囲碁とロック

好きなことについて

マネ碁・朋斎・囲碁アート

2022-10-13 23:22:10 | 囲碁アート

どうも囲碁アートの関です。

 

 

前回の記事では、この囲碁アート「プロペラ」の、最善手の展開の話をしました。

 

しかし囲碁は、一番良い手を見つけるのが難しい場面が多いです。

対局している最中に、どの手が一番良いのかを自力で確かめる方法がありません。

石を置き直して確かめたり、あるいはAIを使わないとですね。

 

実際に人間同士で、この囲碁アートから勝負をしたときには、また違ったことになるでしょう。

 

 

黒が1手目を打ちました。

ここから、白が取りうる態度は、大きく分けて二つです。

 

前回の記事にあったように、相手と同じ手を打ち続けて

 

この形になるかは分かりませんが、「持碁」(引き分け)に持っていく。

 

もう一つは・・・

 

黒の人とは違う感じで打ち、違う形にもっていく。

違う形になれば、できあがりの陣地の大きさも違ってきます。

つまり引き分けではなく、勝負をつけにいく方針です。

 

これにもまた、二種類ありそうですね。

わたし個人的には、黒1・黒3が、一番いい陣地の取り方だと思っているのですが

白2・白4は、あえてちょっと損だと思う手を打ってでも、展開を変える戦法です。

(実際のところ、黒5「サルスベリ」というめっちゃ良い侵入があり、右上は白が損だろうな~と思う。の図)

 

もう一つは

相手がヘンな手を打った!!と思ったときに展開を変える。

自分のほうが得な手を打って、勝ちを目指すパターンです。

この黒1・黒3は損だと思うので、白2・白4とすれば白が勝てそうです。

 

この瞬間、火花が散っているでしょう。

黒1の手をマネずに、白2って打つということは

「その黒1、ヘンじゃない?そうは打ちたくないね~」

ってことですからね。

 

一番穏やかな引き分けから、解釈の違いをぶつける戦いまで。

この作品は駆け引きの要素を持っており、二つの世界観の選択を人間に迫っています。

 

 

この火花には、わたしはとても見覚えがあります。

「マネ碁」という囲碁の戦法と、それを愛用した故・藤沢朋斎九段の勝負の仕方です。

 

「マネ碁」

 

(マネ碁の一例)

黒1に対して白2、黒7に対して白8など、反対側のところに、そのまま同じ手を打ち返していく。

同じような形になり同じような陣地ができますが、

囲碁の勝負は「コミ」があり、黒の陣地がマイナスされるので、最後まで同じような感じになると白が有利。

黒は、なんとか展開を変えないと負けてしまうわけです。

 

先に言っておきたいのですが、全く推奨しません。

やられた方は困るし、イライラします。ほんとに嫌われちゃいます。笑

信念を持ってやる

そのうえで、マネ碁対策をしっかり知っているくらい強い相手に、あえてやる

これらを満たせばギリギリ大丈夫か・・・?

囲碁では、相手との信頼関係が壊れるようなことは非倫理なのです。(筒井さんも言っていましたね)

 

 

さて、そんなマネ碁を、日本一にもなったことがあるトップの棋士が愛用していたのでした。

藤沢朋斎(ほうさい)九段は、昭和を代表する棋士の一人です。

「昭和の碁聖」呉清源九段との幾度もの十番碁で死闘を繰り広げました。

 

もちろん批判されもしましたが、藤沢九段は「ただ勝つための手段」としてマネ碁を使ったのではなく、

囲碁や勝負の真理を追究しようとしてマネ碁に取り組んだフシがあります。

 

右下と左上が、こうなったことがありました。

(棋譜全体は権利の関係で使えないので、ネコチャン置いときます)

 

お相手は、こう打ちました。

なるほど、△の黒をつなげて守りつつ、下に陣地のようなものができます。

文句なしの良い手。

 

マネ碁中の藤沢九段、左上でも同じにするかと思いきや

 

白2。こう打ちました。

aならマネ碁だったはず。

なんと自分からマネをここで止めて、相手と違うことをしました。

これは、上のところは守らず、左上の黒への攻めを重視した感じの手です。

迫力がある。

 

守らなかったのなら、入るぞ と黒3に打ち、

白4と逃げて、石がからみつく戦いの展開です。

 

