「皇室問題INDEX」設立準備室

マスメディアによる皇室の偏向報道、ネットに流れる東宮家への誹謗中傷を検証しています。

■検証:雅子様バッシングに使われる「皇后・皇太子妃の祭祀の伝統」とは?

2013-06-24 00:07:36 | 日記
 6月22日掲載の皇室ウイークリーは、タイトルに「皇后さま、お疲れ押して宮中祭祀に」との言葉を入れ、疲労などのため公務をお休み中の皇后様が、心配する側近の進言をふりきって「香淳皇后例祭の儀」に臨まれたことを伝えています。話はそれで終わらず、雅子様が祭祀に臨まれるのが難しいため、宮中祭祀の「女性側」の伝統が途絶えてしまわないか皇后様が心配されているとし、「宮中祭祀の伝統をどうやって継承していくか。次世代の皇族の方々と相談していく必要もある」という宮内庁幹部の言葉を伝えています。

-----------(引用開始)

【皇室ウイークリー】2013.6.22
(284)皇后さま、お疲れ押して宮中祭祀に 雅子さまと愛子さま、ご帰国の皇太子さまをそろってお出迎え

 皇后さまは10日から体力低下などのため皇居・御所で静養中だったが、側近に止められながらもあえて臨み、拝礼されていた。宮中祭祀(さいし)の伝統を途絶えさせてはいけないという皇后さまの強いお気持ちがあったようだ。

 側近によると、皇后さまの宮中祭祀は年間14あるが、最近では、以前からの頸椎(けいつい)症性神経根症への影響などを考慮した医師の勧めで、お出ましは限定的になっている。加えて最近のお疲れと体力低下もあり、今回についても側近は「お休みいただいたほうがいい」と進言した。しかし、皇后さまは、拝礼をやめてしまうと長く続いてきた宮中祭祀の女性側の礼法が絶えてしまうことを危惧し、少なくとも、新年の元始祭と春秋の皇霊祭、昭和天皇祭と香淳皇后の例祭には臨みたいお気持ちを示されたという。

 宮中祭祀には、ほかの皇族も庭上から参列できるが、天皇、皇后、皇太子、皇太子妃だけは宮中三殿の中で拝礼するなど、特別な作法がある。服装も伝統ある装束で、その準備を手伝う宮内庁の女官や女性職員らにも特別な作法や技術が求められる。

 天皇陛下が務められてきた宮中祭祀は、ともに臨まれている皇太子さまへと継承されるが、「女性側」は皇太子妃雅子さまが病気療養中で祭祀に臨まれるのが難しいため、皇后さまがお出ましにならないと「ご不在」ということになる。側近によると、皇后さまは、女官や職員らに作法や伝統技術がうまく受け継がれず、途絶えてしまわないか心配されているという。

 「宮中祭祀の伝統をどうやって継承していくか。次世代の皇族の方々と相談していく必要もある」。宮内庁幹部は話した。

-----------(引用終り)

 雅子様バッシング記事を長期にわたって読まされてきた身には、この話の筋からすぐ、「祭祀を使った雅子様叩き」のパターンだとわかります。「皇后様はこんなに立派に務められている。それにひきかえ雅子様は…」という展開で、ご病気療養中の雅子様にできないことを責め立ててくるわけです。この手口を使うのが「両陛下側近の千代田」であることも、お約束です。上記もすべて、側近(宮内庁幹部)の伝聞であることが記事中に明記されていますね。

 「美智子様はご実家と絶縁されている、それにひきかえ雅子様は…」というバッシングについては、別トピ<検証:雅子様叩きに使われる「美智子様はご実家と疎遠だった」は本当?>で検証し、根拠のないものであったことがわかっています。同じように、雅子様叩きに使われている「皇后・皇太子妃の宮中祭祀の伝統」が、言われているようなものなのかどうか、大いに疑問です。

 Dianthus様が別トピに書かれたものを最初のコメントとして、この検証を始めたいと思います。

 この件について、あなたのご意見や情報をお寄せください。
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新潟水俣病は報道規制されている? (Unknown)
2014-11-03 13:49:23
最近、やたらと熊本水俣病関連のニュースが定期的に流れると思いませんか?まるで国民(視聴者や読者)に、熊本水俣病を忘れないでね!と言いたげのような…患者さんや遺族の皆さんの苦しみは理解できますが、それ以上に、水俣病(の補償問題)報道に何か意図的なものを感じてしまうのです。

私が小学生の頃は日本の四大公害病として「熊本水俣病・新潟水俣病・イタイイタイ病・四日市ぜんそく」を習いました。今では熊本水俣病だけが突出してニュースで扱われ、ほかの公害病の補償についてはその後どうなったのか、ほとんど報道されません。特に新潟水俣病に関しては熊本よりも悪質な事件という話もあるのに、まったく報道されませんよね?
新潟熊本病の原因を引き起こした企業には、美智子皇后の実の妹である恵○子さんが嫁いでいると聞きました。この企業はいわば今の皇后の身内同然ということです。操業をすぐに停止しなかったり証拠隠滅したり補償も十分に行っていなかったりと、熊本よりもひどいと聞いたこともあります。
それなのに美智子皇后は新潟水俣病には心を寄せず、なぜか熊本の方にばかり接触を図ろうとしているように見えます。しかし新潟水俣病の報道は規制されているのかマスコミにもほとんど取り上げられず、この事件が皇后の身内と深く関係しているということや新潟の方がどういう顛末を迎えたかを知らない国民も多いのではないでしょうか?

