「皇室問題INDEX」設立準備室

マスメディアによる皇室の偏向報道、ネットに流れる東宮家への誹謗中傷を検証しています。

■検証:雅子様バッシングに使われる「皇后・皇太子妃の祭祀の伝統」とは?

2013-06-24 00:07:36 | 日記
 6月22日掲載の皇室ウイークリーは、タイトルに「皇后さま、お疲れ押して宮中祭祀に」との言葉を入れ、疲労などのため公務をお休み中の皇后様が、心配する側近の進言をふりきって「香淳皇后例祭の儀」に臨まれたことを伝えています。話はそれで終わらず、雅子様が祭祀に臨まれるのが難しいため、宮中祭祀の「女性側」の伝統が途絶えてしまわないか皇后様が心配されているとし、「宮中祭祀の伝統をどうやって継承していくか。次世代の皇族の方々と相談していく必要もある」という宮内庁幹部の言葉を伝えています。

-----------(引用開始)

【皇室ウイークリー】2013.6.22
(284)皇后さま、お疲れ押して宮中祭祀に 雅子さまと愛子さま、ご帰国の皇太子さまをそろってお出迎え

 皇后さまは10日から体力低下などのため皇居・御所で静養中だったが、側近に止められながらもあえて臨み、拝礼されていた。宮中祭祀(さいし)の伝統を途絶えさせてはいけないという皇后さまの強いお気持ちがあったようだ。

 側近によると、皇后さまの宮中祭祀は年間14あるが、最近では、以前からの頸椎(けいつい)症性神経根症への影響などを考慮した医師の勧めで、お出ましは限定的になっている。加えて最近のお疲れと体力低下もあり、今回についても側近は「お休みいただいたほうがいい」と進言した。しかし、皇后さまは、拝礼をやめてしまうと長く続いてきた宮中祭祀の女性側の礼法が絶えてしまうことを危惧し、少なくとも、新年の元始祭と春秋の皇霊祭、昭和天皇祭と香淳皇后の例祭には臨みたいお気持ちを示されたという。

 宮中祭祀には、ほかの皇族も庭上から参列できるが、天皇、皇后、皇太子、皇太子妃だけは宮中三殿の中で拝礼するなど、特別な作法がある。服装も伝統ある装束で、その準備を手伝う宮内庁の女官や女性職員らにも特別な作法や技術が求められる。

 天皇陛下が務められてきた宮中祭祀は、ともに臨まれている皇太子さまへと継承されるが、「女性側」は皇太子妃雅子さまが病気療養中で祭祀に臨まれるのが難しいため、皇后さまがお出ましにならないと「ご不在」ということになる。側近によると、皇后さまは、女官や職員らに作法や伝統技術がうまく受け継がれず、途絶えてしまわないか心配されているという。

 「宮中祭祀の伝統をどうやって継承していくか。次世代の皇族の方々と相談していく必要もある」。宮内庁幹部は話した。

-----------(引用終り)

 雅子様バッシング記事を長期にわたって読まされてきた身には、この話の筋からすぐ、「祭祀を使った雅子様叩き」のパターンだとわかります。「皇后様はこんなに立派に務められている。それにひきかえ雅子様は…」という展開で、ご病気療養中の雅子様にできないことを責め立ててくるわけです。この手口を使うのが「両陛下側近の千代田」であることも、お約束です。上記もすべて、側近(宮内庁幹部)の伝聞であることが記事中に明記されていますね。

 「美智子様はご実家と絶縁されている、それにひきかえ雅子様は…」というバッシングについては、別トピ<検証:雅子様叩きに使われる「美智子様はご実家と疎遠だった」は本当?>で検証し、根拠のないものであったことがわかっています。同じように、雅子様叩きに使われている「皇后・皇太子妃の宮中祭祀の伝統」が、言われているようなものなのかどうか、大いに疑問です。

