バルカンの古都ブラショフ便り

ルーマニアのブラショフ市へ国際親善・文化交流のために駐在することに。日本では馴染みの薄い東欧での見聞・体験を紹介します。

世界一美しい町 チェスキー・クロムロフ

2008年05月19日 21時27分21秒 | ルーマニア以外の国
 ボヘミア !! 何と言う優雅な響きでしょう! 復活祭休みを利用して前から訪れたかった、世界一美しい町の一つと言われるチェスキー・クロムロフにやって来ました。

  この町は13世紀に南ボヘミアの貴族がここに城を建設したのが始まりで、その後支配する貴族が交替するたびに華々しく繁栄し、16世紀にはルネッサンス都市として繁栄の頂点に達した。しかし、その後は近代化からは取り残され、住民は潮が引くように減少し寂れていった。ナチ支配、共産党支配の時代は廃墟同然の町であったが、東欧革命後は歴史を見直そうという機運が高まり現在見られるように当時の姿に戻したのだそうです。

  
 

 この町が、他の欧州のオールドタウンと異なるのは、壁に囲まれたオールドタウンの周囲は森だけで人家は見あたらないという点です。即ち、この町はオールドタウンが形作られて以降は発展すことなく、ただ衰退するだけに任された。それを復興しただけだから、最盛期以降の余分な手は入らず、そのままの形が見られる希有のケースということになります。世界遺産として認められたのも肯けられる気がします。
  川がΩ字の形に湾曲して、その内側に抱かれた小さな町です。青い空に映える赤い瓦、天を突くように尖った教会の屋根、複雑に入り込んだ路地、こぢんまりとした家々、谷の向こうには岩壁に沿うように偉容を誇る城。車も少なく、町の外は森だけだから空気も澄んで、小鳥の声と川音だけが木霊し、静かな時間がゆっくりと流れる。中世を感じるには、とっても良い町と思いました。
    

  ちょと面白いのは、下の写真の建物の壁。石垣のように見えますが、壁に石垣の絵が描いてあるのです。この「騙し絵」は町中では至るところにあり、さらに城の壁や塔まで騙し絵なのには呆れました。少しでも美しく見せようという中世の知恵なのでしょうかね。 



[ 補 注 ]

 自然院の学説 欧州オールドタウンの層別

  自然院は自分の見聞体験を基にいろいろ理論(理屈?)を組み立てるのが好きで、いわば病気と言えるかも知れません。もちろん、これらは我説であって、学問的に正鵠を得ているかどうかは分からないし、的外れも多いことでしょう。しかし手探りでも自分なりに種々思考を凝らしてみると、これまで見えなかったものが少しでも見えてくる気がすることがあり、その時はすごく嬉しいから止められません。また考えは同じでなくても、似たような所に着眼している人がいることが分かった場合など、それだけでも無上の喜びを感じる次第です。
 そんなわけで今回は、欧州オールドタウンについて、その町自身と周囲の発展過程という観点から層別を試みました。すなわち、いかに嘗て栄華を誇った町でも、その後も発展を続けるためには世に適合して自らの形態を変えてゆく必用がありますが、しかしそれは歴史の保存という目的からは背反命題となることが多いというのも現実です。本論は、それぞれの町がこの問題を持ちながら、どういう状況にあるかという分析であります。

第一種:旧市街保存&周辺発展型
  旧市街は歴史地区として特別に保存する。市庁舎・教会・広場といった公的施設はもちろんのこと民間建屋も極力保存するために立て替えについては種々の規制を敷く。 新市街は旧市街の周辺に自然に広がり、普通の街として発展している。欧州のオールドタウンは、ほとんどがこの第一種に入る。 旧市街は嘗て城壁に囲まれていたが、その保存の仕方により、さらに次の3種に分類される。
 A.城壁をほぼ完全に残している場合:ドイツ・ローテンブルグ、ポーランド・クラクフなど小都市に見られる。
 B.街の発展に邪魔ということで取り壊した場合:パリ、ウィーンなど大都市
 C.一部を残している場合:ブラショフなど。