新潟の方には報道規制をかけ、熊本の方ばかりをクローズアップさせているのは誰なのか。ここにも皇后とその実家筋の深い闇が見え隠れしているように思います。
8月6日 (万葉人)
2014-11-02 11:37:03
祭祀を棍棒にして、皇太子ご夫妻を叩く皇室評論家がよく使うフレーズに、「両陛下は皇太子時代から、お慎みの日には(正規の)公務以外は、御所はもちろん東京からも出ず、1日祈りを捧げておられたのに、皇太子御一家は御静養に出かけるなど非常識」 というのがあります。

しかし、昭和天皇実録の記載ミスを陛下が指摘されたため、図らずも、お慎みの日に、可愛い我が子を乳母車に乗せ幸せいっぱいに御用邸で静養されていたことが明らかになりました。

まだ戦後15年の時点で、原爆投下の日にお慎みなどされていなかったにもかかわらず、元号も変わり戦後70年経とうかという現在、皇太子御一家は、両陛下がなさってもいないお慎みの日を棍棒に叩かれています。

私は、広島原爆の日に静養で出掛けて乳母車をひかれても、構いません。
しかし、御自分達の行動を思い出せば、皇太子御一家が叩かれるのは理不尽なことは一目瞭然にもかかわらず、黙って叩かせている冷たさに、恐ろしいものを感じます。


引用記事
2014年10月24日 09時19分

 宮内庁の風岡典之長官は23日の定例記者会見で、同庁が今年9月9日付で公表した「昭和天皇実録」の本文中、昭和天皇が詠んだ和歌に関する時期や背景に誤りがあったとして訂正し、謝罪した。
 天皇陛下の指摘を受け判明したという。
 風岡長官によると、この和歌は、皇太子妃(今の皇后さま)が浩宮(今の皇太子さま)を乳母車に乗せて歩かれる情景を詠んだ「山百合の花咲く庭にいとし子を車にのせてその母はゆく」。実録では、昭和天皇が1960年7月1日に東宮御所を訪問した際の情景を詠んだと記述していた。
 この和歌と背景について、読売新聞が9月12日朝刊の実録に関する連載記事「天皇の昭和」で紹介したところ、記事を読まれた天皇陛下から同庁に「山百合であれば那須御用邸での情景ではないか」と指摘があり、誤りが判明。同庁が皇后さまにも聞くなどして確認したところ、60年8月6日の那須御用邸(栃木県)での情景を詠んだ歌と分かった。風岡長官は会見で「思い込みで資料の十分な検討も行わなかった。両陛下におわび申し上げた。読者の方々にもご迷惑をおかけした」と述べた。
「上御一人」 (澤の鶴)
2013-10-01 09:38:46
大学在学中、単位が足りずに留年となる。
これは、当人の能力や周囲の事情から言って、仕方ない場合もあるでしょう。問題なのは、その当人の反応です。
進級させないことに腹を立て、大学を退学する。世間的には結核?伝染病です。
この方は、侍従や家庭教師から「自分より優れたものを嫌う」「寛容さに欠ける」と評されていました。
天皇皇后とて無謬ではない。それを指摘された時、どのような態度を取るか。
浩宮を10年にわたり手塩にかけたある侍従は、その両親に諫言した為に絶縁されたと聞きます。(うろ覚えでスイマセン。)
いずれにせよ、この姿勢はまずいでしょう。周囲に忠臣がいなくなる。
「天皇皇后は無謬である」
持ち上げて、甘い汁を貪る人間ばかりになる。
明治維新の頃、天皇は上御一人と敬われました。しかし、山岡鉄舟や西郷隆盛は、少年の明治天皇を怒鳴りつけ、投げ飛ばし、体当たり命懸けで育てた。明治天皇も、彼らの真心を愛した。
「天皇は無謬である」
いつからそんな風潮に。個人の資質如何によって、極めて危ない事態になります。
で、ゲッペルス並みの宣伝のルーツを調べています。
良子皇后、入江侍従長に祭祀に関して注意を受けていた!!!!! (ウィルヘルミナ)
2013-09-30 16:02:33
管理人様、お久しぶりです。

さて、早速ですが、最新刊の文庫・・・・浅見雅男著「闘う皇族」(角川文庫)・・・・・に久しぶりに、あの「大正天皇」の著者・原武史さんが皇室について書いておられます。浅見さんの本の文庫化に際しての「解説」という形で。

そこには、「入江相政日記」を引用する形でこのように書いてありました。

香淳皇后、例えば1970年(昭和45年)の「入江相政日記」では、昭和天皇の祭祀の負担を減らそうとする侍従長の入江相政に対して、「それでは私が『祭祀』をやろうか」と言った記述がある。入江は「無茶苦茶とはこの事」と思い、貞明皇后のことを詳しく話したと言う。天皇との区別も分かっていない香淳皇后に対して、皇后として「矩」をわきまえた貞明皇后をモデルにせよと諭したわけだ。

以上、概要はこうです。

昔の侍従長はきちんと皇后を諭す気概くらいはあったという事ですよね。
それに比べて今の侍従、もう少し昔の有職故実くらいは学ぶ必要があるでしょうね。
前の方への付け足し。 (澤の鶴)
2013-09-29 18:57:36
松平容保は、孝明天皇シンカンを受けています。
会津藩を頼りに思う…と言う内容です。容保は、御シンカンを細い竹筒に入れ肌身離さず持ち続けました。
20年くらい前でしょうか。容保の孫・保定(もりさだ)氏がテレビで語っておられました。
Unknown (匿名希望)
2013-09-13 14:13:17
祭祀に関しての検証ではないが、以下を書かせていただく。
下記の事実は、天皇・皇室は不変ではなく絶えず変化しているという証明になるかと思う。





会津藩は天皇を守るために京都に遣わされた、天皇家とも最も強く結びついた京都守護職であった。(明治天皇の父帝である孝明天皇と松平容保との間には信頼関係があり、孝明天皇は強力な府擁護派であり、倒幕派にとって最も厄介な存在だったことは想像に難くない。)

