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バルカンの古都ブラショフ便り

ルーマニアのブラショフ市へ国際親善・文化交流のために駐在することに。日本では馴染みの薄い東欧での見聞・体験を紹介します。

ルーマニアその後

2014年06月21日 12時13分41秒 | プロローグ
もうルーマニアを後にして3年が経ちました。
その後も思い出してはすこしづつ更新してきましたが、未だに本ブログを覗きに来て下さる方が多くおられるのは有難いことだと思っています。

私のいた頃のルーマニアはEUからの経済支援が盛んで、街の様相もどんどん綺麗になって行く状況で、ブラショフ市長も鼻高々でした。しかし、その盛況ぶりは、外国からの支援依存によるもので、支援が続いている間に経済が自立できるようにならないと意味がないなと案じていました。昨今西欧の金融危機によりEUからの支援が急減しルーマニアも危機に陥ったと聞きます。

危機に関しては鈍感なラテン民族の性格、旧共産党時代の硬直した体制派の隠然たる勢力、政治腐敗、汚職体質。これらに愛想を尽かした優秀な若い人材の海外流出。重荷になってきたロマ対策。マイナス要因を挙げれば尽きませんが、早くこの国が着実な前進の道を進むことを願って止みません。

2012年7月15日記


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ルーマニアから帰国したあと中国へ行き、2012年10月に日本へ帰国しました。
中国時代およびその後の日本生活は以下にアップしていますので関心のある方は見て下さい。

武蔵野つれづれ http://blog.goo.ne.jp/chansha 

2014年6月21日記

帰国 ・・・ そして中国へ

2010年08月09日 01時21分13秒 | プロローグ

 本ブログは、2年半のルーマニア滞在の体験を基に90回に渡って書いて参りました。掲載した写真は400枚超。自分でもよく続いたなと思っています。

 「ルーマニアってどんな所?」と皆さんに帰国毎に聞かれるので、同じ事ばかり答えるのも能がない、いっそのこと写真入りでまとめて報告すれば一度で済むのでは考えたのが動機です。 
 そのうち、「どうすれば体験談を有効に紹介できるか」を考えることが面白くなって来ました。他人に伝えるとなると自分本位の感動だけでは駄目だ。読者目線の客観性が求められる訳で、そのためには少しは勉強もしなければ。また写真を撮るにしても、一目で分かる写真にするにはどう撮れば良いか、といった工夫も必要 ・・・ と言う具合に、ブログを作ることを中心にいろいろ考えるようになりました。

 ガイドブックにあるような、通り一遍の記事では面白くない。自分なりに感じた事、考えた事を率直に表現したい。若者のお気軽ブログとは異なり、それなりの年なのだから、それなりの見識は盛込みたい。偏見は極力持たないように、しかし独断はあっても構わない。むしろ独断観を持つべきだ。そんな気持ちで書いてきました。

 お陰様で、「面白い見方だ。」とか「写真が迫力あるよ。」とか言って下さる方がおられ、そういうことが励みになってこれまで続いてきたように思います。 2009年2月に日本へ帰国してからも書きたいことが沢山あったので、書き続けて参りました。更新頻度が減ったにも拘わらず、辛抱強く読み続けて下さった読者に感謝します。

  思えば、約30年間、機械メーカで海外事業に従事し多様な体験を積んできましたが、今回のルーマニア駐在は文化交流というビジネスを離れた事業であり、自然院にとっては目新しい仕事でした。貴重な経験をさせて頂けたことに感謝しています。

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 帰国後は、「仕事は終った! さあ趣味三昧に生きるぞ! テニス・謡曲・仕舞・書道・ギター・・・・」と思っていたら、中国の大手機械メーカで経営指導をしてみないかとのお誘いがあり、半年でまたビジネスマンに逆戻りしてしまいました。63歳にして、これで5つ目の就職先。(日本メーカ、外資系企業、国立大学、市委嘱職員、そして今回の中国メーカ) 今は上海に駐在しています。

 上海は万国博開催中。日の出の勢いの中国にあって変化の最も激しい街です。おそらく今の世界で一番面白い街かと。中国での生活は次のブログで紹介していますので、引き続きご愛読下さい。

 中国便り http://blog.goo.ne.jp/chansha/


世界遺産

2010年03月01日 21時12分13秒 | プロローグ
 先日NHKで「世界遺産ベスト30」を放送していました。世界遺産は全部で851カ所あるらしいのですが、その中から視聴者が行きたいと思う上位30位を紹介していました。この中で自然院が行ったことのある遺産を数えてみると17か所でした。私的には、いろいろ旅行する機会に恵まれたと思っていましたが、まだ半分残っています。

1.「世界遺産ベスト30」で行った所(17か所)

 ・第2位「モン・サン・ミシェル」フランス
 ・第3位「ピラミッド群」エジプト
 ・第5位「アンコール遺跡群」カンボジア
 ・第6位「ペトラ」ヨルダン
 ・第7位「アルハンブラ宮殿」スペイン
 ・第9位「バチカン市国」バチカン市国
 ・第10位「フィレンツェ」 イタリア
 ・第11位「ベネチア」イタリア
 ・第17位「カッパドキア」トルコ
 ・第18位「ウルル(エアーズ・ロック)」オーストラリア
 ・第19位「イスタンブール」トルコ
 ・第23位「ベルサイユ宮殿」フランス
 ・第24位「シェーンブルン宮殿」オーストリア
 ・第26位「ポンペイ」イタリア
 ・第27位「グランド・キャニオン」アメリカ
 ・第29位「プラハ」チェコ
 ・第30位「テーベ(ルクソール)」エジプト