 Dianthus様が別トピに書かれたものを最初のコメントとして、この検証を始めたいと思います。

 この件について、あなたのご意見や情報をお寄せください。
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宮中の伝統のこと (Dianthus)
2013-06-24 00:18:11
 皇室ウィークリーの記事(2013年6月22日)について、2chでは次のような、興味深い会話が出ていました。

-------------(引用開始)

○2013/06/22(土)
近世以降、皇后不在の時期が多かったし、女御も皇太子の正室も臣下扱いだったから、「皇太子妃」という位は明治まで存在しなかったんだけど。誰がいつ、皇后と皇太子妃の祭祀を創り出したの? 皇族出身の良子さまが天皇家の祭祀をするなら理解できるけど、民間出の美智子さまが天皇家の祭祀をするって天皇家の神道の歴史から見て異様なんだけど。

○2013/06/22(土)
仁孝天皇の正妃二人は姉妹で、姉は薨去後に贈皇后・贈皇太后位を、妹は孝明天皇の嫡母として皇太后になったけれど。二人とも仁孝天皇在世中は女御の身分。二人の女御は皇后の祭祀をしていただろうか? 英照皇太后は明治天皇の嫡母で孝明天皇の正妃だけど、孝明天皇在世中は准三宮女御止まりで、孝明天皇の姉の准三宮桂宮淑子内親王の下座扱いだった。そんな准后女御九条夙子は皇后の祭祀をしていただろうか? 皇后の祭祀の伝統って何?

---------------(引用終り)

なるほど、例えば平安時代だと、大嘗祭に「女御代」というのが立てられて、そこのところで折口信夫だったか?水の女としての藤原氏(当時の女御は藤原氏だったから)という論があったような。

でも、それ以外の、伊勢斎宮にしても賀茂斎院にしても、天皇家の未婚の内親王や女王が中心となって行うものだったはず。あるいは、宮中で行われる四方拝などは天皇が中心になって行うものだし。朝拝や豊明節会とかも、天皇と臣下と女官とで行うものであって、中宮などの外から来た女性皇族は関係なかったんじゃないだろうか。

そもそも上記の方々のおっしゃる通り、近世までは「宮」「女院」の立場もあいまいだったし、祭祀も随分と違っていたはず。現在のように天皇家の父祖を祀る祭祀がこんなに沢山あったとは思えない。そりゃ、代替わり時に、いくつかの直接関わる父祖の御陵に、ぐらいの祭祀はあったろうと思うが。

「祭祀の伝統」が明治以降であるのは間違いないし、そこに女性皇族がどの程度関わってくるのかについては、本当にどの程度あったのやら。

近年は、国民の無関心を良いことに、訳知り顔の「宮内庁関係者」や「皇室評論家」や「宮内庁記者」が、皇室の伝統ということをすぐ偉そうに述べるけれども、どうも内容としてはここ数十年の、悪くすると平成以降の伝統wしか、語っていないように思えることが多い。

特に、現在のように、次代の天皇たる皇太子殿下をないがしろにするような動きや報道が、社稷をゆるがす「皇統争い」そのものにつながることへの危機感のなさを見るに、宮内庁も宮内庁関係者も、全然皇室の伝統がわかっていないと思わざるを得ない。

皇統争いが何をもたらすのか。

しかも、そもそも世襲によって、生まれながらにその地位が一生定まっている、という在り方に疑問が呈される現代社会において、恣意をはさんだ「皇統争い」が何をもたらすのか。それは、男系男子の伝統がなくなるとか何とかいうレベルではない、根幹的な危機につながるのだということに、まったく危機感がない。

何という、識見のなさ、洞察力のなさだろうと思います。こういう噴飯モノの知識しかない宮内庁だから、紀子妃は「それなら私が」と伊勢の祭主になると言い出せるのでしょうし、そんなことを言う紀子妃が、皇后にふさわしいなどということにもなるのでしょう。
いつからこんなに信心深くなった (ranteijo)
2013-06-24 06:25:44
最初にromするなどと言いながら、毎日しゃしゃり出てすみません。管理人さまが女性だと、つい井戸端会議の乗りで気軽に書いてしまいます。決して西田様のところより軽く見ているわけではないのですが。

