na23さんがコメント欄で、教えてくださり、玉城康四郎著『仏道探究』が絶版であると、はじめて知ったわけで、玉城仏教を他の人に薦めている人間として、それを知らないとは、まことに恥ずかしいのですが、元来、私は恥ずかしい人間なので、まぁ、そんなものだろうと自分のことを諦めていたりする(笑)。
何を不真面目なことを言うか!と、まじめな玉城信者の方から、お叱りを受けそうです。
さて、今後、どうすればよいのか、考えてしまう。
う~ん、どうしよう。
玉城康四郎の最晩年の最高の著作であると思える『仏道探究』が一般の人たちから入手困難になるわけだ。これさえ読めば、ある程度、玉城康四郎の教えが、理解できると、私は強く思っていたわけで、これがなくなることは、玉城仏教を他の人にも理解して欲しいと思っている私としては、かなりの痛手だ。
いま参加している玉城仏教のある勉強会では、講師も参加者も、その理解ができていないと、口には出さず、心の中で密かに実感している。そのような事実を考えると、いま、必要なのは、玉城の『仏道探究』をテキストにして、しっかりと、その基本を押さえ、理解していく必要があるのではないかという思いが私にはある。タイミングを見て、それを提案してみようかな、という思いもあったが、絶版とは、これは困った。
玉城の『仏道探究』をしっかりと主体的に読書することが、その理解に役立つはずなのに。それができなくなりえる。
これでは、玉城仏教マニアのものでしかなくなってしまう。
いま、考えていることは、ちょっとだけでも、玉城康四郎の『仏道探究』の解説を、このブログでしていこうか、という思いが、気乗りはしないが、ある。
このブログのエントリーは、玉城仏教そのものを解説したわけではなく、玉城仏教が最後に辿りついたところから、さらに先に進んでみようという、全く身の程を弁えない、頭がどうかしてしまっているような無謀とも思えることを、私なりに取り組んだ。その成果(5年ほど前に書いたもの)を紹介することにしたわけです。
もちろん、それは学問的に通用するわけでは全くないが、仏道の如来を体感するという根本に基づいてのものであるから、その意味において、かなりの存在意義があるのではないかと勝手に思っている。勝手な自惚れである(笑)。
その思いで、このブログを続けていこうと思っているわけで、ここで、玉城の『仏道探究』の解説するということは、かなり気持ちの上で、しんどい。
しかし、こうなっては、いまはそれをする必要があるのかもしれない。
このブログは、いま私が参加している玉城仏教の勉強会のお仲間には、内緒にしている。これが知れたら、この仏教会の苦言を正直に書いているので、きっと、怒るだろうなと思う(笑)。まして、私はそのなかで、最近入った新人だから、なおさらであろうと思う。う~ん、やばいね~。(笑)
それはともかく、その解説もしてもよいものかという問題もある。自分の力で探究するからこそ、身になるという利点がなくなる。
しかし、いま参加している会では、どうなのか、だいじょうぶか、という疑問を強く感じてしまう現実がある。ごめんなさいね。もし読まれることがあれば。私の正直な思いです。すみません。
少しだけ今後、暇を見て、書いてみることにします。こんなことをいう私って、偉そうですね。すいません。
何を不真面目なことを言うか!と、まじめな玉城信者の方から、お叱りを受けそうです。
さて、今後、どうすればよいのか、考えてしまう。
う~ん、どうしよう。
玉城康四郎の最晩年の最高の著作であると思える『仏道探究』が一般の人たちから入手困難になるわけだ。これさえ読めば、ある程度、玉城康四郎の教えが、理解できると、私は強く思っていたわけで、これがなくなることは、玉城仏教を他の人にも理解して欲しいと思っている私としては、かなりの痛手だ。
いま参加している玉城仏教のある勉強会では、講師も参加者も、その理解ができていないと、口には出さず、心の中で密かに実感している。そのような事実を考えると、いま、必要なのは、玉城の『仏道探究』をテキストにして、しっかりと、その基本を押さえ、理解していく必要があるのではないかという思いが私にはある。タイミングを見て、それを提案してみようかな、という思いもあったが、絶版とは、これは困った。
玉城の『仏道探究』をしっかりと主体的に読書することが、その理解に役立つはずなのに。それができなくなりえる。
これでは、玉城仏教マニアのものでしかなくなってしまう。
いま、考えていることは、ちょっとだけでも、玉城康四郎の『仏道探究』の解説を、このブログでしていこうか、という思いが、気乗りはしないが、ある。
このブログのエントリーは、玉城仏教そのものを解説したわけではなく、玉城仏教が最後に辿りついたところから、さらに先に進んでみようという、全く身の程を弁えない、頭がどうかしてしまっているような無謀とも思えることを、私なりに取り組んだ。その成果(5年ほど前に書いたもの)を紹介することにしたわけです。
もちろん、それは学問的に通用するわけでは全くないが、仏道の如来を体感するという根本に基づいてのものであるから、その意味において、かなりの存在意義があるのではないかと勝手に思っている。勝手な自惚れである(笑)。
その思いで、このブログを続けていこうと思っているわけで、ここで、玉城の『仏道探究』の解説するということは、かなり気持ちの上で、しんどい。
しかし、こうなっては、いまはそれをする必要があるのかもしれない。
このブログは、いま私が参加している玉城仏教の勉強会のお仲間には、内緒にしている。これが知れたら、この仏教会の苦言を正直に書いているので、きっと、怒るだろうなと思う(笑)。まして、私はそのなかで、最近入った新人だから、なおさらであろうと思う。う~ん、やばいね~。(笑)
それはともかく、その解説もしてもよいものかという問題もある。自分の力で探究するからこそ、身になるという利点がなくなる。
しかし、いま参加している会では、どうなのか、だいじょうぶか、という疑問を強く感じてしまう現実がある。ごめんなさいね。もし読まれることがあれば。私の正直な思いです。すみません。
少しだけ今後、暇を見て、書いてみることにします。こんなことをいう私って、偉そうですね。すいません。