体内にある,命の川
体内の細胞の数は人間の理解を超えています。控え目に見積もっても75兆はあります。それは地上の人口の1万5,000倍に相当します。
酸素がこれらの細胞の一つ一つに達するには,どんな近代都市の輸送システムよりも複雑で効率のよいシステムが必要とされます。
人体の輸送システムは,心臓,動脈,静脈,毛細血管の網状組織などを流れる血液で成り立っています。
それは「約10万マイル[約16万㌔]の管から成る……閉ざされたシステムである」と,「人体」という本は述べています。その推定によれば,人の血管を切ってつなぎ合わせると,地球を4周するほどの長さになります。
この膨大な網状組織は,腸壁から吸収された食物の小さな分子をも運搬します。そのようにして,一見重要とは思えない部分をも含め,全身に食物と酸素が供給されるのです。
皮膚からは500万本ほどの毛が生えていますが,毛細血管の網状組織がその1本1本の毛根に向かっています。細い毛の1本1本に配慮が払われているのは驚くべきことです。
イエスは弟子たちに,『恐れてはなりません。あなた方の頭の毛までがすべて数えられているのです』という保証をお与えになりました。
「そして,体は殺せても命を奪えない人たちを恐れてはなりません。命も体もゲヘナ(墓)で滅ぼせる方を畏れなさい」。
(マタイ 10:28)
「ところが,あなたたちは髪の毛まで全て数えられています」。
(マタイ 10:30)
血液の成分により,体は毎分推定30億個の新しい細胞を作ることができます。毛の成長は,根元にある細胞が増殖した結果なのです。古い皮膚が体から剥がれ落ちると,その下では新しい皮膚細胞が増殖します。
腸壁から細胞がこすり取られると,それに代わる新しい細胞が作られます。骨髄の中では,毎秒幾百万個もの赤血球細胞が作られています。
当然ながら,こうしたすべての活動の結果として多くの老廃物が生まれます。ここでも救援にやって来るのは血液であって,二酸化炭素と微小な老廃物の粒子を運び去ります。
老廃物の中でも,死んだ細胞のように大きな粒子は,血液を通して組織内に入って来る白血球細胞が食い尽くします。感染が生じている箇所には,任務を果たすためにこの衛生部隊がたくさん集まります。
聖書は,医学によってこうした事実が発見される前から,その点を「肉の魂[つまり,命]は血にある」と簡潔に言い表わしていました。
「生き物の命は血の内にあるからであり,私がそれをあなたたちに与え,自分たちのために祭壇で贖罪を行えるようにした。血が,その内にある命によって贖罪を行うからである」。
(レビ記 17:11)
『あらゆる生き物の命はその血であり,命が血の内にあるのである。そのため私はイスラエル人にこう言った。「どんな生き物の血も食べてはならない。あらゆる生き物の命はその血だからである。血を食べる人は皆,除かれる」』。
(レビ記 17:14)
信仰
「クリスマス精神」が本当にキリスト教のものであるなら,信仰がその特色となっているはずですが,果たしてそうでしょうか。
ヘブライ 11章1節の定義によれば,クリスチャンの信仰は現実の事柄すなわち事実に基づいたものです。クリスマスが主として伝統や神話や偽りに基づいているのであれば,
信仰を強めるものとなるとどうして言えるでしょうか。
「信仰とは,望んでいる事柄が実現するという確信であり,目に見えないものが実在するというはっきりとした証拠を持っていることです」。
(ヘブライ 11:1)
「信仰とは、望んでいる事柄に対する保証された期待であり、見えない実体についての明白な論証です」。
(ヘブライ 11:1)
ドイツで出されたある教区文書は,キリストと初期クリスチャンについて述べた中で,「人々にとって,イエスの誕生日よりその教えの方がはるかに重要だった」としています。
さらに,「初期のクリスチャンたちは誕生日を祝うといったことを知らなかった」とも書かれています。
イエスの教えを信じることやイエスの贖いの犠牲の価値に信仰を働かせることをなおざりにするなら,キリストの誕生を信じることにどれほどの益があるでしょうか。
キリストの誕生を信じるのにそれほど信仰はいりませんが,その贖いの犠牲の価値および設立された神の王国でキリストが王となっておられることを信じるには強い信仰が必要とされます。
「クリスマス精神」が本当にキリスト教のものであるなら,クリスマスの時に教会の出席者が増えるだけで,一年を通じてキリストに見倣った真の信仰の業を行ないたいという気持ちを教会員に持たせることができないのはなぜでしょうか。
要するに,「クリスマス精神」が本当にキリスト教のものであるなら,神の霊の実がその特色となっているはずです。実際にそうでしょうか。
ガラテア 5章22,23節によれば,「霊の実は,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,柔和,自制です」。
わたしたちがクリスマスの精神として目にしているのはこうした特質でしょうか。
それとも,これまでに見てきたように,クリスマスの時季に実際に多く目にするのは,聖書のその同じ章の19~21節に述べられている,次のような堕落した肉の業の方だと言えるでしょうか。
「さて,肉の業は明らかです。それは,淫行,汚れ,不品行,偶像礼拝,心霊術の行ない,敵意,闘争,ねたみ,激発的な怒り,口論,分裂,分派,そねみ,酔酒,浮かれ騒ぎ,およびこれに類する事がらです。……そのような事がらをならわしにする者が神の王国を受け継ぐことはありません」。(ガラテア 5:19~21)
誠実な気持ちから非常に慎み深くクリスマスを祝っていると思われる人々の観点からではなく,世界中で行なわれる一般的な祝いという観点に立って総合的に見た時,何が分かるでしょうか。
あからさまに「肉の業」が行なわれ,「霊の実」の欠如している場合があまりにも多いことがはっきりしています。
神の霊の実を表わし,肉の業を避けることに関心のある人々が「クリスマス精神」のとりこにならないようにする理由が,これで一層はっきりしたのではないでしょうか。
これらの事柄を祈りのうちに考慮し,クリスマスをどのように過ごすかに関して,キリスト教の創始者であるキリストに喜ばれるような決定を下すのに役立たせてくださるよう願ってやみません。