルトルイ広場。 雪のポイアナ・ブラショフ木の教会。

おはようツンパ

2008年10月26日 17時07分29秒 | ルーマニア事情
 ツンパはブラショフのシンボル。町から約350mの高さにそそり立っている。
 朝起きると、先ず窓を開けてツンパ山を眺めるのが日課である。今日のツンパのご機嫌は如何かな?  新緑、紅葉、降雪、朝霧、いろいろ楽しませてくれる定点観測である。
     
  沸騰させたお湯を少し冷まして深蒸しと浅蒸しのブレンド緑茶を入れ(美味しいお茶を飲むには手間を惜しまぬ自然院なのである。エヘン。)、山を眺める。喫茶去の境地。壁に掛けた書道の師匠Y先生の「日々是好日」の条幅を見ながら思いを巡らす。「さて今日は何をして楽しもうかな?」 これで一日が始まる。    

アイルランドとイギリス写真追加

2008年10月04日 18時49分15秒 | ルーマニア事情
 前回の記事でロイヤル・アルバート・ホールの写真が不鮮明だったので、ここに追加します。オーケストラと後方のパイプオルガン(演奏者が見える。)の共演です。ステージ前の席が立ち見になっていることにご注目下さい。

 アイルランド古墳(ニューグレンジ世界遺産)の石の模様です。5000年前に刻まれたと思うとすごいですね。3重の渦巻きは死を意味するとも云われていますが、古代人は何を考えて刻んだのでしょうか。
 この古墳では年に一回の冬至にだけ入口から射し込む日光が一番奥の玄室にまで届くというように設計されており、当時の高度の科学・技術が窺われます。似たような仕掛けはエジプトやマヤ遺跡にもあったようですが、これはエジプトのピラミッドより古いです。
 

 現在のアイルランド人はケルト人を母体にした混血ですが、伝統あるケルトに誇りをもっています。教会などにもケルト模様が見られます。魔除けとかいろいろな意味があるそうで、縄文や鍵形が特徴です。
 

アイルランドとルーマニア 吸血鬼が結ぶ縁

2008年08月19日 16時25分18秒 | ルーマニア事情

 ブラショフから車で40分くらい行った所にルーマニア随一の観光地ブラン城がある。吸血鬼ドラキュラの居城である。ドラキュラのモデルはブラド・ツェペッシュ公。地元ではトルコの侵略から国を守ってくれた英雄として知られている。それなのにアイルランドの作家プラム・ストーカによって怪談小説の主人公に仕立てられてしまったのだから、おさまらないのはブラド公。ブラドが死んだのは1476年。ストーカが死んだのは1912年。あの世で待ち構えていたブラドはストーカを見つけて次のように話しかけた。(と自然院は想像しています。)

ブラド:あんたがストーカさんか?わしは故郷では英雄だのに、あんたの小説のせいで、えらくイメージが落ちてしもうたではないか。
ストーカ:でもブラド公は敵や裏切り者を串刺にしたりして獰猛な君主と思われていたのは事実でしょう?
ブラド:まあ見せしめのために串刺しの刑をしたのは事実じゃ。しかし、当時それは誰でもやっていたことで、それほど特別のことではない。それをワシに敵対するハンガリーの連中が大げさに喧伝しおったんじゃ。
ストーカ:ローカルな英雄だったあんたが、私の小説のおかげで世界的な有名人になれたわけだからいいんじゃないの。むしろ感謝してもらってもいいくらいと思うけれど。
ブラド:有名になればそれで良いというものではない。大体、あんたはルーマニアに来たこともないのに、よくもシャアシャアと見てきたようなウソが書けるもんじゃ。わしのことを、十字架・光・ニンニクが嫌いだとか勝手に書きやがって。わしはニンニクが大好きなんじゃぞ。
ストーカ:まあ、その辺は話を面白くするために書いたことなんで大目に見て下さい。お陰で小説はベストセラーとなったし、いろんな人が吸血鬼の続編を書いてくれたりして・・・・ハリウッド映画では、ドラキュラは処女の血しか受けつけない超偏食家ということになっていて、それが誤って非処女の血を吸ってゲーゲー吐血するとかいうシーンがあったりで、ドラキュラのキャラはどんどん進化していますよ。
ブラド:だいたい、あんたは小説家としては2流のくせに、ドラキュラ物だけが売れとる。このこともわしは気に食わん。ストーカ行為で訴えてやるぞ。
ストーカ:そんなオヤジ・ギャグみたいなことを言ってないで気を取り直して下さいよ。地元のブラン城周辺の土産物店ではドラキュラ・グッズが売れて皆さん喜んでいるそうです。ビジネスライクで行きましょうよ ・・・・・・・・・ 