しかし、孝明天皇は若くして突然に崩御し、その後、大政奉還が行われ江戸幕府は滅亡。(孝明天皇の主治医の手記から、孝明天皇は毒殺されたという説があるが、真相は解明されていない。)

孝明天皇の崩御後、会津藩は薩摩・長州藩との戦いに敗れ散っていった。

その長州藩は伊藤博文を輩出し、初代の総理大臣として就任し、明治政府が誕生。(長州藩からは、今現在の安倍総理にいたるまで、歴代の総理大臣や政治家、有力者たちが続出している。)

そして明治政府によって制定された大日本帝国憲法の初めに「天皇は神聖にして犯すべからず」と記される。

その天皇こそ、倒幕派の頂点として立ち、開国をし維新のシンボルとなった明治天皇。(父帝の孝明天皇は幕府擁護派であったにもかかわらず、である。)

大日本帝国憲法の制定により天皇に関わる話題はタブーとなり、その路線は21世紀になった今現在も継続されている。
もっとしらける為に… (澤の鶴)
2013-09-12 20:08:30
戦前の天皇の親祭。
その13親祭のうち11は、明治生まれの祭典。新しい祭典の始まりについて、今回は少し書きます。私自身、勉強になりました。INDEX様、ありがとうございます。

*元始祭…1/3に天孫降臨と天津日嗣を祝う。1873より祭る。元旦には四方拝と歳旦祭、2日には参賀がある為、1/3と定めた。
*紀元節…2/11神武天皇即位を祝う。日本書紀に神武天皇即位は辛酉年とある。この記述自体、辛酉年は革命が起こるとの中国の暦を基にしたもの。1870年、明治政府は辛酉年をBC660年に定める。本来旧暦元旦に祝うべきであるが、1873年より日本は太陽暦を採用、毎年祝日が動いてしまう。旧元旦付近で、始まりにふさわしく1のつく日とのことで2/11。1873年より祭る。
*春季・秋季皇霊祭…春彼岸・秋彼岸に神武~先帝、皇后、皇妃等の鎮魂の祭。明治以前、宮中の祖先祭祀は仏式の彼岸会であった。それを神道に直し、1872年より皇霊殿にて祭る。

この日付の定め方を見ても、明治維新の宗教改革の七転八倒ぶりが浮かびます。
日付の成り立ちはこれくらいにして、次はその宗教改革について書かせていただきます。
祭祀の子細。 (澤の鶴)
2013-09-11 20:00:15
現在の皇室祭祀の元となったのは、明治時代の旧皇室典範下に定められた祭りです。
つまり戦前の祭祀。
戦前、天皇の親祭は13ありました。
そのうち11が、明治維新後に創立された新しい祭りなのです。厳密に言えば、古制のまま受け継がれた祭典は新嘗祭のみ。
もうひとつの古制の祭祀・神嘗祭は、伊勢神宮第一の重儀を賢所に移して、1871.9/17に明治天皇が祭り、天皇の親祭としたのです。
その他、元始祭、紀元節祭は紀記をもとにした1870年からの祭。
残る7祭は、鎮魂祭、神武天皇祭、春季皇霊祭、秋季皇霊祭、先帝祭、先帝以前三代式年祭、先后式年祭、皇后祭。
全て天皇の家系に関する、皇霊の祭祀です。
日本は大昔から天皇に支配されている国と強調する、明治維新後の近代天皇制と併行して現れた、政治的思想的な役割を持つ新設祭祀です。
この140年のうちに私達は、天皇の、皇室の全ての祭祀は古代から連綿として受け継がれた祭典であると錯覚してしまった。(国民に錯覚させることを目的とした、維新の重臣達の目論見は成功しました。)
むしろ、天皇制は時代に合わせ柔軟に劇的に変化することにより継承されてきた、世界的に見て稀少な制度だと、私は思います。
いわゆる研究論文ですが (Unknown)
2013-08-10 11:40:03
梅村恵子「天皇家における皇后の位置――中国と日本との比較」(伊東聖子・河野信子/. 編『女と男の時空――日本女性史再考<Ⅱおんなとおとこの誕生――古代から中世へ>』.(藤原書店、1996年)

后の位置づけ、祭祀との関わりなどが、中国との比較ばかりでなく、古代から現代の天皇皇后の姿なども取り上げながら論じられています。

日本のキサキがもともとは天皇の正妻という概念がうすく、時折中国などからの影響で、皇后の存在が重視されたものであること(嵯峨天皇など)

室町時代はキサキは立てられず、その前後の鎌倉江戸時代もキサキが立たない天皇もしばしばおられたこと

祭祀にキサキは関わらないこと

などなど、わかりやすく、豊富な根拠をもとにまとめられています。


伝統的には、祭祀の主体は天皇及び皇太子であって、皇配(皇后皇太子妃)は、皇室の祭祀にまったく関わってこなかったことが、はっきりと述べられています。

祭祀に関わらないからと言って皇配を非難する謂われはなく、
ましてや、皇配が祭祀に関わらないことは、天皇の資格うんぬんになどまったく関わらないことが、よくよくわかります。