黒の右下の手と、白の左上の手。

どちらも良い手で、正しいほうは誰にも分からない場面です。

(もしかしたら、黒のほうが正しかったかも知れない。ネコチャン部分の状況にもよる)

それでも、黒の手のその直後、目の前で異論をぶつけ、

「こっちのほうがいいんじゃないですか」

と勝負していくわけです。

このマネ碁の使い方、ただ相手についていくラクなやつじゃないですね。

 

このケースのように途中で変えることもあれば、とうぶん続けることもあります。

そうなるとオリジナルな展開ではなくなる気がしますが、

それも囲碁の確かな一面であること、

藤沢九段しかやる人がいないので逆にオリジナリティがあることで

個人的には面白いと思います。見てる分には。

 

 

次回、いまだに評判がちょっと良くない、この藤沢九段の考え方について、さらに迫ってみたいと思います。


【囲碁アート解説】囲碁はこれから、引き分けを目指すようになる

2022-10-07 22:22:41 | 囲碁アート

どうも囲碁アートの関です。

 

すごい絵ができました。

 

 

13路盤 題名「プロペラ」

コミなし。黒から囲碁すると、どうなるでしょう。

 

・・・実は、どうなるかは知りません。

間違いなく言えるのは

「最善に打つと持碁(引き分け)になる」

ということです。

 

どの手が最善か、私には断定できませんが、仮にここが最善だったとします。

すると、同じような手があるはずです。

 

こうしたくなります。だって、最善ですから。

 

同様に、黒3も白4も最善です。黒1と全く同じです。

 

この後も、同じ手を打って、くるくる回転していきます。

 

 

最後は持碁になります。

同じ形、同じ陣地ですから自明です。

 

この囲碁アートは

「その構造から自明に、持碁になるべきことが理解できる」

という特徴を持っています。

 

私はよく「ここから囲碁すると引き分けになります」という紹介文を作品に添えますが、

これは、そのように書くまでもありません。

自分の目指すところを形だけで表現できている。

そういった完璧さがあり、この作品は気に入っています。

翔和学園の囲碁授業でも、このアートから囲碁で遊ぶ授業をしました。

 

ちなみに何も置いていない状態は、その見た目に反して、イーブンではありません。

先に石を置く黒のほうが、どうしても有利になってしまいます。

 

そのため、互角の勝負にするためのハンディとして

「コミ」

というものが実際の勝負では定められます。

6目半、つまり陣地6.5マスぶん、黒からマイナスされます。

この「半」、0.5は、どちらかが必ず勝つようにするものです。

 

その6目半も、正しいかどうかは誰にも分かりません。

一応それで、プロやアマチュアの大会は特に不満なく行われています。

 

 

「半」がある実際の勝負の世界観と、

引き分けになるアートを作る、いわゆる「囲碁アート」の世界観は、質的に異なっていると思います。

半の世界では、引き分けはなくすべきものです。トーナメントで引き分けになったら、基本的にはまずいでしょう。

囲碁アートの世界では、勝ち負けは「偏り」で、何かが間違っていることを示します。

黒の人か、白の人か、(そしてこれが怖いのですが)作った人か・・・。

 

 

囲碁アートは、いわゆる「詰碁」(囲碁の問題)とも違います。

(関さん、また詰碁作ってるんですか~、って言われることが多いけど絶妙に違うんだな)

ふつう、それは「どちらかの成功」を目指します。

黒から打って、白を取ってください。うまく侵入してください。など。

二人のゲームだけれど、一人称の世界です。自分は勝ち、相手は負けます。

 

囲碁アートの「持碁」は、つねに二人の問題となり、ワタシもアナタも、の二人称の世界です。

二人の結果が一致し、それを共有します。

 

 

「勝ち負けがない囲碁なんて、ねえ・・・」

と思うのが普通です。

私は別に実際の勝負の世界を消そうとはしていませんが、

引き分けを理想とする囲碁にも独特の別な可能性を感じていて、それを追求しています。

 

授業でも、囲碁アートから対局して、引き分けになった瞬間

なんか嬉しいんですよね。

授業でも、2人してワイワイ喜んでくれています。

周りの仲間から拍手が起きることもあります。

その瞬間って、実際の勝負の「半目勝負」(最小の差)ともまた違います。

 

「持碁」だけが持つ何か、

「持碁」だけが作る対局者同士の関係性が、確かにあるような気がします。

 

 