  
吸血鬼ドラキュラの居城:ブラン城


ブラン城周辺の土産物店: ドラキュラ・グッズ、バンパイヤワイン(もちろんレッド)、ドラキュラスープ(実はトマトスープ)などが売り物。

 というわけで、ブラン城近くに住む自然院としては、吸血鬼小説家の出身地を尋ねてみる必要性を感じたので、アイルランドへ旅することにしました。
 アイルランドは北海道とほぼ同じくらいの規模です。(面積はほぼ同じ、人口は1.3倍)人家はまばらで公共交通手段は乏しい。雄大な国立公園など自然を満喫したい。ということでレンタカーで10日間周ることにしました。

 


 アイルランドは島全体が緩やかな丘陵でできており、小さな村が点在しています。村の中では道路は50km/hに制限されていますが、村を出たとたん制限速度が100km/hになります。しかし上の写真を見て下さい。道路幅は狭く対向車は幅一杯にすれ違って来るし、カーブは多いし、路面も悪い。これで100km/h出していいって? 50-60km/hがせいぜいです。しかし、中には100km/h近くで飛ばして来る車もあり、ヒヤヒヤです。アイルランドへ行くと言ったらドイツ人の友人が「アイリッシュの車の運転には気をつけるように。」とニヤニヤしながら言いましたが、ここに来てその訳がわかりました。

 次号では、アイルランドの観光報告をします。


エスカレーターとエレベーター

2008年08月11日 23時50分16秒 | ルーマニア事情

 お台場でエスカレータが定員オーバーで逆走する事故があったので、エスカレータについて一考を。

 昨年12月のブログで「東京ではエスカレータの上で立ち止まる人は左側に寄り、歩く人は右側を歩く。大阪では、その逆。」と書いたら、知人たちの中に「それでは、その他の町ではどうなっているか」を調べてくれた人がいました。調査結果は次の通りです。

 エスカレーター上では左右どちら側に寄って立ち止まるか?
  -----------------------------------
  右側 ・・・・・・ 大阪、福井、欧州       
  ----------------------------------
   左側 ・・・・・・ 東京、名古屋、石川
  ----------------------------------

 交流電力の周波数、ウナギの調理法(東京は背裂き、大阪は腹裂き)などと同様、エレベータの乗り方も、糸魚川・静岡構造線とか関ヶ原などの境界線があるのでしょうか? 
 しかし、昔は日本人はエレベータでは両側に立っていた。30年ほど前に初めてロンドンを訪れた時に、ロンドンっ子は右側に寄って歩く人たちのためにが左側を空けていたのを見て、「これは良い方法だ。日本でもこうなるといいのに。」と思った記憶がある。それから10年数年後、いつの間にか東京でも片側(左側)に寄るようになっていた。ところが久しぶりに大阪に出張してみると人々は右側に寄っているのを見て面喰った。わずか10年か20年くらいの間に、この狭い日本で東西間で異なる風習が出来上がってしまったことになる。関西が欧州と同じなのも面白い。(大阪の方が意外と国際派??) このような風習はどうやって形作られたのだろうか?何人かの仕掛け人がいたのだろうか?