きっと1996年だから、こういう本も企画刊行できたのでしょうね。
入江氏の日記から (九重)
2013-07-28 00:04:41
昭和天皇の侍従長だった入江氏の日記を読むと、ところどころに祭祀のことが出てきます。
昭和45年(昭和天皇69歳)には、天皇の高齢を案じた入江氏を中心とする側近が、祭祀の負担を軽減するべく、各方面に働きかけ、45年は新嘗祭は暁の儀は行わず、夕の儀だけ、翌年からは両方やめ、四方拝は吹上のテラスで洋服で、歳旦祭は代拝でということになったとか。
また、その2年ほど前から、旬祭も毎月から年2回になっています。
このような簡略化に抵抗する勢力もあったようで(皇后もその1人)、実現には紆余曲折もあったものの、昭和天皇が健康で長寿を保つことが国家のためという理屈で押し切ったようです。
入江氏は、皇后とのやりとりのなかで、貞明皇后の言葉を持ち出し、説得に当たっています。貞明皇后は非常に祭祀に熱心なかただったとされていますが、「還暦を過ぎたら粗相があっては畏れ入るから賢所は遠慮すべきもの」といわれたそうです。
皇后が「それなら自分がしようか」といわれたのに対して、入江氏はとんでもないことと書いています。つまり祭祀はあくまでも天皇が主役であって、皇后が代理をするなどありえないというのが宮中の統一見解だったと思われます。
また、首が痛い、足が痛いとよろよろしている人が賢所に入るなど、貞明皇后からしたらとんでもない話でしょう。
また、新嘗祭は、女性は参加できない祭祀とされているので(女性天皇は別でしょうが)、皇后が勝手に何か新しいことをするなど、あってはいけないことでしょう。

いずれにしても、皇后、皇太子妃は祭祀の主役ではないこと、天皇の健康状態に応じて、祭祀のあり方が柔軟に変えられていることが入江氏の日記から読み取れるのではないでしょうか。
(新年の四方拝を背広で行っていいとするなら皇后、皇太子妃の衣裳も十二単ではなくて洋服でもいいじゃないかと思われます。)

あまり祭祀について知らないので、気のついたことを断片的に書いて、失礼しました。




明治以降の皇后の祭祀は西欧の影響、平安時代の皇后「助祭」はシナの影響 (INDEX)
2013-07-26 23:23:44
小林よしのり氏の「ゴー宣ネット道場」にコラム『今昔モノ語り』を連載している神道学者の高森明勅氏が、皇室祭祀と皇后について、興味深い考察を紹介しています。

●皇室祭祀での皇后の御拝礼の創始理由(013/07/22)
https://www.gosen-dojo.com/index.php?page_id=20#_14

 皇室祭祀の第一義は「天皇の祭祀」であることだが、それに皇后が関わるようになった背景は何だったのか。大岡弘氏の「近代皇室祭祀における皇后の御拝と御代拝について」(神道宗教学会刊行の学術誌『神道宗教』218号にその要旨を掲載)では、「近代皇室祭祀形成史において、恒例大祭における『皇后御拝』の創始理由」、つまり「皇室祭祀で皇后の御拝礼が開始された理由」が推察されている。その推察理由とは、「文明開化、すなわち、西欧文明の積極的摂取という新思潮のうねりの中で、新たに打ち出した祭祀形式」だったということ。

 --つまり、皇后の祭祀参加は「(明治時代の)文明開化」の一環だったというわけです。これは、Dianthus様が上に書かれている「皇配と祭祀」(2013-06-24)の内容と一致していますね。「だからと言って、皇后陛下の祭祀へのお出ましを軽視してよいということではない」と高森氏は書いていますが、それはいわゆる弾除けとして。高森氏がこのコラムでもっとも言いたかったことは、雅子さまが「祭祀ができないから皇后失格」などという批判が、いかに的外れなものであるか、ということです。

●古代の天皇祭祀への皇后の「助祭」 (2013/07/26)
https://www.gosen-dojo.com/index.php?action=pages_view_main&active_action=journal_view_main_detail&post_id=2339&comment_flag=1&block_id=14#_14

 このコラムでは、皇室祭祀と皇后の「前近代の事情」について補足されています。新嘗祭や天皇神今食といった「天皇親祭」に、皇后が「助祭」として加わった例が平安時代にあったことが史料で確認されているのですが、これをどう解釈するかという考察です。

 まず、飛鳥・奈良時代の天皇の祭祀に皇后が大きな役割を果たしていたことを証明する根拠はなく、日本の皇后はシナの皇后と比べ、祭祀に不可欠の存在ではなかったとみられるということ。

 では、助祭の史料事実はどう解釈するべきかですが。9世紀前半の第52代嵯峨天皇が、シナにおける唐の武后などの前列を参照し、皇嗣の母である皇后の権威を強化すべく、皇后が祭祀に関与する制度を新たに創始した、という説が有力のようです。

 天皇親祭に皇后が「助祭」として加わるのは、嵯峨天皇とその次の淳和天皇の頃に特有の、いわば例外的な形だったということからも、祭祀における天皇の超越性が示されています。--女帝時代には、もちろん、「天皇親祭」に「助祭」などはなく、超越した唯一の天皇として、祭祀をされていたわけですね。
Unknown (auxilia)
2013-07-16 23:53:42
別冊宝島 38  タブーと常識に挑戦する 日本史読本
発行所 JICC出版局
1983年12月25日 初版
1991年2月25日 第21刷発行


97項
天皇の祭祀をめぐる謎を解明する

天皇制のキーポイントは、天皇の持つ宗教性の威力にある。
世襲祭祀である大嘗祭の夜、そこでは何が行われているのか?
日本王権によるひとつの神秘劇、秘儀中の秘儀の謎にせまり、天皇制のタブーの核心をつく!