今回は、この囲碁アートの「理想」の話をしました。

しかし、ここから実際に人間が遊ぶと、また別の面が浮かび上がってきて面白いものになるようです。

次回「マネ碁・朋斎・囲碁アート」

お楽しみに・・・(続くはず)


なぜ和谷の碁をだれも知らないのか 囲碁ガチ勢のヒカ碁論(2)  

2022-09-28 19:55:17 | 日記

※今回もネタバレ注意です。

 
 
 
 
「和谷の対局ってまだ見たことありませんねえ」
 
 
久々に『ヒカルの碁』をじっくり読み返してみて、印象に残ったシーンがありました。
 
ヒカルが「院生」で頑張っている時期。
第55話(コミックス7巻、85ページ)にこんなやりとりがあります。
 
佐為「和谷の対局ってまだ見たことありませんねえ」
ヒカル「ああ どんな打ち方してくるか楽しみだぜ」
 
たしかにそうだ。
プロ棋士を目指す院生の上位の先輩で、入ったばかりのヒカルの面倒もよく見てくれて、研究会にも誘ってくれた和谷。
彼との対局を控えて、胸を躍らせるシーンです。
 
・・・さて問題
和谷は「どんな打ち方」でしょう?
 
 
 
ほとんどの人の「打ち方」がわからない
 
 
そう、分かりません。何も書いてありません。
 
ヒカルの碁では、たとえメインキャストであっても、
「その人がどんなタイプの碁打ちなのか」
「どんな展開を得意としているのか」
が、描写されることは稀です。
すでに読まれたことがある方は思い出してみてほしいのですが、碁のタイプがハッキリ分かる人、どれくらいいたでしょう。
 
囲碁は勝敗がつくものです。
ヒカルが囲碁大会や院生、プロ試験などで戦うことで物語が進んでいくので、『ヒカルの碁』は一応、「バトル漫画」の側面を持っているはずです。
だからこそ、これはすごいことだと思います。
 
例えばお隣、『テニスの王子様』では、主人公の学校である青学の面々はもちろんのこと、ライバル校の選手でも、それぞれのプレースタイル、得意技をどんどん描写しています。
河村先輩は見た目通りパワー系だし、乾先輩も見た目通りデータテニス。
天才・不二先輩はカウンター技を沢山持っており、戦いの中でそれが進化していきます。
スタイルと技のぶつかり合いが、バトルの内容を面白くしていると思います。(それがテニスなのかは別として)
 
バトル漫画はこの世に数多い。
お好きな作品を思い浮かべていただくだけでも、戦う人のそれぞれにスタイルがあり、必殺技がある・・・という例には事欠かないでしょう。
 
 
囲碁にも「棋風」や「得意布石」がある
 
 
囲碁にはそういうのが無いから?
と思われるかも知れませんが、いえいえ、あるんです。
 
碁盤全体にでっかく広げる「模様派」か、端をしっかり陣地にする「実利派」か。
攻めを目指して組み立てるか、守り重視でいくか。
いろいろなところに先回りする「足早」か、じっくり打つ「本手」か。
そもそも、こだわりすぎず、相手の出方に応じるか。自分のスタイルを貫くか。
 
このあたりの得意・不得意や好みが、人それぞれ違ってきて、スタイルと言えるものが形成されます。
それを「棋風」(きふう)といったりします。
 
そういう意味で、和谷がどんな「棋風」なのかが分からないのです。
彼といえば、プロ試験でのヒカル戦、生きるか死ぬかの勝負が思い出されます。
しかしあの一局があったとしても、どういうタイプかまでは、言いきれません。
たまたまそういう展開だったのかも知れないですし。
 
 
逆に、割と明らかになっているのは・・・
 
佐為。「本因坊秀策」そのもの。のち「現代の定石を覚えた秀策」になる。
ちなみに秀策は、判断力に優れており無用な戦いはしない、オールラウンダーだと思います。
 
筒井さん。「ヨセだけはほんとマチガエない」「目算とヨセはキッチリ」(第11話、2巻71ページ)
ヨセは終盤のことで、そこで勝負するタイプと見られます。
ちなみにヨセを間違えないのは完全に「プロ」の技術なので、一部では筒井さん最強説も囁かれます。
 
三谷。「ゴーインな攻めや不意を突く一手」(第27話、4巻44ページ)
碁会所や賭け碁で鍛えたというバックグラウンドがよく表れています。
 
越智。「キミは少々地を気にしすぎるんじゃないかな」「厚みは攻めに働かせないと・・・」(第80話、10巻33ページ)
アキラに指摘される場面です。たしかに、弱点という形でも個性が表れることはあります。
 