 
 ロンドンのエスカレータ(右側に立つ)

 いずれにせよ、これらの風習は民が決めた(あるいは自然発生的に決まった)ことだろうが、これを官が主導しようとする国がある。そんなおせっかいな国がルーマニア。ブカレストのエスカレータには下写真のように右側に両足のマーク、左側には片足づつの歩行マークがあり、右側に寄ることを強要している。さすが元共産主義の国。国民の足の位置まで規定しようとしている。


ブカレストのエスカレータ(左側が片足マークで歩行用、右側が両足マークで立ち止まり用)

 今の日本ではエレベータで片側に寄らないと、エチケット違反と見られそうだが、メーカーはこの風潮を歓迎していないそうだ。片側に寄ると片加重となり機械の寿命を縮めることになるというのが、理由である。また輸送力としても両側に乗った方が多くの人間を運べるそうである。 確かに片側一列になるのは余裕がある場合であり、今回のお台場の事故のように殺到すると4列にまでなる。


ブダペスト地下鉄のエスカレータ(終点が見えないほど遠い)

 ハンガリー・ブダペストの地下鉄に乗った時、その長さに圧倒された。写真の通り終点が遥か遠くに見える。あまりに長いからか速度もかなり早い。乗る時は恐怖を覚える程である。世界一長いエスカレータはモスクワとブダペストの地下鉄駅のものだと聞いた。有事に地下鉄が防空壕として使えるように深く掘ったのだという説がある。

 数年前にスイス・シンドラー社のエレベータが事故を起こし、日本中がエレベーターに神経を尖らした一時期があった。あの時は、誰もがエレベータに乗ると、まっ先にメーカー名を見て一喜一憂したりした。エレベータの床と建物の床が少しでもズレているのが見つかると大騒ぎになったりした。しかし、欧州では少し前まで古い建物のエレベータでは、床との段差があるのは珍しくなかった。さらに戸のないエレベータさえもあった。今でもルーマニアの古い建物のエレベータでは始動・停止時にガクっとショックがあったり、躓きそうになるくらいの段差ができるものも多い。わずかな段差が騒動になる日本は、まことに恵まれた国といえる。

 エスカレータとエレベータについて、思いつくまま書いていたら、意外と長文になってしまった。「自然院さんは雑学が豊富ですね。」と言われてことがある。自分では雑学ではなく、既存の学際に囚われない幅広い教養と呼んでほしいのだが、・・・・ ヤッパリ雑学かな。


灼熱に想う(2) ビンラーデン 

2008年03月23日 00時30分59秒 | ルーマニア事情
 ビンラーデン社はサウジ最大のゼネコンである。オイルショック後、大規模工事を目当てに海外の有力ゼネコンがサウジに群がる中、民族資本による本格ゼネコンを育成したいとの国策に沿って生まれた。オーナーは王族とのコネを利用して美味しい工事を優先的に受注し、規模的には世界でも有数のゼネコンにまで育った。主要な建設機械は従来米C社が独占していたが、我がK社もその頃から積極的な売り込みをかけ、自然院の在任中にはかなりの販売に成功するまでになっていった。

 オーナーは多数の妻達に子どもを生ませ、優秀な息子達を選んで会社の幹部に登用していた。28番目の息子が、後に無差別テロで世界を震撼させたオサマ・ビンラーデンである。今から考えると、あの頃の商談ではオサマの父親や兄達に会っていたことになる。(オサマは当時25才くらいで、ゼネコンには関わっていない。)

  

  オサマは報道に依ると、若い頃からイスラム原義に忠実たらんとする気持ちが人1倍強く、湾岸戦争に際してサウジ政府がアメリカに協力して国内の基地使用を認めた結果、女兵士が肌も露わな姿で入って来たことが神への冒涜と映り、過激な抗議行動に出た。サウジでは政治行動は厳しく規制されている。父親も苦慮したが、結局は勘当した。オサマは、その際相続した財産(手切れ金)を元にアルカイダを組織し、既に死に体であったアフガンを掌中に収め、さらに9・11へと活動を拡げた。
  それにしても、28番目の息子が、1国を支配するのみならず世界をテロの恐怖に陥れる財源として足るだけの額を相続するとは!! ・・・・ それでは、ビンラーデン本家の財産は一体どれほどあるのだろうか? 王家に次ぐ資産とも言われるが。(考えても、無益?所詮下司の勘ぐり?)

