ダンマの顕現を体験したことを自慢する奴は最低であると前回、批判した。
当然のことである。単なる体験にすぎないものを、威張るどおりはまったくおかしいことである。
終地に達したとしても、それは同じである。それを威張るのはまったくおかしい。
その人がその人のままであることに変わりがないのにも関わらず、何を理由に威張るという
のだろうか。
ダンマの顕現を体験しただけで、先生面する人たちの神経が私にはまったく理解できない。
きっと、このような人たちは先生となっていい気分でいたいのだろうと私は勝手に想像する。もし、そうであるなら、これほど下劣なことはないと私には思える。それに無自覚であるとすれば、なお酷い。目も当てられない酷さだ。
その人がいかに人格者であろうと関係がない。
師の資質を具えてこそ、師であるというのに相応しい。
その師の資質が何であるのか究明されないままに、ダンマの顕現を得たというだけで、あるいは、それに熟達し、終地となったというだけで、そのまま師となることが自明であると見なされている。その愚かしさに、まったく気づいていないことは、あきれるほどの愚かしさ、喜劇であるとしかいいようがない。
それを私ははっきりと指摘するわけであるが、必ず、猛反発を受ける。
それも単なる感情的な反応レベルであり、このような人たちの存在とは一体何なのかと頭を抱えてしまうほど、きわめて残念な事態である。
このような類の人たちには、何の期待もしていない。勝手にすればと突き放すだけである。
このような類の人たちが圧倒的に多いわけであるが、ほんの少数の人たちは、その愚かしさに気づいている人たちもいる。そのような人たちこそ、これからの仏教の希望の存在であると私は思っている。
終地の実現は誰でも可能であると玉城康四郎はいった。
にもかかわらず、その実現はきわめて難しいものであると玉城の言葉を完全否定いることを平気で言う奴がいる。何という愚かしさだ。自分がそれが困難なことを理由に、他人にもそうであると勝手に決め付けているのだ。自分の見解であるならば、玉城は言葉を否定した上で、述べるべきであるが、まったくそうしていない。自分は玉城の弟子であるから、正しいのだと言わんばかりである。まったく、愚かである。
それが困難となっているのは、その人の独自のわけがあってのことであろう。
また、終地の実現を焦るあまりに、まったく終地を実現していないにもかかわらず、それを実現したと誤認してしまっている人もいる。これもたいへん困る。それでは、その誤りを自ら訂正することが難しくなってしまうだろう。
終地は誰でも実現できるものであると思って、ひたすら、如来の実感を体で学んでいく。ひたすら学んでいく。終地を実現しても、何のこともない。その人のままであることをいまから、よく知って、それを決して理想化、神聖化してはならない。
仏道の基本を身につけたということにすぎない。それだけのこと。それを失わないように、今後も、それを大事にしていくことである。
玉城康四郎のことばにとても印象深いものがある。
それは【如来を大事にしなさい】と。
これは亡くなる直前、数ヶ月前のことばである。
きわめて深い言葉である。シンプルだが、本質を語っている。
【如来と二人連れ】を大事にすること。それを一生、そのように生きること。それが仏道を歩むということ。それは誰でもできることである。
この仏道の根本を無視して、誹謗することは謗法の罪である。決して許されない。仏教の最悪の罪である。
如実知見であるとか、気づきであるとか、そのようなことは仏道の根本とは関係がない。
道徳的であるとか、利他的であるとか、それも仏道の根本とは関係がない。
道徳的でありたいとか、利他的でありたいとかを望むのであれば、事実、そのように行えるように自ら探究していくのが本来すべきことである。そうしたければ、いますぐ、決意し、その探究に乗り出せばよいではないか。
まったくおかしいことに、終地を実現して、如来の働きに従えば、利他であるのだから、その実現を目指せばよいというような、まったく見当はずれの、勝手な妄想を抱く人たちがいる。このような人たちこそ、この道を破壊する人たちで、まったくの怠け者である。
如実知見、気づきなどと大きなお題目にする本が巷でにぎわっているが、では、その人は如実知見であるのか、気づきができているのか、大いに疑問である。
【そのつもり】でいることの愚かしさは、裸の王様のようでもある。
三密行によって、如来になったつもでいることも、同じく困りものである。ある意味、病気である。
三密行であろうと、観想行であろうと、それは手立てにすぎない。如来を実感するための手立てである。
それをわからず、如来の実感を深めていく努力もせず、なんちゃってのレベルで、いい気になっているとすれば、裸の王様である。
仏道の専門家であることを自負する人たちは、終地を最低限、実現すべきである。
しかし、一体、その実現者などひとりもいるとは思えないが。どうしたことか。
まったくの末世である。
われわれは、その過ちに陥ることなく、地道に、地に足をつけて、謙虚になって、ひたすら、如来の体感を学びつづけていくことが大事ではないか。
今日も、宇宙仏を礼拝し、帰依し、その仏に成れるまで、ひたすら、仏道の探究を実践していこうではないか。
玉城康四郎は、いうまでもなく、死後も仏道を歩んでいくといっている。何度生まれ変わって、実践しつづけ、浄土を統べるようになりたいと望んでいた。
玉城はしっかりと発心していた。
それを無視して、終地を目指すことが発心などと勝手な考えをしてはいけない。