皇室が色々な祭祀をしていると、昭和時代に意識したでしょうか。
天皇家個人が神道を祀る。それは天皇家自体にも信教の自由を認めるということで、あまり表に出すことは政教分離に抵触します。
実況放送されるわけでもなく、国民は天皇の祭祀など殆ど知らないでいました。

それが霊験があるというなら、平成に入ってからの神怒っているかのような災害続きは何と言うのでしょう。
祭祀に熱心な美智子さまの、まるで隠れキリシタンのようなふるまいは? ご実家が洗礼を受けたことは?
眞子さまの"キリスト教"大学進学は? 敬宮さまだったら耳を聾するほどの非難の声が起きるでしょう。
大嘗祭を憲法違反と批判した大学ですよ。
東宮家がクリスマスイルミネーションを見に行ったことを叩き、紀子妃がツリーの点灯式に出ることは叩かない。

雅子妃は病に倒れる前はきちんと祭祀をされていた。
マスコミは雅子妃が祭祀を休まれる日をチェックして性周期を割り出し、妊娠の兆候をいち早く掴もうとしていた。(何という卑しい行為)
でも、それが出来るほど祭祀に出られてたという証明です。それをあたかも、最初から婚家の信仰を拒否しているというような書き方。
宮家の皆さんは見ているだけなのに、「紀子妃は祭祀に御熱心」と持ち上げる。

お妃が病気だから皇太子さまは天皇にふさわしくないとこじつけながら、なぜか日々の生活を隠蔽されている悠仁さまは天皇にふさわしいのか、という議論はなされない。


正直言って、決して他の皇族方に好かれてはいなかった美智子さまのやり方が、突然皇室のスタンダードになってしまった。美智子流を1ミリでも外すと叩かれるようになった。
やはり今の東宮バッシングの黒幕は……と穿ってしまいます。

こんにちは。 (シロキジ)
2013-06-24 11:09:39
もうひょっとしたらご覧になられたことがおありでしたらごめんなさい。
宮中祭祀や天皇家の伝統にお詳しそうなお方のブログをみつけました。
宗教ジャーナリストの斉藤吉久さんという方のサイトです。
http://izasaito.iza.ne.jp/blog/entry/3041796/

「正論」などにも時々寄稿なさってるようです。

やはり、Dianthutsさまがおっしゃるように
宮中祭祀の主体はあくまでも天皇で、
宮内庁がホームページで宮中祭祀が天皇皇后のペアで行われているようなイメージ付けの記述をしていることにに疑問を抱かれておられます。
別の記事では先日の新潮の記事にも言及されていて、雅子様のご病気は皇太子様の天皇即位をなんら妨げるものではないと明快に論じられてます。
残念ながら、女性天皇には反対のお立場のようですが…。

皇后様も、お医者様も止めておられるのだから無理なさらずご静養におつとめいただきたいものですね。
宮中祭祀は明治以降の伝統 (Dianthus)
2013-06-24 11:39:23
根拠がwikiというのが、ちょっと情けない?かもしれませんが。

------------以下引用-------------

今日行われている祭祀の多くは、明治維新期に大宝令、貞観儀式、延喜式などを継承して再編された物である。
天皇の「現人神」としての神格化や神仏分離などに合わせて、途絶えていた祭祀の復興や新たな祭祀の創出が行われた。1871年(明治4年)には「神社は国家の宗祀」との太政官布告が出され、1908年には宮中祭祀について定めた皇室祭祀令が皇室令の一つとして制定された。
(中略)
現代での位置づけ[編集]