 サウジとアメリカの関係はデリケートである。 話は石油が発見された1932年にまで遡る。当時、中東石油はイラン・イラクが中心でイギリスが利権を独占していた。アメリカは中東での利権の一画に食いこみたいと虎視眈々狙っていたところ、幸い試掘権を得ていたバハレーン島で油田が発見された。新油田の詳細調査のためアメリカから技術陣が送り込まれた。その1人がふと、対岸の地相がバハレーンに酷似していることに気が付いた。技術者達はすわやと対岸に急行し、夢中で地質調査を開始した。果たして大当たり! 当時石油はアラビア海の東北側(イラン・イラク)にのみ埋蔵されているというのが定説で、西側(サウジ)は放置されたままになっていたが、ここに次々と大油田が発見された。世界最大の輸出量を誇るサウジ石油発見のドラマは、ざっとこんなものだったらしい。
  サウジはアメリカ企業に採掘を委ねることにより莫大な石油収入を得ることができるようになり、一方アメリカは念願の石油利権の主導権をイギリスから奪取し、その後原油市場は米メジャー7社による世界支配が続くことになった。サウジとアメリカの蜜月時代の基盤はこのようにして築かれた。冷戦時代、イランもイラクも東と西の間を振り子のように揺れ動くが、サウジは一貫して親米路線を貫く。但し、兵器供与などでアメリカがイスラエルへの好意的政策を露わにした時だけは、アラブの一員としてアメリカに批判的になる。

 以上は、政治・経済面であるが、文化面ではどうか? 実はこれが難題である。
 サウジは最も戒律が厳しいワハーブ派が国教である。飲酒が露見すれば即牢屋にぶち込まれる。さらにメッカ・メジナを擁しているので、世界のモスレムの守護役を自認している。ハッジ(巡礼)月には、国内から百万人、海外から百万人、合わせて2百万人の巡礼者がメッカに訪れるが、そのための宿泊所やバスを無料で提供するといった大尽的振る舞いを行う。
  しかし、イスラム教義を忠実に実行しようとすればするほど、欧米式の経済を取り入れるに当たっては、文化面・習慣面でことごとくディレンマに陥ることになる。 例えば、

 【課題1】前回述べた銀行での利息の問題も、利息を取らなければ資本主義経済とはならない。どうするか? 
 【答え】銀行が貸す場合は利息でなく手数料として徴収する、といったレトリック解決。
 【課題2】イスラムの教えでは女性は外で働くことを禁じている。それでは、看護婦はどうするのか?スチュワーデスは? 
 【答え】外人女性を雇う。これによりサウジ女性が働くことは避けられる。

 何だか辻褄合わせをして凌いでいるだけというのが現実であるが、今後どこまで西欧化すべきかという抜本的問題については、開明派と民族派で意見を異にする。

 【開明派】そんな辻褄合わせは噴飯ものである。イスラムの戒律は精神上は尊重するものの、経済活動や実生活においては特に問題の無い限り、極力欧米システムを取入れるべきだ。
 【民族派】欧米流を神聖な王国に取り入れようとするから、こんな混乱が起こる。西欧文化・慣習の取入れは最小限に抑えるべきだ。
さらに過激派となると、イスラム教義を押さえ付けようとするあらゆる勢力に対してジハード(聖戦)を挑む、となる。

 サウジの中でも真面目なモスレムほど、過激派に同調する者が多い。現に9・11では実行犯19人のうち15人がサウジ人であった。
 「米兵がモスクでイラク人を殺すのを見て1週間眠れなかった。【イスラム社会から米兵を追い出す】というビンラーデン師に共感した。」というアルカイダに入ったサウジ人のコメントが新聞に載っていた。イラク開戦後3000-4000人のサウジ人が反米に参戦したそうである。もし、そのうちの数人がビンラーデン並の財力を持っていたとしら、どうなるのだろうか?(自然院だけの杞憂?)