塔矢名人。「何とスピードのある足の早い碁だ」(第110話、13巻122ページ)
個人的には、「昭和の碁聖」といわれる呉清源九段の棋風を意識していると思っています。
秀策(佐為)が江戸の碁聖であることの対比でもあります。
 
これくらいじゃないでしょうか。(他にもあるかも?)
実はヒカルやアキラですら、はっきりと言われていないと思います。
中学の団体戦編では葉瀬中の二人がノミネートされましたが、加賀の碁は分かりません。
院生・プロに至っては、ほぼ不明となります。なんてこったい。
(「冷静」「強い」など、あいまいなものは除きました)
 
ここで、現実の囲碁の世界を見てみましょう。
プロ棋士の先生で、有名なのは・・・
 
地を正確に数える力が抜きんでており、ミクロの差で勝負をつけるスタイルでタイトルを獲得しています。
筒井さん的な棋風の代表者といえます。
 
その名の通り、石を攻めて、取ってしまう力が強く、恐れられました。
ベテランになるにつれ「ヨセ(終盤のこと)の加藤」とも。
 
自然に広い方に石がいき、いつのまにか碁盤全体を包み込む大宇宙があらわれます。
囲碁を知らなくても、なんか、見るだけで「分かる」かも知れません。明らかに他と違います。
 
いちばん新しいところでいくと、例えば上野愛咲美女流棋聖は「ハンマー」が定着しました。
やたら相手の石、殺してますよね。そうなる確率がものすごい。
 
挙げたらキリがないのですが、ここは代表として武宮正樹九段を詳しく見てみましょう。
(なぜか?私がいちばん影響を受けた人だから!!)
 
武宮九段、この人は代名詞的な「得意布石」を持っています。
そう、「三連星」です。
 
 
(最近は変わりましたが)昔は先番ならば、ほぼ三連星しか使っていませんでした。
武宮九段と言えば三連星、三連星と言えば武宮九段。
 
 
すると、白番の多くの人が、ここに来ます。「カカリ」です。
この手への対応によって、三連星がどのように展開されるかが変わってくるのですが・・・
 
(いわゆる一間受け定石)
 
(一間バサミ定石)
 
(「牛角三連星」)
 
(無視)
 
武宮九段の碁を調べると、時期によって戦法を変えているようです。
この年は牛角三連星ばかり打ってるな、とか。
詳しく聞いてみないと分からないですが、武宮九段なりに、どの展開が良い感じになるかを実際に試して、研究して、進歩させている。
一つの作戦を極めようとして、徹底的に磨いているわけです。
 
他には小林光一九段の「小林流」というのも、名前がついている通り、本人が使い込んで磨いています。
 
碁を打つ人の誰しもが持っている「棋風」。
「この人はこんな碁を打つなあ」というのは、囲碁の世界では結構、自然に思われる見方だと思います。
例えば、武宮九段の顔を見たとき。
まず「良い人そうだなあ」とか、もちろん思うわけですが
それと同時に、あの宇宙流の碁も浮かんでくるわけです。
生の武宮先生を初めて見たとき、「あ、宇宙流だ」って本当に思いましたもんね。
宇宙流が歩いてるんです。
それがトップ棋士というもの、囲碁が人に宿るのです。
 
そこまでのレベルではなくとも、たとえば同じくらいの力の友人、囲碁教室の生徒さん。
その人の打つ碁の感じとか雰囲気は、普段話しているときでも、なんとなく浮かんできます。
囲碁を覚えると、そういうもう一つのレンズ、いや、第三の眼ができるのかも知れません。
 
 
やっとヒカ碁に戻ります。
ヒカルの碁には、上のような意味での「武宮先生みたいな人」が出てきません。
大きく広げるのが得意、みたいな子が一人くらい目立っててもおかしくないのですが、いません。
三連星が得意で、ずっとこだわって打ち続ける人も、いません。
これはすごいことです。
だって、一番漫画にしやすい部分じゃん。
 
そういうわけで、あくまで私はですが、登場人物に対して第三の眼があまり開かないのです。
和谷が勝負している。しかし、和谷の碁がわからない。その「わからなさ」に、囲碁を知って気づきました。
 
 
「布石」といえば、アイツがいた・・・!
 