2.「世界遺産ベスト30」で行っていない所(13か所)

 ・第1位「マチュピチュ」ペルー
 ・第4位「九寨溝」中国
 ・第8位「カナイマ国立公園」ベネズエラ
 ・第12位「ナスカ地上絵」ペルー
 ・第13位「タージ・マハル」インド
 ・第14位「イグアス国立公園」アルゼンチン・ブラジル
 ・第15位「ダージリン・ヒマラヤ鉄道」インド
 ・第16位「ラパ・ヌイ(イースター島)」チリ
 ・第20位「屋久島」 日本
 ・第21位「ガラパゴス諸島」エクアドル
 ・第22位「黄龍」中国
 ・第25位「ルウェンゾリ山地」ウガンダ
 ・第28位「知床」日本

 残っている世界遺産の中で、中国の2カ所は次の駐在地が中国だから何とかなるでしょう。日本の2カ所が残っているというのは、ちょっと笑ってしまいました。やっぱり灯台下暗しってあるのですね。あとは大部分が南半球なので。ちょっと大変。
体力を鍛えて、絶対30カ所踏破するぞ!!!!



次は、いよいよ最終回です。

続編ブログ「中国便り」もご愛読下さい。
 http://blog.goo.ne.jp/jinenin/

日本文化紹介の方法についての1考察 

2010年02月11日 22時23分52秒 | プロローグ

 実は自然院は2009年2月に日本へ帰国しました。帰国後もルーマニアについて紹介したいことが一杯あったので、本ブログを書き続けています。(あと1-2回かな)

 帰国後の日本では趣味三昧の生活を送っていましたが、ふとした縁で中国企業から経営指導をしないかとのお誘いがあり、10月に中国へ赴任しました。
 急激な成長を遂げる中国の実態を新たなブログで報告しますので、これまで同様ご愛読下されば嬉しい限りです。よろしくお願いします。  

  ブログ:中国便り(三国志ゆかりの長沙と万国博の上海から) 
  http://blog.goo.ne.jp/chansha/

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 それでは、最終章に近づいたところで、久しぶりに仕事に関する記事を書きます。

 ルーマニアでは、各地で日本語を教える教師が年に一度集まり日本語教育に関するセミナーが開かれています。各教師から発表される講演内容は講演集として国際交流基金から発行されます。自然院もブラショフでの文化交流体験を基に、異文化交流について考えるところを纏めて寄稿しました。少し長くなり恐縮ですが、ブラショフで2年半にわたる文化交流活動の集大成でもありますので、以下に転載させて頂きます。

 

論題: 日本文化紹介の方法についての1考察

1.はじめに

 私たちの文化交流センターでは、ブラショフ市民を対象に日本語のほか書道、茶道、漫画、絵手紙、折り紙などの教室を開き、さらに市民や子供の各施設にこれらの出前教室なども行っています。また市民団体に日本文化についての講演を依頼されることもあります。 これらの紹介活動はそれぞれのTPOに応じて試行錯誤を行ってきましたが、実践を重ねるにつれてその方法についての考え方も序々に定まってきたかに思えますので、これらを整理して今回発表させて頂きたいと思います。日本の文化紹介に携わっておられる方々に少しでも参考になれば、望外の幸甚です。

 本論の結論は、文化紹介が成功するか、不成功に終わるかは「相手の目線で話せたかどうか」で決まるということです。このことについて以下述べさせて頂きます。

2.聞き手のメリットを話す

 文化紹介をする際、私は「貴方が日本文化を学ぶと、こんなメリットがありますよ。」ということを、冒頭に話すことにしています。日本文化は特殊性があって水準が高いことを強調して、例えば、次のような言い方をします。「ルーマニアの人にとっては、ドイツやフランスの文化を学ぶことは機会も多く容易でしょうが、それよりも思い切って異質な日本文化を学んでみませんか。目新しい発見が多いと思いますし、学び甲斐のある奥深い文化ですよ。」

(2-1) 日本文化の特殊性
 私は、日本は文化面ではガラパゴスと言っていいのではないかと思っています。ご存じのように、ガラパゴス島は他の大陸とは隔たっていたために動植物は他の地域に見られない種の進化を遂げました。日本は、西欧列強が世界中を植民地化した時代に、鎖国により外国との交流を断ちましたので、結果的に西欧文化の直接の影響を受けずに独自の文化が発展するという稀有の国となりました。