 日本は原油輸入の3割をサウジに頼る。イスラム文化は分かり難いことが多いが、異教視するだけでなく、もう少しアラブの心理に対する関心があっても良いのではないかと思う。

灼熱に想う(1)

2008年03月17日 00時21分16秒 | ルーマニア事情
 前回は極寒に関することを書きましたので、今回は灼熱に関する体験を書きます。

  自然院は80-85年にサウジアラビアに駐在していた。建設機械メーカK社の社員として現地での売込みに奔走していた。第2次石油ショックの直後で世界中からオイルマネーが集まり、国中は工事現場と化している時であったから、建設機械の売上げは絶好調であった。大規模工事に対応するために、機械メーカはこぞって大型機械の開発をめざした。K社も世界最大の100トン・クラスのブルドーザの開発に成功して世界に売出し、いち早く独占的利益を得ていた。その後、米C社もこのクラスを開発し、後発ながら強力な販売力を背景に世界各地でK社のトップ・シェアを塗り替えていった。 しかし、サウジだけはK社がトップを死守していた。何故か?

 
 
砂漠(上側写真)と、土漠(下側写真)

 日本人にとって、サウジアラビアというと砂漠のイメージが強いと思うが、アラビア半島は実際は強固な岩盤の上にあり、地表だけが砂に覆われているという所謂土漠が大半を占める。従って、土木工事にはどうしても岩盤破砕が付きまとう。岩破砕に最も効率良い工法は発破を使うことであるが、テロを何より恐れるサウジ王室は国内でのダイナマイトの使用を極端に制限しているので、一般工事では使えない。そこで岩破砕はブルドーザに頼ることになる。
 
ブルドーザ: 前方で土を押し、後方(灰色のアタッチメント)で岩を破砕する。

 ブルドーザの主な機能は、押土作業(前方で土を押す)と岩破砕作業(後方で岩を砕く)であるが、K社のブルドーザは岩破砕に優れる。それが評価されて岩破砕性能が重視されるサウジのみでトップ・シェアをキープしていた。

  ある日、国防省の工事で100トン・ブルドーザの引合いがK社とC社に出された。 但し、購入に当たっては、「K社機とC社機を同一現場で一日試験稼働(デモ)させ、作業効率が良い方を採用する。」という条件が付いていた。いかにもサウジの役所らしい高慢なやり方である。社内で議論が起こった。成功すれば、国防省へ納入という名誉な実績ができ、今後のビジネスに有利になる。しかし、不成功に終われば、一億円もする新車を中古車にしてしまう羽目になる。岩盤の強度を測定した。その結果、K社の機械では破砕可能だが、C社の機械では困難な強度であると判断できた。よし、やってみようということになり、自然院が陣頭指揮を執ることになった。
  果たして、デモは成功した。K社製の優位が確認された。早速、国防省庁に行って担当官に「買ってくれ」と言った。ところが・・・・・・購入は中止になったという。「それでは約束が違う。」と文句を言ったら、「インシャーラー(神の思し召しで)」と来た。都合の良い時だけ神を引合に出すな、と言いたいところだが、これがこの国の役人(だけではないが)の常套手段だから、諦めるしかない。
  機械をしまおうとしていたら、朝からデモをじっと見ていた薄汚い遊牧民の服を着た老人が近づいて来て、嗄れ声で「この機械を買いたい。」と言う。「何やて! おっさん。これ1億円やで。金持ってんのん?(通訳氏はもう少し丁寧な言葉でアラビア語に訳してくれたと思うが。)」と言ったら、「金はある。すぐに取りに行ってくるから、夕方までここで待っていてくれ。」と言い残して砂煙をあげて砂漠の彼方に消え去った。半信半疑のまま、覚悟を決めて待つことにした。  
 果たせるかな、数時間後、やはり砂漠の彼方から砂煙をあげて先程の4輪駆動車が猛烈な勢いで走って来た。老人が「金持って来たで」とトランクを差出した。中には札束が一杯に詰まっている。こんな所で札を数える訳にはいかない。そこで、弊事務所においで頂くことにした。(ここから急に敬語に変わる。) もう夜だったが経理担当者2名を残しておいて数えさせた。1枚ずつクシャクシャになった札を伸ばしながら数える手作業は夜半までかかった。ちゃんと1億円ある。人は見かけによらない。売ったあ!  