 大嘗祭とは、新しく天皇位を継ぐ者がとりおこなわなければならない、天皇家のもっとも重要な世襲祭儀である。
 古代においては、一体だった即位と大嘗が、やがて即位礼と大嘗祭とに分化していき、さらに践祚(先帝の死後または譲位後に時をおかずに位につくための簡単な方式)が新しく始められて、けっきょく新王即位の全過程は、〈践祚ーー即位礼ーー大嘗祭〉という三段構成になるのである。
 十世紀の『延喜式』には「凡ソ践祚大嘗ハ、七月以前ニ即位スレバ当年事ヲ行ヒ、八月以降ナラバ明年事ヲ行フ」とある。即位は、先王の死後または譲位の後、時間をおかずにおこなわれるのが恒例だったが、即位が真の正統性をもつのは大嘗祭をふくむ一連の祭儀が終了したあととされたのである。
 古代天皇制国家の宗教的性格は、仏教、儒教、陰陽道の影響下にあったが、大宝律令の制定から、『延喜式』の成立にいたる間に、朝廷の祭祀は制度化され、体系化されていったようだ。


98項
新嘗・大嘗の区別はいつ始まったのか?

 ところで『日本書紀』をみると、天武天皇の二年(六七三)以前には、新嘗と大嘗は区別されていなかったのが、天武天皇の時期から、毎年秋の新嘗祭と区別して、即位にともなう一代一度の新嘗祭を大嘗祭とよぶようになったことがわかる。


111項
== 前略 ==
 ついで、明治五年から十八年にかけて、天皇が日本国中を巡幸する。その地には記念碑がたてられ“聖跡”とされる。この巡幸のたくみな演出で、当時の人びとの生き神信仰と天皇が結びついていく。全国の神社は天皇との関係によって序列化され国家神道の柱になってゆく……。
 天皇の宗教的権威を誇示する宮中祭祀でも、古来から連綿と伝えられたものと思いがちだが、明治政府が新たに創設したり、再興したものの方が多いのだ。
 そして「天皇」ということばさえ、明治十五年頃にようやく定着したものだ。「玉」から「天皇」へ。
== 攻略 ==


**********
天皇について否定的な内容と言えなくないのですが。
【宮中祭祀】とは絶対に継承せねばならない重要なものだと書かれていますが、決して不変なものではなく、時の天皇や時代によって、かなり変化をしてきていると言えるのではないでしょうか。
となれば、天皇と同じ御位ではない皇后や、ましてや皇太子妃の祭祀がどうのと取り上げることなど、ましてや雅子妃バッシングの棍棒として利用するなど、全くの無意味に思われてきます。


Unknown (auxilia)
2013-07-16 22:49:26
よく【宮中祭祀】と書かれますが、それは一体どういうものなのでしょうか。
天皇が祭祀をされる時には皇太子が同席し、その内容を継承してゆき、それは変わることなく天皇から次代の天皇へと連綿と継承されている、等と書かれています。

しかし、歴史上には非常に幼くして即位された天皇は少なくなく、その時の祭祀はどうしていたのだろうか?
さらには、光格天皇のように、先帝が崩御された後に天皇となる事が決められた親王は、宮中祭祀をどのように会得したのだろうか? という疑問が出てきます。
また、母である元明女帝から実娘の元正女帝へと継承された祭祀も、父から息子もしくは弟や甥への祭祀と全くの同一であった、と断定できねばなりません。

かように、国民にとって非常に謎に充ち満ちた宮中祭祀なので、数少ない手持ちの資料から宮中祭祀についての記載されている部分を抜粋してみました。


************
百科事典 マイペディア より

宮中祭祀は皇室祭祀とも言われ、皇室の賢所、皇霊殿、神殿および山稜などで行われる祭儀。
以前は皇室祭祀令(1908年)によって参列員など定められていたが、1947年同令は廃止された。
以後は天皇家の私的祭祀として行われている。


***********
「美智子妃」 河原敏明 著
講談社 刊    昭和62年10月12日  第1刷発行

48 項
中には時代に逆行するものや宗教絡みで、憲法に触れそうなものもある。
たとえば毎朝の賢所ご代拝。天皇の吹上御所に宿直した侍従は一日、十一日、二十一日と一のつく日を除いて毎朝入浴潔斎した上、宮中三殿に至り天皇に代わって拝礼をする。
国家公務員である侍従がそのような宗教行為をするのは憲法違反ではないか、と国会で問題になったことがあり、宇佐美宮内庁長官らがなんとか乗切ったものの、以後は簡略化した。
衣冠束帯をモーニングに、二頭立ての儀装馬車を自動車に改め、参拝も三殿内だったのを各殿の庭でとしたが厳密にいえばやはり問題だろう。


************
東京中日新聞2009年12月17日
特報 天皇の公的行為とは?

内廷費が私費扱い。これが私的行為向け。宗教的な儀式にも使われる。


************
こうして書き出しますと、宮中祭祀について論じることは、皇后とか皇太子妃とかではなく、最終的には天皇の行為からくる税金問題に絡んでくることであり、天皇に仕える侍従については政教分離という憲法問題にまで絡んでくるのではないでしょうか。

雅子妃バッシングの棍棒として利用されている宮中祭祀を出すのは、天皇制における法制度の不備や矛盾を晒すことになり、だけではなく天皇史の美しい部分だけではない部分を出すことになり、最終的には天皇否定にまで及びかねない問題になると思わざるをえません。
雅子妃バッシングをしている勢力はそれを理解しているのか甚だ疑問ですが、理解していながら雅子妃バッシングに祭祀問題を敢えて出すのであれば、その勢力こそが反天皇制、反皇室であると言えるのでないでしょうか。

皇配と祭祀 (Dianthus)
2013-06-24 13:08:21
さて、話が自分でもこんがらがってしまいましたが

祭祀というものが、そもそも明治に入る前の、江戸時代からの慣例をかなり取り入れたものであるという点から見ると、
祭祀の主体者は天皇であり、皇配がそこに関わる必要はない、それが祭祀の伝統だったろうと言えます。

