その永遠の命に至る食べ物というのは「人の子があなたがたに与える食べ物」(ヨハネ6:27)であるといいます。「人の子」は終末的な響きをもつ語として、すでに共観福音書でも用いられていますが、「与える」とは、いつか未来のある終末の時に初めて与えるというふうには聞こえない動詞形だと言われています。つまり、これからずっと与え続けるという意味を含むというのです。
福音は、たんなる未来の景色だけではなく、今信じたここから始まる恵みをもたらすものとなっています。
なお、食べ物のために働くように勧められているのが、労してパンを得よという意味ではないことはもちろんです。また、何か善行を積むことによって永遠の命が与えられるというふうに読むのも、おかしなものです。あくまでも、パンとの比較と捉えてみましょう。
続く「父である神が、人の子を認証されたからである」(ヨハネ6:27)も、分かりにくい表現です。人の子が、父なる神によって権威づけられているという表現なのでしょう。日本語の認証という語が適切かどうかは、決定しづらいものなのかもしれません。
福音は、たんなる未来の景色だけではなく、今信じたここから始まる恵みをもたらすものとなっています。
なお、食べ物のために働くように勧められているのが、労してパンを得よという意味ではないことはもちろんです。また、何か善行を積むことによって永遠の命が与えられるというふうに読むのも、おかしなものです。あくまでも、パンとの比較と捉えてみましょう。
続く「父である神が、人の子を認証されたからである」(ヨハネ6:27)も、分かりにくい表現です。人の子が、父なる神によって権威づけられているという表現なのでしょう。日本語の認証という語が適切かどうかは、決定しづらいものなのかもしれません。