 この当時、中東での売上は当時全社売上の1/3くらいに達していた。オイルマネーを還元するのは、当時の社是であり、自然院もその一員として奔走したが、上記の逸話は、いささか荒っぽい部類に入る。しかし懐かしい思い出である。

 上記の逸話をより深く理解して頂くには、現地の特殊事情について若干の知識を要する。ここで、少し説明をさせて頂くと:

1.サウジの服装について:
  サウジでは王様も乞食も同じ服装をしている。サウジ国民は、元々遊牧民であった。砂漠を遊牧するには、砂嵐と太陽から身を守るために頭に頭巾をかぶり、ワンピースを着るのが一番理に適っている。
 王様になっても、遊牧民出であることを誇りにするために頭巾とワンピースを着る。一般国民も、この気候ではこの服装が一番楽だから、やはり同じ服装となる。だから、服装から貧富を見分けることは出来ない。(金持ちはカフスボタンに高級ブランドを用いるくらいがせいぜいである。) 自然院が「金もってんのかいな」疑ったのも、この故である。失礼しました。
 教訓:人を見かけで判断してはならない。

2.なぜ現金で持つのか?
  コーランの教えでは、利息を取ることを禁じている。利息は金持ちが遊んでいる間に金を儲ける手段であり、公正を欠くから、というのが理由である。
 そのため銀行が発達しないし、国民も銀行に金を預けるという習慣が根付いていない。都市部では時代とともに銀行利用が一般化しつつあるが、地方ではまだタンス預金に頼る人が多い。少し匂いのするお札をクシャクシャのままで。

極寒に想う

2008年02月21日 21時59分26秒 | ルーマニア事情
 ルーマニアでは昨冬は記録的な暖冬で、「すわや地球温暖化の現れか」と思ったが、さすがにそれは早とちり。今年は例年並みの寒さに戻った。年末に一旦零下25度を記録したが、最近は零下10度からプラス5度あたりの気温が続いており、雪は積もったり溶けたりを繰り返している。零下で外出すると、さすがに耳の付け根のあたりが切れるように痛いし、足の指先も靴の中でヒリヒリする。


     ポイアナ・スキー場と木の教会      スノーモービル初体験


  雪のブラショフ市眺望   


  雪の旧市庁舎広場 

  自然院が体験した寒さの最高は、零下32度である。これはフィンランド・ロバニエミ(北極圏)へオーロラを見に行った時のこと。現地ではオーロラ見学者(日本人が多い。オーロラに憧れるのは、何故か日本人とドイツ人だそうな。)のためのナイト・ツアーが催行されていたので参加した。その夜の気象状況によりオーロラが一番よく見えそうなポイントへバスで連れて行ってくれるというのが触れ込みである。現地の気象台ではオーロラ出現率を5段階で発表している。その夜は下から2番目ということで、やや落胆したが、此処まで来たら行くしかない。予報が間違っていることを願いながら。
  2時間くらい走って観測ポイントへ到着した。コタと呼ばれるトナカイ牧場の小屋を観測の基地として借切ってある。この寒さでは外には5分とは居られない。目を皿のようにしてオーロラを探し、5分経ったらコタに逃げ込んで牧場主夫婦からコーヒーやホットワインを頂いて暖を取り、また外へ出て行くというサイクルを繰り返す。そのうち段々とコタでの滞在時間が長くなってくる。 
  オーロラというと赤や紫の混じった7色に輝くものを想像していたが(皆さんもそうだと思うが)、現実のオーロラは90%が白一色だそうである。果たして、この夜も白いオーロラが終盤になってやっと出てきた。雲かと思うほど淡いもので、ちょっと期待外れに終わった。
  オーロラの出現頻度は11年周期で変動するそうで、さらにその中で大波は66年周期だそうだ。2002年はその66周年に当たるというので期待満々で出かけたのだが、運が無かった。次の66年後には自然院はもう生存していないかも知れないので、もっと見たかったのだが。