なぜなら、江戸時代までの皇室には、ヨーロッパ王室とは違って、嫡系という概念が存在せず
天皇や皇太子の唯一の皇配(配偶者)という意識も薄い。居なくてもかまわない。
ゆえに、祭祀に皇配が関わる必要はない。実際、関わらないのが伝統的な形となる。
祭祀の主体者は、あくまで天皇本人だけです。

たしかに明治以降、ヨーロッパ王室にならって皇配の位置づけが重くなり、皇配を重視するようになりましたが、
しかし、そのようにヨーロッパ王室にならうのなら、天皇たるの根拠に、祭祀を重視するのはおかしなことになります。ましてや今は新憲法。
祭祀を重視する必要はないし、祭祀のやり方がその時々で変わっていくのが、むしろふつうである。

逆に、天皇たる根拠として祭祀を重視するとしたら、これは明治以前の、江戸時代までの慣例を重視することそのものですので
天皇が祭祀を行うことは大切、といえても、皇配が祭祀に関わらねばならない、とは言えないのではないか。

なお、明治以降にしても、皇配が重視されたのは即位儀礼だけ、なのかもしれません。
明治以降の儀礼は、ヨーロッパの王制を取り入れている (Dianthus)
2013-06-24 12:50:57
明治に制定された、新たな即位儀礼において、なぜ、天皇と共に皇配(皇后)が群臣の前に立つ、という形が新たに創られたのか。

ここで、すぐ思い及ぶのが、この間のオランダの即位儀礼です。

オランダの即位儀礼では、新国王と共に王配(王妃)が神と人の前に立ち、即位を誓い、宣誓を受けました。

ヨーロッパでは、神の前で宣誓して結ばれた配偶者(王配)が大きな意味をもちます。ゆえに、血統的には王の血を引いていても、王の庶子は通常王位継承権を持ちません。神の前で誓った王配との間に産まれた嫡子にしか、王位継承権がない。いわば嫡系主義です。
嫡系主義だと、男系だけでは王位を継承できないことが多くなります。ゆえに、サリカ法とやらがあるにしても、これをずっと守ってきた王国は稀で、ほとんどが王女も王位継承権をもち、女王として即位した歴史をもっています。

また、このような場合、王配が誰であるかと言うことは、王権にとって非常に重要な意味をもちます。ゆえに即位に際して、王配は王と共に神の前で宣誓し、人々の宣誓を受ける形を取るのでしょう。

そう考えると、明治政府は、新たにヨーロッパ王室にならって、嫡系主義を取ろうとしていたとみるべきでしょう。

大正天皇の生母は昭憲皇太后ではなく、柳原愛子でしたが、大正天皇は昭憲皇太后の子として育てられ、長く生母が別にいることを知らされませんでした。また、柳原愛子という呼び名からもわかるように、女院制度が廃止されていたこともあり、天皇の生母であることに対しての公式の処遇はなく(女官としての処遇のみ)、皇配としての昭憲皇太后の立場に並ぶことはありませんでした。

また、大正天皇は貞明皇后と神前(賢所)で誓うという形の結婚を初めて行った天皇で、以後庶民にも「神前結婚」という結婚式が浸透していきました。

何が言いたいかというと、すでに明治の時点で、政府はヨーロッパ王室にならって嫡系主義、ひいては側室制度を廃止しようとしていたということです。

明治天皇は現実的に側室によって皇嗣を得たし、昭和天皇のときも一時側室が検討されたのは事実ですが、一方で大正天皇が生母の存在を知って大変に衝撃を受けたこと、昭和天皇が側室を持つことを拒絶したことからもわかるように、
嫡系主義でなければ、諸外国に比して恥ずかしいという意識が、すでに明治以降徐々に生まれ、根づいていたわけです。

ゆえに、現在の皇統の危機においても、嫡系主義以外の、庶子による継承というのは、選択されないのです。
即位儀礼(大嘗祭)にみる、皇配と祭祀の関わり (Dianthus)
2013-06-24 12:22:44
まず、明治以前には、皇配(天皇や皇位継承者の配偶者)という概念が、どこまで確固としたものとして存在したかというと、はなはだ疑問だと言わざるを得ません。

まず、宮中に、天皇や皇太子の配偶者として入内することは、「宮仕え」と呼ばれていました。これは、男性官人や女性官人が宮中で働くことと同じ呼び方です。
「宮中で働くこと」と、「宮中に入って、天皇や皇太子と性的な関係を持続的に結ぶこと」とが、まったく同じ用語で語られるという点を重視すると、「結婚」という概念がどこまであったのか、はなはだ疑問、という気になってきます。

中宮・皇后・皇太后といった地位(后)が、天皇が即位してから決められるもので、天皇が即位してもしばらく決まらないこともよくあり、平安時代前期には、しばしば生んだ子が天皇になった時に中宮なり皇太后なりになる、のも、「皇配」という概念の未発達を窺わせます。

女院制度が確立した後は、女院たる資格者は
①内親王が准母や准后を経て女院となる ②中宮(天皇の妻)が代替わりによって女院となる ③国母(天皇の母)が女院となる 
という三つのパターンになりますが、ここでも「母」が大きな意味をもつことがよくわかります。皇配であることと、国母(天皇の母)であることが同等なのです。

こうした江戸時代までの天皇像において、皇配が祭祀や儀礼に関わる、という意識がないのは、当然のことといえます。
祭祀や儀礼の主体は天皇であり、それに群臣や女官が奉仕する。
天皇たる祭祀のうち、最も重要なのは、即位儀礼の一環である、大嘗祭でしょうが、江戸時代までの大嘗祭には、皇配の関わる余地はないようです。
大嘗祭の御禊においては、女御が禊に奉仕するという形が、唯一天皇の妻と大嘗祭との関わりと言えますが、幼少天皇だったり、妊娠中だったりして、女御が祭祀に関われない時には、「女御代」が立てられました。
逆に言えば、天皇の妻であることに、そこまで大きな意味がなかったということになります。
折口信夫氏は、禊への奉仕という限定的な関わり方をすることから、「水の女」としての藤原氏の娘の巫女性を説きました。
つまり、禊の奉仕は、皇配としてではなく、藤原氏のむすめとして行っている、と読み解くわけです。