日本国憲法やその下の法律に宮中祭祀についての明文の規定はなく、現在の宮中祭祀も皇室祭祀令に基づいて行われている。また、これに係る予算も皇室の内廷費によって処理されている。このため、多くの憲法学者が、戦後の宮中祭祀を「天皇が私的に執り行う儀式」と解釈するようになった。一方では、保守系の学者を中心に、「皇室に私なし」とする立場から、戦後の「内廷」を戦前の「宮中」のような公的な存在ととらえ、宮中祭祀を「内廷の公的な祭祀」とする学説が根強く存在している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E4%B8%AD%E7%A5%AD%E7%A5%80



※宮中祭祀は、明治以前の伝統を一部引き継ぎながらも、明治政府という国家のために制定されたものであり
大日本帝国憲法から日本国憲法へと憲法が改正され、天皇と国家の関係が変わった時点で、少なくとも法的根拠は失い、にも関わらず、すでに廃止されている法令に基づいて、私的に(天皇家の行事として)行っているもの、ということについては、まず銘記しておかねばならないでしょう。
即位儀礼(大嘗祭)にみる、皇配と祭祀の関わり (Dianthus)
2013-06-24 12:22:44
まず、明治以前には、皇配(天皇や皇位継承者の配偶者)という概念が、どこまで確固としたものとして存在したかというと、はなはだ疑問だと言わざるを得ません。

まず、宮中に、天皇や皇太子の配偶者として入内することは、「宮仕え」と呼ばれていました。これは、男性官人や女性官人が宮中で働くことと同じ呼び方です。
「宮中で働くこと」と、「宮中に入って、天皇や皇太子と性的な関係を持続的に結ぶこと」とが、まったく同じ用語で語られるという点を重視すると、「結婚」という概念がどこまであったのか、はなはだ疑問、という気になってきます。

中宮・皇后・皇太后といった地位(后)が、天皇が即位してから決められるもので、天皇が即位してもしばらく決まらないこともよくあり、平安時代前期には、しばしば生んだ子が天皇になった時に中宮なり皇太后なりになる、のも、「皇配」という概念の未発達を窺わせます。

女院制度が確立した後は、女院たる資格者は
①内親王が准母や准后を経て女院となる ②中宮(天皇の妻)が代替わりによって女院となる ③国母(天皇の母)が女院となる 
という三つのパターンになりますが、ここでも「母」が大きな意味をもつことがよくわかります。皇配であることと、国母(天皇の母)であることが同等なのです。

こうした江戸時代までの天皇像において、皇配が祭祀や儀礼に関わる、という意識がないのは、当然のことといえます。
祭祀や儀礼の主体は天皇であり、それに群臣や女官が奉仕する。
天皇たる祭祀のうち、最も重要なのは、即位儀礼の一環である、大嘗祭でしょうが、江戸時代までの大嘗祭には、皇配の関わる余地はないようです。
大嘗祭の御禊においては、女御が禊に奉仕するという形が、唯一天皇の妻と大嘗祭との関わりと言えますが、幼少天皇だったり、妊娠中だったりして、女御が祭祀に関われない時には、「女御代」が立てられました。
逆に言えば、天皇の妻であることに、そこまで大きな意味がなかったということになります。
折口信夫氏は、禊への奉仕という限定的な関わり方をすることから、「水の女」としての藤原氏の娘の巫女性を説きました。
つまり、禊の奉仕は、皇配としてではなく、藤原氏のむすめとして行っている、と読み解くわけです。

