ネヘミヤ9:9-21
思い切った政策でした。捕囚から帰還した民は、民族純潔主義とでも言うような政策を断行したのです。捕囚時に、そうした気運が高まったのかもしれません。イスラエルは、やり直さなくてはならない、としたのです。その事の是非を表することはできませんが、新生イスラエルの姿を、とりあえずここに見るものです。
「罪を告白し、彼らの神、主を礼拝した」(9:3)というような一連の告白、あるいは祈りが、ここにあります。一つの詩編の詩だと見てもよいようなものです。主を称えた後、出エジプトの出来事を振り返ります。新しいイスラエルのためには、アブラハムなどの父祖のことよりも、出エジプトの方が大きな問題であったのです。
これは、罪の告白と呼んでよいはずなのですが、他方、神の赦しが大いに称えられています。「あなたは恵みに満ち、憐れみ深い赦しの神」という捉え方が、歴史を見つめる眼差しを貫いています。人間のすることが如何に愚かであるか、それを神が如何に忍耐してきたか、その対比が顕著です。それを、出エジプト記の叙述を忠実に辿って表現します。
しかし、そもそも出エジプト記自体が、捕囚期にまとめられたのではないか、とも見られていますから、ネヘミヤ記と一体化していて当然だ、と受け取ることもできましょう。「私たちの先祖」のしでかしたことを正面から描いていますが、この調子で、この告白はずっと続きます。「正しいのはあなたです」「私たちは悪を行ったのです」(9:33)と。
イスラエルの歴史が「私たちの罪」(9:37)となって現前します。それは私たちのことでもあります。神の「驚くべき業を忘れ」「奴隷の身に戻ろうと考え」「子牛の鋳造を造り」「神だ」と言ったことは、他人事ではありません。この愚かさに対して、主なる神の慈しみが、ここで大きく描かれ、私たちの胸いっぱいに拡がってゆくのを覚えます。
あなたは深い憐れみをもって
彼らを荒れ野に見捨てることは
なさいませんでした。(ネヘミヤ9:19)
思い切った政策でした。捕囚から帰還した民は、民族純潔主義とでも言うような政策を断行したのです。捕囚時に、そうした気運が高まったのかもしれません。イスラエルは、やり直さなくてはならない、としたのです。その事の是非を表することはできませんが、新生イスラエルの姿を、とりあえずここに見るものです。
「罪を告白し、彼らの神、主を礼拝した」(9:3)というような一連の告白、あるいは祈りが、ここにあります。一つの詩編の詩だと見てもよいようなものです。主を称えた後、出エジプトの出来事を振り返ります。新しいイスラエルのためには、アブラハムなどの父祖のことよりも、出エジプトの方が大きな問題であったのです。
これは、罪の告白と呼んでよいはずなのですが、他方、神の赦しが大いに称えられています。「あなたは恵みに満ち、憐れみ深い赦しの神」という捉え方が、歴史を見つめる眼差しを貫いています。人間のすることが如何に愚かであるか、それを神が如何に忍耐してきたか、その対比が顕著です。それを、出エジプト記の叙述を忠実に辿って表現します。
しかし、そもそも出エジプト記自体が、捕囚期にまとめられたのではないか、とも見られていますから、ネヘミヤ記と一体化していて当然だ、と受け取ることもできましょう。「私たちの先祖」のしでかしたことを正面から描いていますが、この調子で、この告白はずっと続きます。「正しいのはあなたです」「私たちは悪を行ったのです」(9:33)と。
イスラエルの歴史が「私たちの罪」(9:37)となって現前します。それは私たちのことでもあります。神の「驚くべき業を忘れ」「奴隷の身に戻ろうと考え」「子牛の鋳造を造り」「神だ」と言ったことは、他人事ではありません。この愚かさに対して、主なる神の慈しみが、ここで大きく描かれ、私たちの胸いっぱいに拡がってゆくのを覚えます。
あなたは深い憐れみをもって
彼らを荒れ野に見捨てることは
なさいませんでした。(ネヘミヤ9:19)