 
「得意布石」も、ヒカルの碁の面々はなかなか教えてくれません。
 
お隣の将棋界、『ハチワンダイバー』では、一徹にスタイルや戦法を磨く、魅力的な指し手が現れます。
「雁木の神野」といわれる「二こ神さん」、右四間飛車しか使わない右角。
主人公の菅田も「ハチワンシステム」を編み出し、成長させます。
 
第一部「佐為編」17巻までは、おそらく佐為の「右上隅小目」が唯一では?
右上隅小目は、現代でも使われるけれど、江戸時代で最も一般的な手でした。
秀策が現代に現れたことを示しています。
(新初段シリーズの塔矢名人戦で、現代風の「右上隅星」を選んだのは見事な描写です)
 
 
しかし、この話題において、最重要人物がいることに気付かることでしょう。
 
そう、関西棋院のくんです。
 
(初手天元)
 
 
(初手5の五)
 
この二つをひっさげて、ヒカルたちとの戦いに参戦しました。
(私は5の五使いですが、もちろん彼を意識しています。)
 
得意な布石とか、持ちネタの作戦など、そういうアプローチがなかったこの作品。
いきなり現れた社くんは強烈な印象を残しています。
 
実は、初手天元が登場する前話、「三連星」が登場しています。(第156話、19巻180ページ)
ヒカルと門脇さんとの、2回目の対戦。
1回目は、一年前に佐為が打ったので「小目」からのスタートでした。
やはり小目を予想していたであろう門脇さんの、「星か」「三連星できたか」。丁寧に描写している場面です。
 
ここで三連星を出したことで、いきなり「天元」「5の五」に行くのではなく
 
小目→三連星→天元→5の五
 
という風に、クッションの役割になっています。
これから布石の作戦がテーマになるよ、と準備しているような気がします。
 
 
 
「そういう漫画じゃないよ」ということ
 
 
逆に、このように考えてることもできそうです。
社くんのためにいままで表現をおさえてきたんだ、と。
コミック19冊ぶん布石の話題を避け、20冊目でドーンと放出したような形なんですよね。
これが、「この人はこれが得意」と細やかに知れる展開では、社くんのインパクトはこれほどではなかったかも知れません。
 
その判断基準は、「物語の展開に必要かどうか」でした。
 
ここでもそれに則ってみると、
『ヒカルの碁』は、それぞれの棋風や戦法がどんなものか、とか、どんな戦いをするのか、とかを描かなくても、あるいは描かないことでより一層、素晴らしくなる話だったのです。
代わりに描こうとしているのは、「囲碁を打つということ」であり、「囲碁を打つ人」である。
 
そのためには、棋風の表現を絞り、出す人は出し、出さない人は出さない。
筒井さんがヨセで大逆転することで、三谷がゴーインに攻めて玉砕することで、中学編がどれほど面白くなったことか。
逆に院生編では、それぞれの成長や心理描写、人間関係に集中することで、どれほど面白くなったことか。
 
そのためには、普通ならどんどん書いちゃいそうな「得意布石」というテーマも、ほぼ社くんだけのために使うような離れ業もやってのける。
実際面白くなっているので、納得でしかありません。
 
 
冒頭で引いた、ヒカルの
 
「どんな打ち方してくるか楽しみだぜ」
からの
 
実際には、どんな打ち方か描かれない
という流れ。
 
これは、
「見てもらいたいのはそこじゃないよ、そういう漫画じゃないよ」
というメッセージなのかなあと、思ったのでした。
 
 
次回は、作中での「勝ち負け」について考えてみたいと思います。

なぜヒカルの碁だけでは囲碁を覚えられないのか 囲碁ガチ勢のヒカ碁論(1)  

2022-08-31 19:15:00 | ヒカルの碁

どうも囲碁アートの関です。

 

「ヒカルの碁読書会」

というものを、コロナ前に企画していたのですが

 

お蔵入り同然になっていました。

このままだとズルズルいって本当に封印されそうなので・・・

ブログで書いていこうと思います。

 

※ネタバレ注意

 