(2-2) 日本文化の水準の高さ
 日本の学校では、「日本は明治維新後、欧州文化を取り入れて急速な近代化に成功した。」という風に習います。しかしこれでは、まるで「江戸時代までの日本文化は遅れていたが、明治時代に急成長して西欧に追いついた。」かのような錯覚を起こします。これは、明治時代以降、西欧中心の史観(西欧がローマ時代から一貫して世界をリードしてきたかのように考える史観)を無批判に直輸入してきた日本の文部科学省の姿勢によるものだと思います。
 日本の江戸時代までの文化水準は、既に世界的にもトップクラスにあったということを日本人自身がもっと自覚すべきだと思います。源氏物語が世界最初の長編小説であることは知られています。西欧の中世は王侯間の抗争に明け暮れる無知と貧困の時代で、文化として見るものがない状況(藤原正彦2005)でした。
 一方、日本はこの時代に既に高度に洗練された文学を持っていました。源氏物語のほか、古今集・徒然草・・・と切りがありません。中世において全欧州で生まれた文学作品より日本一国が生んだ文学作品の方が質・量ともに勝るといわれています。
 近代物理学はニュートンの微積分から始まったとされていますが、江戸時代の関孝和はニュートンよりも先に微積分を考案しています。織田信長は戦国武将として知られていますが、武勲よりも楽市・楽座を行ったことは、もっと評価されて良いと思われます。楽市・楽座は経済を活性化する流通革命で、世界に先駆けてこのような近代流通制度を敷いた信長の慧眼は天才的なものと思います。
 「鉄砲は種子島を通じて日本に伝えられた。」と学校で習います。しかし本家の欧州ではネジ切りなどの工作技術が低かったため少量生産しかできませんでした。一方、日本では刀鍛冶に見られるように高い加工技術があり、鉄砲の実効価値が認識されると大量生産に成功し、生産量はたちまち世界一になりました。「もし信長がもっと長生きしていたら、産業革命はイギリスより先に日本で起こっていたかも知れない。」という歴史学者もいる程です。
 江戸は当時44km2の面積がありロンドン(9 km2)、ローマ(15km2)を遥かに凌ぐ大都会でした。しかも識字率もダントツで、多くの庶民までもが漢文や物語を読み、瓦版という大衆メディアが繁盛するという世界有数の文化都市でした。このような事実から当時の文化水準の高さが窺われる訳ですが、このことが日本人にもあまり認識されていないのは不思議で寂しい気がします。

3.日本文化の特徴

 (3-1) 外国文化を受容し昇華させた文化
 日本文化は元々「骨を持たない軟体動物のような文化(中根千枝1997)」ともいわれます。すなわち日本固有の原則思想があってそれを展開させたのではなく、中国や西欧から文化導入して発展させてきた訳ですが、その導入に際して自主的な取捨選択が強く働いたということが、他の国では見られない特徴として挙げられます。
 例えば7-8世紀に遣隋使・遣唐使が命がけで大陸に渡り当時の先進国中国から熱心に文化を取り入れたのですが、不思議なことに中国の特徴である宦官制度や科挙制度を採用しませんでした。これは同じ中国の影響を受けた他のアジア圏では見られない現象です。(小松左京1997) 中国からの文化の取り入れに熱中する時期が過ぎると、消化不良を起こしましたので、暫く国を閉じて時間をかけて醸造し、日本独特の高次元な文化に昇華させて行きました。
 明治になって西欧文明・文化を吸収しましたが、この場合は列強の脅威が迫っており、7-8世紀に中国から学んだように悠長に時間をかける余裕はありませんでした。そこで明治人が行ったことは、国の近代化や科学技術習得に必要な外国用語をことごとく漢字で作ってしまうことでした。例えば「自由」「平等」「民主主義」といった思想用語、「水素」「酸素」といった自然科学用語、「野球」のようなスポーツ用語などです。こうして明治時代に作られた和製新漢語は実に20万語に及ぶそうです。そういう先人たちの努力があったからこそ、日本では大学教育まで日本語で受けることができるようになりました。もし外国用語の漢字化が行われなかったならば、後進国並みに他国の用語をそのまま使うか、英語などの先進国の言語で学ぶしかありませんでした。(この便利さが、現在の日本人の英語下手に繋がっている要因の一つでもありますが。)新語を大量生産すること自体日本人の適応能力を示す大事業ですが、これによって日本人の誰もが母国語を使って西欧文明を取り入れる機会ができるようになり、それを消化し改良することも広範囲に行われるようになりました。
 孫文は、和製漢語のひとつに「革命」という言葉があるのを知り「日本は素晴らしい言葉を作ってくれた。わが中国にとって今最も必要なのは、この革命である。」と感動し辛亥革命を行いました。孫文は「中国革命の父」と呼ばれています。現在の中国の指導者たちが大好きな言葉「人民」「共和国」「社会」「主義」なども、このころ作られた和製漢語です。蒋介石、周恩来ら日本留学生たちは近代化の手本として「日本に学べ」を合言葉に、和製漢語のほか、莫大な日本語書籍を輸入しました。嘗て中国に学んだ日本は、1000年後に中国の近代化に協力することで恩返しをしたことになります。
 では、なぜ漢字の本家である中国では、日本のような新しい漢語が生まれなかったのでしょうか? それは、当時の中国では相変わらず科挙制度が採られていたからです。科挙に合格するには四書五経の丸暗記が必要で、そんな古めかしい知識に拘る秀才たちには新用語を作る発想もエネルギーもなかったのでしょう。1000年前に科挙を採用した国と、採用しなかった国とで明暗を分ける結果になりました。