明治になって、即位大嘗祭は新しい形を取ることになりました。
wikiによれば

(-------------以下引用-------------)
明治維新により東京奠都し、天皇が国家の最高指導者に位置付けられてからは、旧皇室典範並びに登極令の制定により、天皇の践祚・即位に関わる一連の儀式の様式が定められ、御大礼(即位の礼)は京都で行う旨規定されていた為、大正天皇・昭和天皇では、京都御所で平安様式により執り行われた。
1947年(昭和22年)制定の現行の皇室典範では場所については規定されず、平成の即位の礼・大嘗祭は皇居で行われた。この為、従来「紫宸殿の儀」と称していた儀式が「正殿の儀」となった。
(中略)
大正天皇の即位の礼
皇室典範・登極令制定後、初めてとなった大正天皇即位の礼は、1915年(大正4年)11月10日に京都御所紫宸殿で行われた。本来は1914年(大正3年)に挙行される予定だったが、同年4月に昭憲皇太后の崩御により1年延期された。明治天皇の即位時には新調できなかった高御座等が新調された。また、この時から高御座の隣に皇后の御座である御帳台(これは江戸時代以前の帳台と異なり、高御座に準拠して考案された新儀である)が設けられたが、貞明皇后は親王(澄宮崇仁親王)を懐妊中であった為、欠席した。貴族院に在職中だった柳田國男も参列し、大嘗祭についての提言を残している[4]。礼服は復活せず、束帶が使用されたものの、高御座は江戸期の様式が復活し、その他旗の類も神話にちなむ刺繍を入れたものの、榊はやめて綾や錦を使うなど、総じて江戸時代以前の様式と明治の即位を折衷したような形式になっている
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AE%E7%A4%BC


折口信夫氏は、「大嘗祭の本義」という論文にて、皇位継承者が皇祖の御霊を自らのなか迎え入れることによって、新たな天皇として再誕すること
(ニニギノミコトが天孫降臨してきたことを儀礼によって繰り返す)
その結果、新たなヒツギノミコとなられた天皇が、高御座に上り、群臣にことばを述べる、という風に、大嘗祭の中味を読み解きますが
その際、高御座に立つのは天皇だけで、皇配はこの即位儀礼には関わりません。皇配という概念がないからでしょう。

ところが、明治以降初めての即位儀礼である、大正天皇の即位儀礼では、皇后が天皇と共に群臣の前に立ち、即位の祝いを受ける、という儀礼に、新たに変えられたわけです。
明治以降の儀礼は、ヨーロッパの王制を取り入れている (Dianthus)
2013-06-24 12:50:57
明治に制定された、新たな即位儀礼において、なぜ、天皇と共に皇配(皇后)が群臣の前に立つ、という形が新たに創られたのか。

ここで、すぐ思い及ぶのが、この間のオランダの即位儀礼です。

オランダの即位儀礼では、新国王と共に王配(王妃)が神と人の前に立ち、即位を誓い、宣誓を受けました。

ヨーロッパでは、神の前で宣誓して結ばれた配偶者(王配)が大きな意味をもちます。ゆえに、血統的には王の血を引いていても、王の庶子は通常王位継承権を持ちません。神の前で誓った王配との間に産まれた嫡子にしか、王位継承権がない。いわば嫡系主義です。
嫡系主義だと、男系だけでは王位を継承できないことが多くなります。ゆえに、サリカ法とやらがあるにしても、これをずっと守ってきた王国は稀で、ほとんどが王女も王位継承権をもち、女王として即位した歴史をもっています。

また、このような場合、王配が誰であるかと言うことは、王権にとって非常に重要な意味をもちます。ゆえに即位に際して、王配は王と共に神の前で宣誓し、人々の宣誓を受ける形を取るのでしょう。

そう考えると、明治政府は、新たにヨーロッパ王室にならって、嫡系主義を取ろうとしていたとみるべきでしょう。

大正天皇の生母は昭憲皇太后ではなく、柳原愛子でしたが、大正天皇は昭憲皇太后の子として育てられ、長く生母が別にいることを知らされませんでした。また、柳原愛子という呼び名からもわかるように、女院制度が廃止されていたこともあり、天皇の生母であることに対しての公式の処遇はなく(女官としての処遇のみ)、皇配としての昭憲皇太后の立場に並ぶことはありませんでした。