まず、私について触れておかねば

小6のときにヒカ碁のアニメが始まり、興味を持って囲碁を覚えました。クラスの半分くらいもの子たちが囲碁を始めていて、正真正銘「ブーム」でした。

その後、中学・高校の大会に出たり、高校を辞めてプロ試験を受けたりしました。今は囲碁の世界で働いています。完全にヒカルの碁に人生変えられちゃいましたね。

囲碁の力は・・・作中のプロ試験に出たら、何局かは勝たせてもらえるかも、というくらいです。
 
囲碁の世界にどっぷりつかるごとに、そして大人になっていくごとに、だんだんヒカルの碁への見え方が違ってくるものです。
大名作で、幾度となく語られてきた作品。
目新しい内容かどうかわかりませんし、私なりの読み方ではありますが、囲碁界の人からみて正直にいろいろ書いていこうと思います。
 
 
 
※物語の大事なところにも触れるので、ネタバレご注意な記事になります。
未読の方や苦手な方はご注意ください。
 
 
 
 
 
 
「ヒカルの碁、面白すぎて5周したけど囲碁のルールはわからん」
 
 
twitterを見ていると、ときおりこんなつぶやきが流れてきます。
「ヒカル 囲碁 わからない」とかで検索すればすごく沢山見れます。笑
 
この漫画、本編を読むだけでは「囲碁を覚える」まではできないのです。
囲碁の「ルール」は実はちょくちょく書いてありますが、
「どう進めて、どう終わるのか」など、実際に遊ぶためにカギとなる情報までは触れられていません。
 
囲碁、そして囲碁の世界を知るごとに私が感じるようになったのは、
「この漫画、思ったより囲碁のことあんまり描いてないね・・・?」
ということです。
 
主人公の「進藤ヒカル」が、平安時代の棋士の霊「藤原佐為」に取り憑かれ、
名人の息子「塔矢アキラ」に出会い、彼を追って囲碁の道を進んでいく
 
ということなので完全に囲碁の話。
囲碁のプロ組織の「日本棋院」が手厚くサポート。
登場する碁石の配置は、ほとんどが実際のプロの対局から選ばれています。
しかし、同時に囲碁の描写は控えめであるようにも感じられるのです。
 
なぜ、そうなったのか。
ヒカルの碁の囲碁表現の特徴について、
そしてそれが物語の素晴らしさに繋がっていることについて、考えてみました。
 
 
 
数少ない盤上表現がすべて、必ず物語を動かしている
 
 
囲碁はゲームで、勝負です。
碁盤の上では四六時中、中身の濃い攻防が繰り広げられています。
ヒカルたちは囲碁で勝負をして、勝ったり負けたりして、上達して進んでいきます。
 
囲碁の描写が控えめ、と言いました。
それは囲碁のゲームの中身のことです。
当然ヒカルたちは頑張って囲碁を打っていますから
この石をこうやって攻めて、ここに陣地を作って、今度は守って、こうなったから勝ちだな、
みたいなことを考えています。
たとえば私がプロの対局を観戦するとき、碁盤の上での攻防がどうなっているのか、まずいちばん気になるところです。
分からないことがほとんどでも、解説を聞いて納得できれば嬉しいものです。
 
しかしヒカルの碁では、「碁盤の上で何が起こっているのか」が、はっきりと分かるように描写されることは稀です。
言葉では言ってるけれど盤面の状況はよく見えなかったり、盤面は見えても内容は伝えていなかったり。
囲碁が分かれば分かるのかな?と思われるかもしれませんが、分からんものは分からないです。
 
例えば、ヒカルVS洪秀英の一戦で、(コミックス9巻144ページ 第76話)
「悪手だと思われたヒカルの一手が、実は左上の攻め合いをにらんだ手だった」
ことによって有利となった、ということは情報として得られますが、
「その手がどのように左上に役立つのか」
までは描かれていない、などのように。
 
同じタイミングでアニメ化された「テニスの王子様」と比べてみると、あちらは
スマッシュを打ってポイントを取れた
とか、
相手に対応して必殺技を生み出し、有利になった
など、何がどうなって勝ったのか、ということがより明確に分かります。(それがテニスなのかは別として)
 
それはルールのわかりやすさ、描きやすさなど理由があると思いますが、
結果的にヒカルの碁は、碁盤の上の出来事をかなり絞った描き方となったようです。
 
(逆に何が中心に描かれているかといえば、それは「囲碁をすること」そのものかも知れません。こちらは次回以降)
 
 
しかし、盤上を見せて、言葉を使って、囲碁の意味を読者に伝えようとしたときには、その表現はすべて素晴らしいものとなっています。
全てに重要な意味があり、登場人物の魅力を引き出し、物語を動かしていると思います。
 