大乗経典の教えるように、発心し、仏乗に帰依し、仏乗に乗ろうではないか。
当然のことである。単なる体験にすぎないものを、威張るどおりはまったくおかしいことである。
終地に達したとしても、それは同じである。それを威張るのはまったくおかしい。
その人がその人のままであることに変わりがないのにも関わらず、何を理由に威張るという
のだろうか。
ダンマの顕現を体験しただけで、先生面する人たちの神経が私にはまったく理解できない。
きっと、このような人たちは先生となっていい気分でいたいのだろうと私は勝手に想像する。もし、そうであるなら、これほど下劣なことはないと私には思える。それに無自覚であるとすれば、なお酷い。目も当てられない酷さだ。
その人がいかに人格者であろうと関係がない。
師の資質を具えてこそ、師であるというのに相応しい。
その師の資質が何であるのか究明されないままに、ダンマの顕現を得たというだけで、あるいは、それに熟達し、終地となったというだけで、そのまま師となることが自明であると見なされている。その愚かしさに、まったく気づいていないことは、あきれるほどの愚かしさ、喜劇であるとしかいいようがない。
それを私ははっきりと指摘するわけであるが、必ず、猛反発を受ける。
それも単なる感情的な反応レベルであり、このような人たちの存在とは一体何なのかと頭を抱えてしまうほど、きわめて残念な事態である。
このような類の人たちには、何の期待もしていない。勝手にすればと突き放すだけである。
このような類の人たちが圧倒的に多いわけであるが、ほんの少数の人たちは、その愚かしさに気づいている人たちもいる。そのような人たちこそ、これからの仏教の希望の存在であると私は思っている。
終地の実現は誰でも可能であると玉城康四郎はいった。
にもかかわらず、その実現はきわめて難しいものであると玉城の言葉を完全否定いることを平気で言う奴がいる。何という愚かしさだ。自分がそれが困難なことを理由に、他人にもそうであると勝手に決め付けているのだ。自分の見解であるならば、玉城は言葉を否定した上で、述べるべきであるが、まったくそうしていない。自分は玉城の弟子であるから、正しいのだと言わんばかりである。まったく、愚かである。
それが困難となっているのは、その人の独自のわけがあってのことであろう。
また、終地の実現を焦るあまりに、まったく終地を実現していないにもかかわらず、それを実現したと誤認してしまっている人もいる。これもたいへん困る。それでは、その誤りを自ら訂正することが難しくなってしまうだろう。
終地は誰でも実現できるものであると思って、ひたすら、如来の実感を体で学んでいく。ひたすら学んでいく。終地を実現しても、何のこともない。その人のままであることをいまから、よく知って、それを決して理想化、神聖化してはならない。
仏道の基本を身につけたということにすぎない。それだけのこと。それを失わないように、今後も、それを大事にしていくことである。
玉城康四郎のことばにとても印象深いものがある。
それは【如来を大事にしなさい】と。
これは亡くなる直前、数ヶ月前のことばである。
きわめて深い言葉である。シンプルだが、本質を語っている。
【如来と二人連れ】を大事にすること。それを一生、そのように生きること。それが仏道を歩むということ。それは誰でもできることである。
この仏道の根本を無視して、誹謗することは謗法の罪である。決して許されない。仏教の最悪の罪である。
如実知見であるとか、気づきであるとか、そのようなことは仏道の根本とは関係がない。
道徳的であるとか、利他的であるとか、それも仏道の根本とは関係がない。
道徳的でありたいとか、利他的でありたいとかを望むのであれば、事実、そのように行えるように自ら探究していくのが本来すべきことである。そうしたければ、いますぐ、決意し、その探究に乗り出せばよいではないか。
まったくおかしいことに、終地を実現して、如来の働きに従えば、利他であるのだから、その実現を目指せばよいというような、まったく見当はずれの、勝手な妄想を抱く人たちがいる。このような人たちこそ、この道を破壊する人たちで、まったくの怠け者である。
如実知見、気づきなどと大きなお題目にする本が巷でにぎわっているが、では、その人は如実知見であるのか、気づきができているのか、大いに疑問である。
【そのつもり】でいることの愚かしさは、裸の王様のようでもある。
三密行によって、如来になったつもでいることも、同じく困りものである。ある意味、病気である。
三密行であろうと、観想行であろうと、それは手立てにすぎない。如来を実感するための手立てである。
それをわからず、如来の実感を深めていく努力もせず、なんちゃってのレベルで、いい気になっているとすれば、裸の王様である。
仏道の専門家であることを自負する人たちは、終地を最低限、実現すべきである。
しかし、一体、その実現者などひとりもいるとは思えないが。どうしたことか。
まったくの末世である。
われわれは、その過ちに陥ることなく、地道に、地に足をつけて、謙虚になって、ひたすら、如来の体感を学びつづけていくことが大事ではないか。
今日も、宇宙仏を礼拝し、帰依し、その仏に成れるまで、ひたすら、仏道の探究を実践していこうではないか。
玉城康四郎は、いうまでもなく、死後も仏道を歩んでいくといっている。何度生まれ変わって、実践しつづけ、浄土を統べるようになりたいと望んでいた。
玉城はしっかりと発心していた。
それを無視して、終地を目指すことが発心などと勝手な考えをしてはいけない。
大乗経典の教えるように、発心し、仏乗に帰依し、仏乗に乗ろうではないか。