また、大正天皇は貞明皇后と神前(賢所)で誓うという形の結婚を初めて行った天皇で、以後庶民にも「神前結婚」という結婚式が浸透していきました。

何が言いたいかというと、すでに明治の時点で、政府はヨーロッパ王室にならって嫡系主義、ひいては側室制度を廃止しようとしていたということです。

明治天皇は現実的に側室によって皇嗣を得たし、昭和天皇のときも一時側室が検討されたのは事実ですが、一方で大正天皇が生母の存在を知って大変に衝撃を受けたこと、昭和天皇が側室を持つことを拒絶したことからもわかるように、
嫡系主義でなければ、諸外国に比して恥ずかしいという意識が、すでに明治以降徐々に生まれ、根づいていたわけです。

ゆえに、現在の皇統の危機においても、嫡系主義以外の、庶子による継承というのは、選択されないのです。
皇配と祭祀 (Dianthus)
2013-06-24 13:08:21
さて、話が自分でもこんがらがってしまいましたが

祭祀というものが、そもそも明治に入る前の、江戸時代からの慣例をかなり取り入れたものであるという点から見ると、
祭祀の主体者は天皇であり、皇配がそこに関わる必要はない、それが祭祀の伝統だったろうと言えます。

なぜなら、江戸時代までの皇室には、ヨーロッパ王室とは違って、嫡系という概念が存在せず
天皇や皇太子の唯一の皇配(配偶者)という意識も薄い。居なくてもかまわない。
ゆえに、祭祀に皇配が関わる必要はない。実際、関わらないのが伝統的な形となる。
祭祀の主体者は、あくまで天皇本人だけです。

たしかに明治以降、ヨーロッパ王室にならって皇配の位置づけが重くなり、皇配を重視するようになりましたが、
しかし、そのようにヨーロッパ王室にならうのなら、天皇たるの根拠に、祭祀を重視するのはおかしなことになります。ましてや今は新憲法。
祭祀を重視する必要はないし、祭祀のやり方がその時々で変わっていくのが、むしろふつうである。

逆に、天皇たる根拠として祭祀を重視するとしたら、これは明治以前の、江戸時代までの慣例を重視することそのものですので
天皇が祭祀を行うことは大切、といえても、皇配が祭祀に関わらねばならない、とは言えないのではないか。

なお、明治以降にしても、皇配が重視されたのは即位儀礼だけ、なのかもしれません。
Unknown (auxilia)
2013-07-16 22:49:26
よく【宮中祭祀】と書かれますが、それは一体どういうものなのでしょうか。
天皇が祭祀をされる時には皇太子が同席し、その内容を継承してゆき、それは変わることなく天皇から次代の天皇へと連綿と継承されている、等と書かれています。

しかし、歴史上には非常に幼くして即位された天皇は少なくなく、その時の祭祀はどうしていたのだろうか?
さらには、光格天皇のように、先帝が崩御された後に天皇となる事が決められた親王は、宮中祭祀をどのように会得したのだろうか? という疑問が出てきます。
また、母である元明女帝から実娘の元正女帝へと継承された祭祀も、父から息子もしくは弟や甥への祭祀と全くの同一であった、と断定できねばなりません。

かように、国民にとって非常に謎に充ち満ちた宮中祭祀なので、数少ない手持ちの資料から宮中祭祀についての記載されている部分を抜粋してみました。


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百科事典 マイペディア より

宮中祭祀は皇室祭祀とも言われ、皇室の賢所、皇霊殿、神殿および山稜などで行われる祭儀。
以前は皇室祭祀令(1908年)によって参列員など定められていたが、1947年同令は廃止された。
以後は天皇家の私的祭祀として行われている。


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「美智子妃」 河原敏明 著
講談社 刊    昭和62年10月12日  第1刷発行