 
・中学の団体戦、三谷と海王中の岸本との主将戦。(コミックス4巻63ページ、28話)
「コウ」を取り合う、という展開が登場します。
あまり意味のないコウだけれども、つい争いをやめてしまった三谷に、
「・・・ひいたね」
と岸本が言います。
「この先キミはくずれていくばかりさ」
 
このやりとりで、三谷の碁のタイプ、それを岸本が完全に見透かしていること、精神的な余裕の差、勝負のゆくえ・・・全て伝わってきます。
 
 
・プロ試験、ヒカルと和谷の対戦。(コミックス11巻55ページ 第90話)
白の地に侵入したヒカルの石が助かるか、取られてしまうか、で決まる完全にヨミの勝負。
勝ちを確信して、師匠の期待に応えた和谷の心情。
「佐為だったら・・・」
で唯一の道を発見したヒカルの実力。
そして破られた和谷の気持ち。
一つのヨミが重要な碁だったからこそ、痛いほど伝わってきます。
 
この囲碁表現は、和谷が佐為の存在にかなり迫っていること、ヒカルの打つ碁の中に佐為がいること、という物語の重要な部分にもつながっていました。
 
 
・第2話まで戻りますが、ヒカル(本当は佐為)VSアキラの第1局目。
物語そのものが動き出す、記念すべき一戦でした。
佐為は指導碁のつもりだったとのこと。
 
「これは最善の一手ではない 最強の一手でもない・・・」
「僕の力量を計っている!! はるかな高みから―――」
 
しかし、実は元ネタの一局とは意味が異なっています。
 
 
 
江戸時代の碁。
黒番は本因坊秀策(藤原佐為が前に憑いていた人)ですが、白番は師匠の本因坊秀和です。
つまり、「指導」する立場にいるとしたら、白のほう、ということになる。
なんとアキラが師匠側なわけです。
そのうえ秀策は、師弟関係を頑なに大切にする人、というエピソードが伝わっています。
(師匠と互角になった後も、実力・立場が上である白番で秀和と対局することを固辞した、というもの。)
 
 
この一手。
指導するなんてもんじゃなく、全体に広がる白の作戦をなんとか防げないか、と頑張って編み出したものと想像するほうが普通です。
 
しかしそれでもなお、佐為が、アキラに、この一手を指導として打つという描写にしたことは、大英断だったと私は思います。
碁盤全体、今まで打たれたすべての石、この一局すべてに響くような、神々しい一手なんですよね。
アキラに「遥かな高み」と感じさせ、「神の一手」という本作のテーマに全く負けていない一手。
元ネタと違う形にしてでも使いたい棋譜だと思いますし、ヒカルの碁のために打たれたといっても私は信じます。
 
 
 
囲碁のルールも、流れの中に
 
 
そんなヒカ碁ですが、囲碁のルールに触れている箇所も、いくつかあります。
ここでは、囲碁の根本的なところ、地と石取りに注目します。
他の細かいルールは置いといて、この2つがあれば「囲碁」といえるからです。
 
 
・将棋部、加賀の初登場シーン。(コミックス1巻、第7話の最後)
「石ころの陣地取り」という表現で囲碁をディスります。
実は、「地(陣地)が多いほうが勝ち」であることは、ここで(こんなところで!?)初めて言葉で示されます。
碁盤は出てこないので、それが実際どんなものなのかは、ハッキリとは読者には分かりません。
その前のアキラとの対局で「2目負け」などは出てきますが、それが「地の差」であることは本編ではまだ説明されません。
 
囲碁嫌いなタイプのヒール役が本編で初めて登場。加賀のバックグラウンドを見事に表しています。
穏やかで囲碁大好きな筒井さんとの対照も際立っています。
ここからヒカルの中学囲碁部編につながっていきました。
 
 
・ヒカルがあかりに「石取り」を教えるシーン。(コミックス2巻、153ページ 14話)
ここで初めて、「石を取れる」ルールが示されます。
 
(黒が◎に打つと、白の1つを取れる、の図)
 
 
あかりの石の逃げ方に、ヒカルがキレます。
 
(石は動かしちゃいけない。正しくは右の◎)
 
囲碁部の日常のワンシーンとして面白いところです。
あかりの天然(?)な感じ、あかりとヒカルの長年の関係性、たぶんヒカルは優しく教えるのは向いてなさそうだな、というのがわかります。
 