 (3-2) ホモジニアス社会が高度な精神活動を可能にした。
 日本人社会の特徴のひとつは、単一民族・単一言語・単一宗教という世界にも稀なホモジニアス(均一)社会であるということです。基本的な信条・価値観・行動規準がほとんど同一なためコンテクスト度が高く、少ない言語量で容易にコミュニケーションを行うことが可能です。
 このハイコンテクストという社会情勢と、多彩な自然に恵まれたという環境があいまって、高度な精神活動を可能にし日本文化創造の原動力になったと考えられます。すなわち、自然に対する研ぎ澄まされた感受性が育くまれ、悠久の自然と儚い人生の対比に思いを致し、無常観が生まれる。それが儚いものに美を感ずるという「もののあわれ」という情緒や、弱者へのいたわり(惻隠)を旨とする武士道という行動規範につながるという日本独自の文化です。(藤原正彦2005) 
 コンテクストを極度に高度化すると果してどんな文化が生まれるか、その生きた実験が日本文化だと考えて、これを研究するというだけでも興味が尽きないのではないでしょうか。
 

 しかし、ハイコンテクスト社会は内部の人間にとっては、いわゆる「以心伝心」で通じる心地良さがある訳ですが、外国人にとっては理解し難い要因ともなっています。我々のように海外との接点に立つ者にとって、日本文化の良さを温存しながら、外国人にとっても分かりやすい文化紹介をどう行うか、これは今後とも大きな課題と言えます。

(3-3) 「こころ」を描写する。
 日本は中国の漢字を取り入れて万葉仮名を作り万葉集を作りました。万葉集で扱われている内容はほとんどが、旅・恋・死のいずれかです。つまり「こころ」がテーマです。ところが元になった中国の漢詩集はいわば風俗大辞典と言うような内容で、例えば長安の都はどういう配置になっていて人々はどういう服装をしてどこに遊びに行ったかなどがわかります。万葉集をいくら読んでも、平城京の様子などは分かりません。「こころ」しか描いていないのですから。(井上靖1997)
 これは絵画でも同じで、日本画では例えば花鳥風月とか山水とかは恰好の画材ですが、この場合花鳥を写実的に描いてはいません。その花鳥をどのように見ているかという自分の心を描くことに画家は腐心し、他は省略してしまいます。フランス印象派のように、雲から森から犬から見えるもの全てを描くといったことをしません。
 能・歌舞伎など演劇でも同じで、心の表現以外は極端に省略してしまいます。日本人の間ではコミュニケーションに手間がかからない分、心の奥を掘り下げようという方向にエネルギーが集中して、このような文化が花開いたのだと思います。

(3-4) 日本の受容体質は世界を救う。
 日本は軟体動物のように原則思想を持たずに外国文化を「自主的に取捨選択」しながら消化し発展させてきたことは、前述しました。このような「いいとこ取り」をすることができたのは、ホモジニアス社会であったため日本に馴染むものとそうでないものを言わずもがなの感覚でごく自然に選択することが容易であったというほかに、日本が島国であったため、こちらから望まない限り外国の影響を受けなくても済むという特殊事情もあったと考えられます。諸外国の場合は、外国文明の圧倒的戦略・征服という形で伝播が繰り返されました。
 これまで世界を動かしてきた思想(主義、原理、イズムとも呼ばれるもの。ここでは宗教や共産主義といった教義重視の思想のほか、現在世界を跋扈している民主主義や市場主義、論理・合理主義やアメリカ式グローバリズムなども含む)は、全て出発点となる基本原理を設定し、ここから演繹して体系化するというものでした。従って、その思想内では完全であるけれども、外部に対しては排他的であるという大きな欠点があります。これを文化文明の基礎としていると、より広い地域を統合してゆく上で熱狂的にお互いを潰し合うという不幸な事態を招くことになるのは歴史が証明しています。
 サミュエル・ハンティントンは、21世紀は文明の衝突が起こる時代と言っています。東西対立が去った今、現にキリスト教とイスラム教がそれぞれ原理主義化し対立を深めています。しかし、いずれは人類社会全体がこうした文化衝突を避けて、それぞれの良いところを取り入れていくような穏やかな文化交流によって、かっての原理主義から徐々に抜けてゆき、新しい調和と統合の時代に向かうようであって欲しいと思います。ドグマ臭さに陥ることなく外国文明を受容・消化してきた日本の伝統的なやりかたが、そのためのヒントになれば素晴らしいと思っています。