明治になって、即位大嘗祭は新しい形を取ることになりました。
wikiによれば

(-------------以下引用-------------)
明治維新により東京奠都し、天皇が国家の最高指導者に位置付けられてからは、旧皇室典範並びに登極令の制定により、天皇の践祚・即位に関わる一連の儀式の様式が定められ、御大礼(即位の礼)は京都で行う旨規定されていた為、大正天皇・昭和天皇では、京都御所で平安様式により執り行われた。
1947年(昭和22年)制定の現行の皇室典範では場所については規定されず、平成の即位の礼・大嘗祭は皇居で行われた。この為、従来「紫宸殿の儀」と称していた儀式が「正殿の儀」となった。
(中略)
大正天皇の即位の礼
皇室典範・登極令制定後、初めてとなった大正天皇即位の礼は、1915年(大正4年)11月10日に京都御所紫宸殿で行われた。本来は1914年(大正3年)に挙行される予定だったが、同年4月に昭憲皇太后の崩御により1年延期された。明治天皇の即位時には新調できなかった高御座等が新調された。また、この時から高御座の隣に皇后の御座である御帳台(これは江戸時代以前の帳台と異なり、高御座に準拠して考案された新儀である)が設けられたが、貞明皇后は親王(澄宮崇仁親王)を懐妊中であった為、欠席した。貴族院に在職中だった柳田國男も参列し、大嘗祭についての提言を残している[4]。礼服は復活せず、束帶が使用されたものの、高御座は江戸期の様式が復活し、その他旗の類も神話にちなむ刺繍を入れたものの、榊はやめて綾や錦を使うなど、総じて江戸時代以前の様式と明治の即位を折衷したような形式になっている
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AE%E7%A4%BC


折口信夫氏は、「大嘗祭の本義」という論文にて、皇位継承者が皇祖の御霊を自らのなか迎え入れることによって、新たな天皇として再誕すること
(ニニギノミコトが天孫降臨してきたことを儀礼によって繰り返す)
その結果、新たなヒツギノミコとなられた天皇が、高御座に上り、群臣にことばを述べる、という風に、大嘗祭の中味を読み解きますが
その際、高御座に立つのは天皇だけで、皇配はこの即位儀礼には関わりません。皇配という概念がないからでしょう。

ところが、明治以降初めての即位儀礼である、大正天皇の即位儀礼では、皇后が天皇と共に群臣の前に立ち、即位の祝いを受ける、という儀礼に、新たに変えられたわけです。
宮中祭祀は明治以降の伝統 (Dianthus)
2013-06-24 11:39:23
根拠がwikiというのが、ちょっと情けない?かもしれませんが。

------------以下引用-------------

今日行われている祭祀の多くは、明治維新期に大宝令、貞観儀式、延喜式などを継承して再編された物である。
天皇の「現人神」としての神格化や神仏分離などに合わせて、途絶えていた祭祀の復興や新たな祭祀の創出が行われた。1871年(明治4年)には「神社は国家の宗祀」との太政官布告が出され、1908年には宮中祭祀について定めた皇室祭祀令が皇室令の一つとして制定された。
(中略)
現代での位置づけ[編集]

日本国憲法やその下の法律に宮中祭祀についての明文の規定はなく、現在の宮中祭祀も皇室祭祀令に基づいて行われている。また、これに係る予算も皇室の内廷費によって処理されている。このため、多くの憲法学者が、戦後の宮中祭祀を「天皇が私的に執り行う儀式」と解釈するようになった。一方では、保守系の学者を中心に、「皇室に私なし」とする立場から、戦後の「内廷」を戦前の「宮中」のような公的な存在ととらえ、宮中祭祀を「内廷の公的な祭祀」とする学説が根強く存在している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E4%B8%AD%E7%A5%AD%E7%A5%80



※宮中祭祀は、明治以前の伝統を一部引き継ぎながらも、明治政府という国家のために制定されたものであり
大日本帝国憲法から日本国憲法へと憲法が改正され、天皇と国家の関係が変わった時点で、少なくとも法的根拠は失い、にも関わらず、すでに廃止されている法令に基づいて、私的に(天皇家の行事として)行っているもの、ということについては、まず銘記しておかねばならないでしょう。
こんにちは。 (シロキジ)
2013-06-24 11:09:39
もうひょっとしたらご覧になられたことがおありでしたらごめんなさい。
宮中祭祀や天皇家の伝統にお詳しそうなお方のブログをみつけました。
宗教ジャーナリストの斉藤吉久さんという方のサイトです。
http://izasaito.iza.ne.jp/blog/entry/3041796/

「正論」などにも時々寄稿なさってるようです。

やはり、Dianthutsさまがおっしゃるように
宮中祭祀の主体はあくまでも天皇で、
宮内庁がホームページで宮中祭祀が天皇皇后のペアで行われているようなイメージ付けの記述をしていることにに疑問を抱かれておられます。
別の記事では先日の新潮の記事にも言及されていて、雅子様のご病気は皇太子様の天皇即位をなんら妨げるものではないと明快に論じられてます。
残念ながら、女性天皇には反対のお立場のようですが…。

皇后様も、お医者様も止めておられるのだから無理なさらずご静養におつとめいただきたいものですね。
いつからこんなに信心深くなった (ranteijo)
2013-06-24 06:25:44
最初にromするなどと言いながら、毎日しゃしゃり出てすみません。管理人さまが女性だと、つい井戸端会議の乗りで気軽に書いてしまいます。決して西田様のところより軽く見ているわけではないのですが。