  余談だが、コタでは水は即凍るので、外で用を足すことになる。手探りでチャックから放水出口をほじくり出すのだが、防寒服で着膨れしているので、確実に外部に放出できる状態になっているかどうかは本人の目線では識別できない。そこで他人に頼んで懐中電灯で照らして横から状況を確認してもらい、OKが出たら意を決して放出するというのが確実で、ごく一般的な方法ということになる。放水は空中で瞬間冷凍され、黄金色に輝く氷のアーチとなって地上に残る。そこらじゅうに稲穂のように林立したアーチ群を見るのは実に壮観である。一方、大の方は、平行板が2枚設置されている所でしゃがみ込み、板の間に落とすことになっている。歴代先達の置き土産が、槍ヶ岳のように積み上がっている。うっかり足を滑らすと槍が突き刺さる。これが本当のウンのツキ !?!? 
 [注] この余談は、懐中電灯の話以外はウソですから、くれぐれも本気にして他人に話したりしないで下さい。次の話は実話です。ドキュメンタリーです。

  以前「零下50度では、バナナで釘が打てます。」というTVコマーシャルがあった。零下50度の世界では、物性は常識を越えた変化をするそうである。バナナは鉄製ハンマーのように堅くなり、ゴムは弾性を失いガラスのような塑性物体となる。
  自然院が以前勤めていた建設機械メーカー、K社での話。80年代にK社はソ連からシベリア開発向けに大型ブルドーザや大型ダンプなど建設機械数千台、金額にして数千億円を大量受注した。技術的な問題として零下50度での使用に耐えることという条件が付いていた。低温でのエンジンの始動性の改善などのほかに、各種材質を極寒地仕様に変更する必要があった。ダンプのタイヤ材質はBタイヤ社と共同開発した。開発・生産は順調に進み、数十台を先行納入することになった。
 以下は,そのシベリアの現場に立ち会った友人の話:
機械は夜到着し、翌朝稼働することになった。ところが翌朝機械を点検してみるとダンプのタイヤが全てパンクしていた。「特殊ゴムを使ったはずなのに・・・」と調べてみると ・・・ なんと空気パッキンの小さなゴムシール部材が特殊ゴムになってなかったために、空気シールが効かずパンクしたと判明した。将に、「千里の堤も蟻の穴から」という喩え通りをやってしまった。タイヤといっても100トンを超える大型ダンプのタイヤは人間の背丈より大きく、数百万円もするシロモノである。タイヤの数は1台に6本(後輪はダブル)、それが数十台 ・・・・ 数えるのが恐ろしくなるほどの損失となった。

  このような失敗も重ねながらK社の技術はたくましく成長し、世界の過酷な使用条件に耐えらるように進化し、製品品質および品質管理は世界トップ水準となった。当地のような極寒に遭遇すると思い出すエピソードである。



ブルガリア(その3) 思いつくままに

2007年12月31日 14時14分31秒 | ルーマニア事情

 前々回のブログで「ブルガリア人はYESと言う時に首を横に振る」という話を書いたら、各方面からいろんな反応を頂きましたので、少しこの話題を展開したいと思います。

 知人によると、YESで首を横に振る人種はギリシャ人の一部にも存在するとのこと。そうだとしても、ブルガリア人とギリシャ人だけなら世界的には圧倒的に少数派ということになります。私事ですが、私の1歳の孫が「いやいや」する時は首を横に振るのを見ると、日本(および多数派)方式の方がホモサピエンスとしては自然なのかなという気もします。

 しかし、読者諸君、一度試しに鏡の前で「はい」と言いながら首を横に振って下さい。首を横に振ると意外と明るい表情になるので「はい」に合っているような気がしませんか?逆に首を縦に振るのは暗い感じなので、「いいえ」に相応しいような・・・・・??
これまで常識と思っていたことを一度ぶち壊し、全く逆を試してみると案外それが成り立つと思った時って、すごく愉快な気持ちになりますね。特に自然院は、その傾向が強い人種(別名天の邪鬼とも)なのですが。