 4.実際の文化紹介

 「私は、日本文化の○○を習いました。すばらしい文化なので是非外国の人にも教えたい。」と、当センターに言って来られる方が時々おられます。こういう人は、とかく自分が習った方法で教えようとします。そうすると上手くいきません。なぜなら日本で習った教授法は日本人同士で通じあえる共通のFOR(フレーム・オブ・レファレンス。人がものごとを知覚し、感じ、思考し、行動を導出するそのような内的仕組み)の上で成り立っているもので、FORが異なる外国人には通用しないからです。先ずは、FORの共通化または調整化を図ることから始める必要があります。
実例で説明しましょう。40余年尺八を習っておられるK氏が当センターに来られましたので、是非尺八の演奏をして頂きたいとお願いをしました。そのさい、聴衆の皆さんには尺八の音を聞いただけでも東洋的な神秘の世界を感じてもらうことはできるでしょうが、さらに理解を深めるにはどうすれば良いかについて、事前にK氏に話を聞きました。話の中で興味を引いたのは、尺八とはもともと一尺八寸の意味だが、長さは必ずしも一定ではないとのことでした。つまり自然の中に生えている竹を「使わして頂く」ので、取れる長さや太さは人間の思い通りにはならない。従って個々の笛のキーや響き・音色はそれぞれ異なるということです。(今は製管技術が発達したのでキーを標準音程に調整することができるとのことです。)これは東西の文化差を象徴する面白い話です。
 西洋音楽では、まず楽譜ありきで楽器はそれを実現するためのツールですから、楽譜通りのキーを出せない楽器なんてとんでもない話です。一方、日本では自然が優先します。演奏が終わると、尺八を押し頂いて「吹かして頂いて有難う御座います」との気持ちを込めて礼をします。自然や楽器に対してこういう考え方の違いがあるということが分かりましたので、演奏に先立ってそのことを聴衆に説明してから、演奏をして頂きました。これは、前ページ図の「意識の共通化・調整」FORの調整に当たります。
 一方で、失敗もありました。日本画のワークショップでのことです。日本人インストラクターが「月はこう描きます。竹はこう描きます。」と言って、いきなり筆の使い方から入ったのでルーマニア人の参加者は戸惑ってしまいました。このような場合には、前述のような印象派洋画と日本画との違いを説明するなど、FORの調整をしてから画法説明に入るべきでした。その時はインストラクターと事前の打ち合わせの時間がなくて、こうなってしまったのですが。

5.どの文化を紹介するか

 これはジレンマのある問題です。すなわち、海外で受けている文化とそうでない文化を層別してみると、下表にあるように「海外でも普及すること」と「日本らしさ」が相反する傾向が見られるからです。
 
 例えば、スポーツで見ると、柔道は国際化に成功しました。しかし、それはポイント制や柔道着の色とか日本らしさを犠牲にして「普通の格闘技」とすることで勝ち得た成果とも言えます。剣道がそれほど国際的になれないのは、防具の調達などもあるでしょうが、やはり日本らしさに拘っているからでしょう。相撲に至っては、さすがに国技ですから日本らしさを死守しようとします。(このことが外人力士との摩擦要因ともなっていますが。)
 マンガは今後積極的に普及を図るべきでしょう。長編のしっかりとしたストーリー性を持ち迫力ある描写力で描くマンガは、日本発の誇るべき文化です。当センターにもマンガ・アニメをきっかけとして日本語と日本文化に触れるようになったと言う学生も大勢います。アキバについてマニアックな質問をしてくるオタクもいます。(この面に疎い当方としては対応に苦慮するのですが。)マンガ・シンポジウムを行うと、いつもセンター外からも多くの若者たちが集まり、満員盛況となります。

 6.最後に

 「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。」という鉄血宰相ビスマルクの言葉があります。私はさらに加えて「愚者は経験に学び、賢者は歴史と異文化に学ぶ。」と唱えたいと思います。視野を広げ考え方を多彩にすることに喜びを感じるために、文化交流があるのだと思います。

 参考文献:
1.藤原正彦(2005)『国家の品格』新潮新書。
2.中根千枝(1997)「国際社会の日本文化」『英語で話す日本文化』講談社。
3.井上靖(1997)「心の文化」『英語で話す日本文化』講談社。
4.小松左京(1997)「日本文化の選択原理」『英語で話す日本文化』講談社。
5.サミュエル・P・ハンティントン(2000)『文明の衝突』集英社

以上。

 


ルーマニア紹介の講演会

2009年07月28日 14時53分05秒 | プロローグ
 先日、私の住むM市でルーマニア紹介の講演会を行いました。(教育委員会、老荘連合会からの依頼)
当日は朝から、この夏一番の猛暑。私自身も正直、講師でなければ出かけたくないと思うようなバカ暑さでした。それでも150名くらいの方が集まって下さり熱心に聞いて頂けたので、嬉しく思いました。



次のような要旨でお話をいたしました。

★ 日本人は、西欧が一貫して世界をリードしてきたかの如き史観に洗脳されている。しかし、中世においては東欧の方が西欧より進んでいた時代もある。西欧が優位に立つのは産業革命以降であるが、西欧が富を蓄積していたころ、東欧はトルコから西欧を守るための防人の役割も果たした。このような東欧の役割も視野に入れることにより、欧州文明がより立体的に理解される。

★ ルーマニアをはじめ東欧には世界遺産に指定されている歴史的文化財が多く、また手付かずの自然も温存されており、訪問する価値がある。

★ 東欧革命(1989年)により、共産党の一党独裁から自由主義に移行したが、政治・経済面では、まだまだ混乱があり、健全な民主主義・市場経済が根付いたと言える状態ではない。近年はEU加盟により西欧からの援助で7%前後の経済成長が続いていたが、昨年からの世界不況で援助が急減しており困難な局面に入っている。 