皇室が色々な祭祀をしていると、昭和時代に意識したでしょうか。
天皇家個人が神道を祀る。それは天皇家自体にも信教の自由を認めるということで、あまり表に出すことは政教分離に抵触します。
実況放送されるわけでもなく、国民は天皇の祭祀など殆ど知らないでいました。

それが霊験があるというなら、平成に入ってからの神怒っているかのような災害続きは何と言うのでしょう。
祭祀に熱心な美智子さまの、まるで隠れキリシタンのようなふるまいは? ご実家が洗礼を受けたことは?
眞子さまの"キリスト教"大学進学は? 敬宮さまだったら耳を聾するほどの非難の声が起きるでしょう。
大嘗祭を憲法違反と批判した大学ですよ。
東宮家がクリスマスイルミネーションを見に行ったことを叩き、紀子妃がツリーの点灯式に出ることは叩かない。

雅子妃は病に倒れる前はきちんと祭祀をされていた。
マスコミは雅子妃が祭祀を休まれる日をチェックして性周期を割り出し、妊娠の兆候をいち早く掴もうとしていた。(何という卑しい行為)
でも、それが出来るほど祭祀に出られてたという証明です。それをあたかも、最初から婚家の信仰を拒否しているというような書き方。
宮家の皆さんは見ているだけなのに、「紀子妃は祭祀に御熱心」と持ち上げる。

お妃が病気だから皇太子さまは天皇にふさわしくないとこじつけながら、なぜか日々の生活を隠蔽されている悠仁さまは天皇にふさわしいのか、という議論はなされない。


正直言って、決して他の皇族方に好かれてはいなかった美智子さまのやり方が、突然皇室のスタンダードになってしまった。美智子流を1ミリでも外すと叩かれるようになった。
やはり今の東宮バッシングの黒幕は……と穿ってしまいます。

宮中の伝統のこと (Dianthus)
2013-06-24 00:18:11
 皇室ウィークリーの記事(2013年6月22日)について、2chでは次のような、興味深い会話が出ていました。

-------------(引用開始)

○2013/06/22(土)
近世以降、皇后不在の時期が多かったし、女御も皇太子の正室も臣下扱いだったから、「皇太子妃」という位は明治まで存在しなかったんだけど。誰がいつ、皇后と皇太子妃の祭祀を創り出したの? 皇族出身の良子さまが天皇家の祭祀をするなら理解できるけど、民間出の美智子さまが天皇家の祭祀をするって天皇家の神道の歴史から見て異様なんだけど。

○2013/06/22(土)
仁孝天皇の正妃二人は姉妹で、姉は薨去後に贈皇后・贈皇太后位を、妹は孝明天皇の嫡母として皇太后になったけれど。二人とも仁孝天皇在世中は女御の身分。二人の女御は皇后の祭祀をしていただろうか? 英照皇太后は明治天皇の嫡母で孝明天皇の正妃だけど、孝明天皇在世中は准三宮女御止まりで、孝明天皇の姉の准三宮桂宮淑子内親王の下座扱いだった。そんな准后女御九条夙子は皇后の祭祀をしていただろうか? 皇后の祭祀の伝統って何?

---------------(引用終り)

なるほど、例えば平安時代だと、大嘗祭に「女御代」というのが立てられて、そこのところで折口信夫だったか?水の女としての藤原氏(当時の女御は藤原氏だったから)という論があったような。

でも、それ以外の、伊勢斎宮にしても賀茂斎院にしても、天皇家の未婚の内親王や女王が中心となって行うものだったはず。あるいは、宮中で行われる四方拝などは天皇が中心になって行うものだし。朝拝や豊明節会とかも、天皇と臣下と女官とで行うものであって、中宮などの外から来た女性皇族は関係なかったんじゃないだろうか。

そもそも上記の方々のおっしゃる通り、近世までは「宮」「女院」の立場もあいまいだったし、祭祀も随分と違っていたはず。現在のように天皇家の父祖を祀る祭祀がこんなに沢山あったとは思えない。そりゃ、代替わり時に、いくつかの直接関わる父祖の御陵に、ぐらいの祭祀はあったろうと思うが。

「祭祀の伝統」が明治以降であるのは間違いないし、そこに女性皇族がどの程度関わってくるのかについては、本当にどの程度あったのやら。

近年は、国民の無関心を良いことに、訳知り顔の「宮内庁関係者」や「皇室評論家」や「宮内庁記者」が、皇室の伝統ということをすぐ偉そうに述べるけれども、どうも内容としてはここ数十年の、悪くすると平成以降の伝統wしか、語っていないように思えることが多い。

特に、現在のように、次代の天皇たる皇太子殿下をないがしろにするような動きや報道が、社稷をゆるがす「皇統争い」そのものにつながることへの危機感のなさを見るに、宮内庁も宮内庁関係者も、全然皇室の伝統がわかっていないと思わざるを得ない。

皇統争いが何をもたらすのか。

しかも、そもそも世襲によって、生まれながらにその地位が一生定まっている、という在り方に疑問が呈される現代社会において、恣意をはさんだ「皇統争い」が何をもたらすのか。それは、男系男子の伝統がなくなるとか何とかいうレベルではない、根幹的な危機につながるのだということに、まったく危機感がない。

何という、識見のなさ、洞察力のなさだろうと思います。こういう噴飯モノの知識しかない宮内庁だから、紀子妃は「それなら私が」と伊勢の祭主になると言い出せるのでしょうし、そんなことを言う紀子妃が、皇后にふさわしいなどということにもなるのでしょう。

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