48 項
中には時代に逆行するものや宗教絡みで、憲法に触れそうなものもある。
たとえば毎朝の賢所ご代拝。天皇の吹上御所に宿直した侍従は一日、十一日、二十一日と一のつく日を除いて毎朝入浴潔斎した上、宮中三殿に至り天皇に代わって拝礼をする。
国家公務員である侍従がそのような宗教行為をするのは憲法違反ではないか、と国会で問題になったことがあり、宇佐美宮内庁長官らがなんとか乗切ったものの、以後は簡略化した。
衣冠束帯をモーニングに、二頭立ての儀装馬車を自動車に改め、参拝も三殿内だったのを各殿の庭でとしたが厳密にいえばやはり問題だろう。


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東京中日新聞2009年12月17日
特報 天皇の公的行為とは?

内廷費が私費扱い。これが私的行為向け。宗教的な儀式にも使われる。


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こうして書き出しますと、宮中祭祀について論じることは、皇后とか皇太子妃とかではなく、最終的には天皇の行為からくる税金問題に絡んでくることであり、天皇に仕える侍従については政教分離という憲法問題にまで絡んでくるのではないでしょうか。

雅子妃バッシングの棍棒として利用されている宮中祭祀を出すのは、天皇制における法制度の不備や矛盾を晒すことになり、だけではなく天皇史の美しい部分だけではない部分を出すことになり、最終的には天皇否定にまで及びかねない問題になると思わざるをえません。
雅子妃バッシングをしている勢力はそれを理解しているのか甚だ疑問ですが、理解していながら雅子妃バッシングに祭祀問題を敢えて出すのであれば、その勢力こそが反天皇制、反皇室であると言えるのでないでしょうか。

Unknown (auxilia)
2013-07-16 23:53:42
別冊宝島 38  タブーと常識に挑戦する 日本史読本
発行所 JICC出版局
1983年12月25日 初版
1991年2月25日 第21刷発行


97項
天皇の祭祀をめぐる謎を解明する

天皇制のキーポイントは、天皇の持つ宗教性の威力にある。
世襲祭祀である大嘗祭の夜、そこでは何が行われているのか?
日本王権によるひとつの神秘劇、秘儀中の秘儀の謎にせまり、天皇制のタブーの核心をつく!

 大嘗祭とは、新しく天皇位を継ぐ者がとりおこなわなければならない、天皇家のもっとも重要な世襲祭儀である。
 古代においては、一体だった即位と大嘗が、やがて即位礼と大嘗祭とに分化していき、さらに践祚(先帝の死後または譲位後に時をおかずに位につくための簡単な方式)が新しく始められて、けっきょく新王即位の全過程は、〈践祚ーー即位礼ーー大嘗祭〉という三段構成になるのである。
 十世紀の『延喜式』には「凡ソ践祚大嘗ハ、七月以前ニ即位スレバ当年事ヲ行ヒ、八月以降ナラバ明年事ヲ行フ」とある。即位は、先王の死後または譲位の後、時間をおかずにおこなわれるのが恒例だったが、即位が真の正統性をもつのは大嘗祭をふくむ一連の祭儀が終了したあととされたのである。
 古代天皇制国家の宗教的性格は、仏教、儒教、陰陽道の影響下にあったが、大宝律令の制定から、『延喜式』の成立にいたる間に、朝廷の祭祀は制度化され、体系化されていったようだ。


98項
新嘗・大嘗の区別はいつ始まったのか?

 ところで『日本書紀』をみると、天武天皇の二年(六七三)以前には、新嘗と大嘗は区別されていなかったのが、天武天皇の時期から、毎年秋の新嘗祭と区別して、即位にともなう一代一度の新嘗祭を大嘗祭とよぶようになったことがわかる。


111項
== 前略 ==
 ついで、明治五年から十八年にかけて、天皇が日本国中を巡幸する。その地には記念碑がたてられ“聖跡”とされる。この巡幸のたくみな演出で、当時の人びとの生き神信仰と天皇が結びついていく。全国の神社は天皇との関係によって序列化され国家神道の柱になってゆく……。
 天皇の宗教的権威を誇示する宮中祭祀でも、古来から連綿と伝えられたものと思いがちだが、明治政府が新たに創設したり、再興したものの方が多いのだ。
 そして「天皇」ということばさえ、明治十五年頃にようやく定着したものだ。「玉」から「天皇」へ。
== 攻略 ==