 余談ですが、ブルガリアはルーマニアと同じく本年にEUに加盟しましたが、それを機会に全人口1000万人のうち300万人が国外へ出稼ぎに行ってしまいました。この人たちは国外で首の振り方を変更しているのでしょうか?琴欧州も毎朝鏡の前で首を縦に振ったり横に振ったりして矯正したのでしょうか?(機会があれば誰か琴欧州に聞いて下さい。)

 逆転の発想についてもう少し話を続けさせて下さい。「東京から大阪へ行くとき太平洋は左右どちらにありますか?」と聞かれたら、われわれ日本人は当然左と答えますね。しかしモンゴル人だけは右と答えるらしいです。なぜ?日本人(および圧倒的多数の外人)は地図は当然上から見た通りに書くもの(鳥瞰図)と思っています。これに対してモンゴル人は地図を地底から地表を描くように書く(土竜図)ので、我々の見慣れている地図とは左右逆になるとのことです。「とのことです。」というのは自然院が実地に確認した訳ではないからです。(機会があれば誰か朝青龍に聞いて下さい。)

 右か左か」について、以下思いつくままに:

*エスカレータで立ち停まる時は、右側に寄るか左側か?
答:東京では左、大阪と欧州では右。(理由は分かりませんが。)

*車はなぜ左側通行の国と右側通行の国があるのか?
一説によると:アメリカの駅馬車制度では鞭が交差するのを避けるため従来右側通行が守られていた。T型フォードがこれを取り入れ左ハンドルで世界に大量輸出したため、右側通行の国ができたとのこと。

*ネクタイの斜め縞は、なぜ日本製は右肩上がりで欧州製は右肩下がりなのか?
自然院の説:日本人は左に差した刀を袈裟がけに振りおろす際には右上から左下に向かって動かす傾向があるため、左下に向かう斜線が馴染むように感じる。

*人とすれ違う際は右によけるか左によけるか?
俗説:左にある心臓を守ろうとするため、人は無意識に左へよける。

 本日は大晦日。話が脈絡なく飛んでしまったこと年末に免じてお許し下さい。せめてブルガリアの珍しい写真などをお楽しみ下さい。

 レストラン (キリル文字:PをR、CをSに置き換えれば、PECTRANTはRESTRANTと読める。その下はRILAリラです。)


本場のブルガリア・ヨーグルト (美味しい!!)毎日食べた。

 
リラ僧院へ向かう山中の紅葉


ブルガリア(2) リラ僧院

2007年12月16日 23時12分53秒 | ルーマニア事情

 リラの僧院はブルガリア最大の(そして「唯一の」という人もいるが)観光地である。お札にも載っている。もちろん世界遺産。そんな観光の目玉にしては、交通の便が悪い。首都ソフィアからは直通往復バスが1日1便あるが時間帯は悪い。ソフィアで車をチャターする手もあるが、相場は150ユーロで、一人旅には割高である。それで近くの町まで定期バスで行き、そこからタクシーをチャターすることにした。定期バスは片道2時間乗って400円くらいで、タクシーは往復2時間と現地で2時間待たせる条件でコミコミ4000円(25ユーロ)ということになった。ルーマニアと同じく、公共交通機関やタクシー料金は日本に比べると相当安いのは嬉しい。

 僧院への道は紅葉真っ最中。途中小さな村が2つほどあるだけで何もない山中を1時間ほど行くと「おおこれは!!」と思わず声を発してしまうほど突然に、目の前に壮大な僧院が現れる。よくもこんな人里離れた山中に建てたものだと思う。10世紀建立というから、日本でも比叡山延暦寺や高野山金剛峰寺といった密教本山が建てられた頃と似ている。この頃世界的に山中に本山を開く事が流行ったのだろうか、などと他愛もないことを考えながら山門をくぐる。 

 

 ブルガリア正教の総本山。オスマントルコがイスラム教を強いた時代も、リラ僧院だけは別格としてキリスト教の布教を許されたという。聖堂は大きくて縞模様が美しい。周りはフレスコ画で埋め尽くされている。フレスコ画は何百年経た今も色褪せず、その迫力を今に伝えてくれる。来た甲斐があった。

 
 フレスコ画の回廊         漫画の元祖(?)