第2種:旧市街官民分離型
  旧市街が官庁地域と民間地域に分かれている場合である。例えば、ロンドンでは貴族はウエストミンスター地域に、市民はシティーにという風に、かなり明確に棲み分けが行われていた。王様といえども簡単にはシティーには入れず予めアポイントを取ってシティーの市長の出迎えを受けて入ったという。王室と市民階級の力関係が、長い歴史的を経てバランスした英国ならではの話かも知れない。 ブダ・ペストもドナウを挟んで城のあるブダと商業地区であるペストが分離されている。
 しかし民間地区といえども手狭になれば郊外に発展せざるを得ず、その意味では第一種の特殊例であるとも考えられる。
  日本でも、武士階級は福岡に、町人は博多に分かれて住んだという例もあるが、この型と考えて良いと思う。

第3種:垂直発展型
  古代ローマの地図は現在のローマの地図にほとんどピッタリ合致するそうである。即ち、2000年の間、ローマの市街機能を存続させるためには当然諸施設の更新が必用となってきたはずだが、それらをほとんど旧施設と同じ場所に設置してきたということである。例えば、郊外に移しても差し支えないと思われる兵舎も、未だに古代ローマ時代と同じく近衛軍団兵舎の中にある。このローマ人の頑固さのために、現代のローマの諸建物の下には何代もの遺跡が埋もれており、地下駐車場も作れないし発掘もままならない。大都市でありながら、地下鉄がようやく3本、それも大深度でという不便さをきたしている。 新市街が旧市街から、第一種では水平に展開したのに対し、第3種では垂直に発展したと言える。 同類型は、ローマに起源を持つケルン・マインツ・リヨンにも見られるという。

第4種:旧市街孤立型
 旧市街が出来た頃が町の最盛期で、その後発展することなく衰退していったケース。今回のチェスキー・クロムロフがこれに当たる。  



復活祭

2008年05月02日 00時31分05秒 | Weblog
 復活祭(イースター)は、キリストが死後3日目で復活したことを祝う祭りで、キリスト教国ではクリスマスと並んで重要な行事です。復活祭当日とその後の2日間は学校も会社も休みとなります。丁度日本の三箇日のような感じです。復活祭の日取りは毎年変わります。ルールとしては、「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」となっているのですが、カソリックはグレゴリア歴で、正教はユリウス歴で計算するので少し異なります。(注記参照)。因みに、今年はカソリックは3月23日、正教は4月27日でした。ルーマニアは正教徒が多いので4月27日の方がメイン行事となりました。

  
  復活祭前夜の集会

   
  前夜祭の蠟燭行進  

 復活祭前夜にブラショフ最大のスファルトルイ広場に出かけました。夜が更けるにつれて蝋燭を持った人たちが続々と集まり、12時に坊さんが壇上に上がり集会が始まり、賛美歌を歌ったりしている間に人々は蠟燭から蠟燭へ火を移し、やがて坊さんを先頭に賛美歌を歌いながら周辺を蠟燭行列するといった趣向でした。かくて復活祭が始まり、街は人通りも途絶え静かになりました。

 
復活祭の食事 (キリストが卵から雛がかえるように復活するということから、イースターエッグと呼ばれる色を付けた卵を食べる。パンはキリストの肉を、赤ワインは血を象徴する。) 

 復活祭休暇を利用して、チェコ・ポーランド・ハンガリーへ出かけました。次号では旅行記をアップします。お楽しみに。  


注記
ユリウス歴では、閏年を4年に一度設けます。(小学校課程。)
グレゴリア歴では、4の倍数で割り切れる年を閏年としますが、400で割切れる場合は閏年としないとしています。(中学校課程。)
ユリウス歴はユリウス・シーザが定めた暦で、地球の公転周期が365日と6時間であるとの前提にたっています。16世紀になって、この6時間がぴったり6時間でなく11分ほど足りないことが分って、もっと木目細かく修正しようということになってグレゴリア歴が制定されました。
西欧諸国では、いち早くグレゴリア歴を取り入れカソリック・プロテスタントも是に倣ったのですが、東欧では改歴が遅れたため今でも宗教など伝統的行事はユリウス歴で行う習慣が残りました。これにより西方キリスト教(カソリック・プロテスタント)と東方キリスト教(正教)で復活祭の日取りが異なることになりました。