★ 実際にルーマニアで生活してみると、貧しいながらも助け合って生きているといった、一昔前の日本のような人情味のある生活を思い起こされることがある。

★ その他、文化交流活動について。


世界遺産 スローライフ村 マラムレシュ

2009年06月19日 16時20分10秒 | プロローグ

 ルーマニアの北辺、ウクライナと国境を接するあたりに民俗学的にも注目されている地方がある。マラムレシュと呼ばれるその地は、カルパチア山脈に囲まれ冬は雪深いため、共産党時代の近代化推進の波にも取り残された。このため昔ながらの生活と伝統が残っている。数年前までは民族衣装で野良仕事をする光景が見られたらしい。

 日本でも近年「秘境」として注目され、TVタレントの体験ルポなどが放映されたり、観光ツアも企画されている。しかし、つつましい村落なので、大型バスなどで乗り付たりして欲しくないところである。
 交通は不便であるので、今回はブラショフからタクシーをチャーターして周った。(旅程としては前回報告の修道院の旅の続き)

 村に着くと、まず木彫りの門が目につく。大きな家には大きな門。やはり門は家格を表す。彫り物は、かなり手が込んでおり、太陽・大地の恵みを象徴したり、魔除けのために神格化された狼をデザインしてあるという。
 

 民家の屋根は檜皮葺きで、日本人には親しみを覚える。


 この村では、自給自足の伝統が息づいている。庭に植えた麻のような植物の繊維を使って織り、普段の服としている。
  
(写真左)麻のような植物を干して織物の材料として使う。(写真右)機織り機
 
自給自足で作った衣類

  民家だけでなく、教会も完全木造で作られている例は欧州では珍しい。1999年世界遺産に指定された。これだけの規模の建物を、樫や樅などの材木で雨露を防ぐ密閉構造に作るのは相当の技術を要するらしい。ルーマニア・ゴシック技法と呼ばれ受け継がれて来た。村人は生まれるとすぐに、この教会で洗礼を受け、結婚式、葬式もここで行う。親も祖父母も皆そうしてきたというから、村民にとっては将に墳墓の地である。

 
朝日に輝く木造教会。
 
燕尾形の木造瓦を重ねて屋根や壁を耐水構造にする。
 
材木をキッチリ組み込むルーマニア・ゴシック。


 


ルーマニアの世界遺産 修道院

2009年06月03日 13時42分47秒 | プロローグ

 395年にローマ帝国が東西に分裂した。西ローマ帝国は、その後80年くらいで滅び民族抗争に明け暮れるが、東ローマ帝国は1000年以上続き繁栄した。西欧でルネッサンス・産業革命が持ち上がるまでの長いあいだ、ヨーロッパの中心は東側にあった。(西欧人は、この事実には触れたがらない。ローマ時代から一貫して自分たちが世界をリードしてきたとの史観を持ち続けたいので。)
 コンスタンチノーブルを首都とするこの帝国は、現在では東ローマ帝国とかビザンチン帝国とか呼ばれているが、当時はローマ帝国、国民はローマ人と呼ばれていた。帝国がイスラム勢力によって滅ぼされた時、ローマ人の多くは同じラテン民族の国である現在のルーマニアに落ち延び、高度の文化を伝えた。したがってルーマニア人はローマ帝国の正統な末裔であることを誇り思っている。
 因みに、ルーマニアの国名は、英語でRoma nia つまりローマの地という意味、ルーマニア人Romanianはローマ人という意味で、東ローマ帝国人が自称していた名前と同じである。

 そんな経緯があるのでルーマニアにはローマ帝国文化を受け継ぐ世界遺産が多い。昨年の春、北方のブコビナ地方にある「5つの修道院」と呼ばれる世界遺産を訪ねた。建物としては、軍艦の形のような丸い屋根が特徴的。外壁は目を見張るほど鮮やかなフレスコでびっしりと宗教画が描かれている。いずれも類を見ない素晴らしさであった。これらが鄙びた村落の中にひっそりと佇んでいるのも良い。
 
 モルビッツァ修道院
 
ヴォロネッツ修道院

 壁画「天国と地獄」最後の審判で天国へ行く者の幸福と地獄へ行く者の苦しみが描かれている。洋の東西を問わず分かりやすい教図といえる。
 
 修道院内部のイコン。   修道院への参道。草原の中に忽然と存在する。 

 この地方にはバスや列車などの手段がなく、点在する修道院を廻るには全く不便である。今回はブラショフでタクシーをチャーターし2泊3日で出掛けた。人数は家内とと運転手とで3人。運転手君は「助手席が空いているので自分のガールフレンドを同行させたい。」と言いだした。こういうチャッカリした要望はいかにもルーマニア人的。差し障りがあるわけでもないのでOKした。約1200kmの距離で、運転手の宿泊費を込みで約3万円。日本の物価から考えるとメッチャ安い。(ガールフレンドの宿泊料はもちろん運転手負担である。)  

運転手のアティ君と彼のガールフレンド


秋篠宮様壮行会 ルーマニアなどドナウの旅

2009年05月12日 12時19分39秒 | プロローグ

 秋篠宮ご夫妻が昨日ルーマニア・ブルガリア・ハンガリー・オーストリ訪問の旅に発たれた。今年はルーマニアは日本との国交再開50周年にあたり、他の国々も国交樹立の節目に当たるのでまとめて「ドナウ流域国交2009」と題して記念行事を行うことになり、宮様ご夫妻が名誉総裁となられたのである。

