玉城康四郎先生は大乗経典を高く評価していたことは、玉城康四郎著『新しい仏教の探求』で述べれていますので、関心のある方はお読みください。玉城康四郎著『新しい仏教の探求』
大乗経典の説法師は、原始仏典のブッダより器が大きい。あるいは、原始仏典のブッダの人格体が転換し、そこから述べられたもの。大乗仏教の論師、竜樹などの器量では、とうてい、大乗経典の説法師となることはできない。などを述べられています。
玉城康四郎著『仏道探究』では、終地は仏乗である、と述べておられます。
その仏乗とは『法華経』の説明する意味に相当するでしょうね。三乗方便一仏乗真実。本来、仏の乗り物はひとつだけであるという。ダンマの相続者とは仏乗に乗ることでしょうから、三乗のあり方の意味に知り、究極の完成へと向かう仏道を歩みを開始することを意味するでしょうね。
仏道の基本を身につけ、究極の完成へと向かっていくことでしょう。
ダンマの顕現。木っ端微塵の大爆発の体験が究極の悟りの実現と思ってしまうとすれば、やはり、それは阿羅漢のあり方になってしまいます。それを最上と思ってしまうことがきわめて問題です。それがいかにすばらしいものであろうと、単なる体験です。通常、その体験から醒めて、元の木阿弥となるのですから、別に、とりたてて、過大に評価すべきこととは思えません。その体験することはすばらしいことには違いないでしょうが。
菩薩が成仏するまでに三阿僧祇劫という長い時間がかかるといわれていますが、それはそうなのではないでしょうか。
ただ、誤解してならないのは、いま、現実に、この身のまま、ダンマの顕現は体験することができます。それどころか、誰でも、終地も実現できると玉城康四郎先生は強調し、述べています。この実現に三阿僧祇劫もかかるはずもありません。
誰でも、ダンマの直接体験は可能です。
大乗経典のいう成仏とは、原始仏典の言う悟りより、はるか先の、究極のものを指します。大乗の『涅槃経』では、小乗の悟りを小涅槃、大乗の悟りを大涅槃として区別しています。報身を成就した仏のみが究極の涅槃を実現しているのであって、それ以外の者は涅槃をほんの少し体験したにすぎないというのです。
終地から、未来への第一歩は、仏乗にのり、究極の完成へ向かって進むことであると思います。
大乗経典の説法師は、原始仏典のブッダより器が大きい。あるいは、原始仏典のブッダの人格体が転換し、そこから述べられたもの。大乗仏教の論師、竜樹などの器量では、とうてい、大乗経典の説法師となることはできない。などを述べられています。
玉城康四郎著『仏道探究』では、終地は仏乗である、と述べておられます。
その仏乗とは『法華経』の説明する意味に相当するでしょうね。三乗方便一仏乗真実。本来、仏の乗り物はひとつだけであるという。ダンマの相続者とは仏乗に乗ることでしょうから、三乗のあり方の意味に知り、究極の完成へと向かう仏道を歩みを開始することを意味するでしょうね。
仏道の基本を身につけ、究極の完成へと向かっていくことでしょう。
ダンマの顕現。木っ端微塵の大爆発の体験が究極の悟りの実現と思ってしまうとすれば、やはり、それは阿羅漢のあり方になってしまいます。それを最上と思ってしまうことがきわめて問題です。それがいかにすばらしいものであろうと、単なる体験です。通常、その体験から醒めて、元の木阿弥となるのですから、別に、とりたてて、過大に評価すべきこととは思えません。その体験することはすばらしいことには違いないでしょうが。
菩薩が成仏するまでに三阿僧祇劫という長い時間がかかるといわれていますが、それはそうなのではないでしょうか。
ただ、誤解してならないのは、いま、現実に、この身のまま、ダンマの顕現は体験することができます。それどころか、誰でも、終地も実現できると玉城康四郎先生は強調し、述べています。この実現に三阿僧祇劫もかかるはずもありません。
誰でも、ダンマの直接体験は可能です。
大乗経典のいう成仏とは、原始仏典の言う悟りより、はるか先の、究極のものを指します。大乗の『涅槃経』では、小乗の悟りを小涅槃、大乗の悟りを大涅槃として区別しています。報身を成就した仏のみが究極の涅槃を実現しているのであって、それ以外の者は涅槃をほんの少し体験したにすぎないというのです。
終地から、未来への第一歩は、仏乗にのり、究極の完成へ向かって進むことであると思います。