**********
天皇について否定的な内容と言えなくないのですが。
【宮中祭祀】とは絶対に継承せねばならない重要なものだと書かれていますが、決して不変なものではなく、時の天皇や時代によって、かなり変化をしてきていると言えるのではないでしょうか。
となれば、天皇と同じ御位ではない皇后や、ましてや皇太子妃の祭祀がどうのと取り上げることなど、ましてや雅子妃バッシングの棍棒として利用するなど、全くの無意味に思われてきます。


明治以降の皇后の祭祀は西欧の影響、平安時代の皇后「助祭」はシナの影響 (INDEX)
2013-07-26 23:23:44
小林よしのり氏の「ゴー宣ネット道場」にコラム『今昔モノ語り』を連載している神道学者の高森明勅氏が、皇室祭祀と皇后について、興味深い考察を紹介しています。

●皇室祭祀での皇后の御拝礼の創始理由(013/07/22)
https://www.gosen-dojo.com/index.php?page_id=20#_14

 皇室祭祀の第一義は「天皇の祭祀」であることだが、それに皇后が関わるようになった背景は何だったのか。大岡弘氏の「近代皇室祭祀における皇后の御拝と御代拝について」(神道宗教学会刊行の学術誌『神道宗教』218号にその要旨を掲載)では、「近代皇室祭祀形成史において、恒例大祭における『皇后御拝』の創始理由」、つまり「皇室祭祀で皇后の御拝礼が開始された理由」が推察されている。その推察理由とは、「文明開化、すなわち、西欧文明の積極的摂取という新思潮のうねりの中で、新たに打ち出した祭祀形式」だったということ。

 --つまり、皇后の祭祀参加は「(明治時代の)文明開化」の一環だったというわけです。これは、Dianthus様が上に書かれている「皇配と祭祀」(2013-06-24)の内容と一致していますね。「だからと言って、皇后陛下の祭祀へのお出ましを軽視してよいということではない」と高森氏は書いていますが、それはいわゆる弾除けとして。高森氏がこのコラムでもっとも言いたかったことは、雅子さまが「祭祀ができないから皇后失格」などという批判が、いかに的外れなものであるか、ということです。

●古代の天皇祭祀への皇后の「助祭」 (2013/07/26)
https://www.gosen-dojo.com/index.php?action=pages_view_main&active_action=journal_view_main_detail&post_id=2339&comment_flag=1&block_id=14#_14

 このコラムでは、皇室祭祀と皇后の「前近代の事情」について補足されています。新嘗祭や天皇神今食といった「天皇親祭」に、皇后が「助祭」として加わった例が平安時代にあったことが史料で確認されているのですが、これをどう解釈するかという考察です。

 まず、飛鳥・奈良時代の天皇の祭祀に皇后が大きな役割を果たしていたことを証明する根拠はなく、日本の皇后はシナの皇后と比べ、祭祀に不可欠の存在ではなかったとみられるということ。

 では、助祭の史料事実はどう解釈するべきかですが。9世紀前半の第52代嵯峨天皇が、シナにおける唐の武后などの前列を参照し、皇嗣の母である皇后の権威を強化すべく、皇后が祭祀に関与する制度を新たに創始した、という説が有力のようです。

 天皇親祭に皇后が「助祭」として加わるのは、嵯峨天皇とその次の淳和天皇の頃に特有の、いわば例外的な形だったということからも、祭祀における天皇の超越性が示されています。--女帝時代には、もちろん、「天皇親祭」に「助祭」などはなく、超越した唯一の天皇として、祭祀をされていたわけですね。

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