 これに先立って先月14日、ニューオータニで外務省主催の壮行会が開かれた。自然院にも招待状が届いたので列席した。
中曽根外務大臣、河野衆議院議長、ドナウ4カ国の大使など要人のほか、この地域の交流に関係した人たち約150名が集まった。バイオリニスト天満敦子さんも来られルーマニアの「望郷のバラード」など3曲を演奏された。天満さんとは2年前ブラショフ黒の教会以来である。(2007年10月1日参照)

 宮様ご臨席の宴会への参加は初めての経験なので、少し報告しよう。
先ず会場にアナウンスが流れる。「宮様が入場されますので、道をおあけ下さい。」そして音楽。外務大臣が入口に立ち、お迎えする。宮様は部屋に入り、壁際の金屏風の前に立たれる。大臣が開会のスピーチをする。このとき驚いたのは、スピーチのあいだ両殿下は直立不動のままスピーカーの方をずっと向いておられた。15分くらいの間と思うが身じろぎ一つされないというのは、すごい。さすがプロと思った。

 率直に言うと、自然院の皇室に対する思いは、複雑で迷いがある。
皇室なんて今の日本に必要なのだろうか?皇族といっても、たまたま過去に権力を持った一族に過ぎないのであって、特別扱いする必要があるのだろうか?
 また一方で、こうも思う。大和朝廷以来、日本という統一感が保たれてきたのも皇室という存在があったからこそである。思うに日本の伝統文化は全て和歌に結びついている。日本の中枢を担う人は、たとえ武人であっても和歌の素養がなくては、その資格がないとされてきた。各界のリーダーにこのような高い教養を求めるという伝統は、他国には見当たらない。その和歌の伝統を守ってきた中心が皇室である。そう考えると、日本人の美徳である、もののあわれ、惻隠の情を育み、日本の伝統文化を昇華させるのに皇室が果たした役割は測り知れないという気がする。

 宮様は4カ国訪問にあたって「人と人との心の触れ合い」ということを言われた。私たち一般人は外国に接っする時、どうしても政治・経済という色眼鏡を通した見方をしてしまう。そのような既成概念に捕らわれず、本来の人と人として交流を深めようというのが皇室外交の姿勢であるなら、それもいいな。いや、そんな当たり前のことが新鮮に響くようでは、自分の眼は既に濁っているのかな。宮様のごあいさつを聞きながら、そんなことを感じた。

注:宴会場では写真の撮影は禁止されていましたので、報道写真で我慢して下さい。紀子様とのツーショットが欲しかったのだけれど。 

 


フランダース

2009年04月25日 22時56分32秒 | プロローグ

パリに続いてフランダース地方を旅行した。
 パリ東駅から特急タリスに乗る。

1. ブリュッセル
 まずは、オルタ美術館。この建物ひとつで世界遺産というからすごい。それにしてはわかりにくい所にある。メトロを降りて何回か道を尋ねながら漸く辿り着いた。途中に看板もなく、まるで「大勢来てくれなくてもいいですよ。」というメッセージか。しかし入ってみると管理人さんが上品に暖かく迎えてくれた。ここは、アールヌーヴォの第一人者ヴィクトル・オルタの邸宅を美術館にしたもの。だからワイワイガヤガヤでなく、じっくり静かに観て下さいということかも知れない。アールヌーヴォ様式は、植物などをモチーフに渦巻く曲線で華やかに演出したもので、これまでプラハでもミシャ美術館はじめ随分見てきた。確かに柔らいだ落ち着いた快い気分にしてくれる。しかし真にピッタリと浸り切れるかというと、そこまでの気分までには至らないというのが自然院の正直な気持である。フランス料理は美味しいが、和食のようなピッタリ感はないというのと同じかな。だからと言って和食ばかり食べるというのでは刺激がないから、フランス料理も時々は味わってみたい。乱暴な比喩かもしれないが。

 外観は普通の家のようで目立たないオルタ美術館。 (左)

 次に楽器博物館。世界中の楽器が1500点集まられている。受付で借りたヘッドフォンを付けて楽器の前に立つと、その楽器の音色が聞けるのは楽しい。ここで感じた事は次の2つ。
(1)人間とは、よくもこうまでして音を作りたがるものだということ。世界中で工夫された楽器を見て、改めて感心する。
(2) 現代人は、既に体系化された楽器群を当たり前のものとして受け入れているが、ここに至るまでには、随分と淘汰があったと思われる。例えば、バイオリン・ビオラ・チェロは相似構造であるが、昔はこれらの間のサイズの楽器が無秩序にあったに違いない。それが近代音楽の確立とともに、バイオリン・ビオラ・チェロに集約された。何となく絶滅種の動植物に思いを馳せるような気持になった。

 アールヌーヴォ様式の楽器博物館

グランプラス (世界遺産)
    

 2. ブルージュ
 素晴らしい街。自然院の中では、ベニス・プラハとともに欧州でトップのお気に入りの町と位置付けたい。ブルージュとは、英語のブリッジ、すなわち「橋」である。50以上の橋が街を縦横に流れる運河に掛かっている。13-14世紀にハンザ同盟の主要都市として栄えたが、運河の沈泥により船の出入りができなくなり街の繁栄が止まった。そのため、中世の風景がそのまま残ったという。街中どこを歩いても楽しい。2泊した。
   
マルクト広場
 
 ベギン会修道院(世界遺産)の庭
 

3. ゲント
 
聖バーフ大聖堂。 完成まで4世紀を費やしたという。鐘楼(世界遺産)、市庁舎や聖ミカエル橋周辺も趣がある。
    
駅前の自転車置き場。枝ぶりが面白い。

4. アントワープ
 まず、下の写真を見て下さい。何の建物と思いますか?

 美術館のように見えるが、何とこれは中央駅である。その最上階の店は、ほとんどがダイヤモンド店で占められている。
 
上の写真で左側最上階と二つ下の階に電車が見える。その間の階が「ダイヤモンド」という区画でダイヤモンド店が並ぶ。
 
さらに駅は1500軒のダイヤモンド店に囲われている。世界のダイヤの70%がここで研磨されるという。女性には楽しい街だろうと思う。お金があれば。


ダイヤモンドの細工

  
 ルーベンス像とノートルダム寺院(世界遺産)
 
巨人の手を投げるローマ戦士の像(アントワープとは手を投げるの意味) 

 ダイヤに縁の無い自然院は、ノートルダム寺院がお目当て。ここにはルーベンスの力作「キリストの昇架・降架」がある。「フランダースの犬」でネロ少年と犬がラストシーンで死ぬ直前に見たというのがこの絵である。

キリストの昇架

ベルギーの土産物店
ベルギーの土産物といえばチョコレートと刺繍。飾り付けも工夫をこらしてあり、見るだけでも楽しい。


インスブルック。オールド・スキーヤーのセンチメンタル・ジャーニー

2009年01月18日 01時10分46秒 | プロローグ
 学生時代は、かなりスキーにはまっていた。毎年12月始めになると積雪情報が気になり、冬休みが始まる25日あたりに夜行列車に乗って信州に行き、そこで年を越して帰ってくるというのが恒例のパターンであった。その頃の若いスキーヤーにとって、2度の冬季オリンピックが開催されたインスブルックは将にオーストリー・スキーのメッカであり、憧れであった。「いつかはインスブルックでスキーを。」しかし当時は未だ海外旅行なんて庶民にとっては高嶺の花であった時代、夢物語と思っていた。

 それが今、インスブルックはルーマニアから遠くない所にある。行きたい。だが、40年前のあの悪夢が脳裏をかすめる。

  12月末の白馬スキー場。最終リフトから降りると、他のスキーヤーの人影は潮が引いたように少なくなっていた。ゲレンデを独占するような快感に浸りながら意気揚揚とスピードを楽しんでいた。だが日没後は急速に凹凸が見えにくくなる。チラッと危険を感じた次の瞬間、雪穴に激突。バキューン!脚部に激痛が走る。折れたのは脚かスキーか?一瞬状況がつかめない。心を落ち着かせ、ゆっくりと起き上がる。折れたのはスキーだった。やれやれ不幸中の幸いと自分に言い聞かせ、折れたスキーを肩にかつぎ、痛む足を引きずりながらトボトボと山を下った。いつもはひと滑りの距離が、とてつもなく長く感じられた。星が光を増し、風が急に冷たくなっていった。 ・・・ 青春時代、最大級の屈辱感に苛まれた夕べであった。

  社会人になってからは、あまりスキーをする機会はなかった。そして今、「アラカン」と呼ばれる年代になってしまった。(嵐勘十郎ではなく、アラウンド還暦ということらしい。) さらに情けないことに腰痛もある。スキーは足腰にGの掛かる激しい運動である。耐えられるだろうか? もし骨折でもしたら、世間は何と言うだろうか? 「年寄りの冷や水」「無智、無謀、無分別」 ・・・・・ 耳を覆いたくなるような冷たい言葉が容赦なく浴びせられるに違いない。インスブルックに行くべきか、行かざるべきか、ハムレット的悩みは深まっていった。

 「よし行こう。もし行かなかったら、一生後悔の残る人生を送ることになるから。万一の場合は、それが自然院に与えられた天の試練として、甘んじて受け容れることにしよう。」 腹を決めて正月休みにインスブルックに旅立った。 

 果たして ・・・・・ インスブルックは素晴らしかった。オリンピックコースとなったパッチャーコフェルと大滑降のアクサマ・リツムで滑った。2300m級の頂上から900mの麓まで一気に滑降できる大スケール。日本のような混雑もなく、広いゲレンデをマイペースで滑れる。雲一つない快晴に恵まれ、どちらのスキー場からもインスブルックと周りのアルプスが眺望が楽しめた。

以下は、アクサマ・リツム・スキー場。


以下は、パッチャーコフェル・スキー場。
 

 さらにベルクイーゼル・ジャンプ台も素晴らしい。このジャンプ台は一般公開されており、ジャンパーが飛び出す場所まで近づく事ができる。つまり選手と同じ目線で下を見ることができる。インスブルックの街が真下に見える。「ここから飛ぶのかァ!!」かなり怖~い。


以下は、インスブルックの町並み。