 
・筒井さんがあかりに「地」を教えるシーン。
 
三谷のズルがどんなものなのか、初心者のあかりに筒井さんが教えます。
地がどんなものなのか。最後に数えるための「整地」について。
そこでズルをするとどうなるのか、について。
 
(黒石で囲まれた場所が12目の地。線と線の交点を数えましょう)
 
 
囲碁の勝負の決め方が、(他の場面に比べれば)かなりの丁寧さで示されます。
確かに読者のためを思えば、三谷がどんな悪いことをしているのか、知っておいた方がいいでしょう。
このタイミングで、この解説はありがたいものです。
 
しかし、そんなメタ目線を吹き飛ばすような筒井さんの「最も卑劣な行為なんだ」のセリフです。
なぜこの解説があるかって、何よりもまず筒井さんが三谷の行為を許せない、そんなヤツが囲碁部にきてもいいのか、という話です。
だからこそ、地がここで説明されなければならない。
物語の流れにピッタリ囲碁の解説が組み込まれています。
 
 
「引き算」の美学
 
 
逆に、ルールが説明されていそうで、されていない場面があります。
第1話、ヒカルがプロの先生(白川七段)からルールの手ほどきを受けている場面です。
読者より前に、ヒカルは先生から「ちょこっとの基本」を教わっていました。
 
(「石取りゲーム」をしていますが、どうなったら石を取れるかまでは描かれていません。
最後先生が◎に打っていますが、黒3つを取り外すところは描かれていない)
 
 
囲碁漫画の記念すべき第1話。
より深く見てもらおうと、ここで囲碁のルールを一通り、先生に解説してもらうことも出来たかもしれません。
「序盤はこんな風に打って、もう陣地が増えなかったら終わり、数え方はこうで・・・。」
どこかで一局の流れを追体験させるような描写を入れ、囲碁をより覚えやすくすることもできたでしょう。
監修は一流です。

しかしヒカルの碁はその選択はしませんでした。
 
それはおそらく、物語の流れに乗らない、と考えたからではないか。
残念ながらメインキャストとはいえない白川七段が、ヒカルに(読者に)囲碁を紹介するシーン。
これが、ヒカル・佐為・アキラたちの物語に、何を付け足すことができるだろうか。
 
ヒカルの碁には、そんな判断基準、そんな美学が読み取れると思います。
余計なもの、過剰なものを、なんとか省くことはできないか。
ここぞという場面で、最も効果的に囲碁を描くにはどうするか。
 
その「引き算」の結果、囲碁を覚えられないくらいに表現は絞られ、物語そのものは、これ以上ないほどの強度を得たのではないか。
囲碁の名人の芸も、ちょうどそのようなものです。無駄がそぎ落とされているのです。
私は、この物語に何かを付け足そうとは思えません。
 
 
これを書いていて思い出したのは、漫画『ホーリーランド』です。
格闘漫画なのですが、もうとにかく解説解説解説、解説が入ります。
戦いの一挙手一投足、ぜんぶ作者の解説が入っている。そんな漫画です。
何が起こり、なぜこちらが勝ったのか、読者は納得して読み進めます。
 
しかし、私は決して余計・過剰とは思いませんでした。
戦いの意味を深く理解することが、物語の展開を理解することに、そのまま繋がる造りだったからです。
必要なことを必要なぶん、やっている。その必要の量が違うだけなのです。
 
 
「分かるではなく、分かるようになりたい」
 
 
少し前、ヨビノリたくみさんのツイートが良いなと思いまして
 
 
 
ああ、そうだった。
私はヒカルの碁を読んで囲碁を分かったわけではなく、
分かるようになりたいと思ったのだ。
 
 
次回は、「バトル漫画」としてヒカルの碁を見たときに思ったことを書いていこうと思います。

すごく遅い「入門書の歴史」の振り返り。

2022-03-31 15:59:57 | 囲碁の入門書

どうも、囲碁の先生してます関です。

1月30日と2月27日、「入門書の歴史」 ありがとうございました!

youtubeでも動画アップされてますので、ぜひ見て見て下さい~

 

だめだとは思うんですが、たくさん喋ったり文章をたくさん書いた後には、なんか筆がとれなくなるので、今になりました。他にも忙しかったし・・・

しかし時間が空いたことで進んだ点もあると思うので、、いま改めてこれにコメントしてみたいと思います。
 
 
 
・先日、囲碁史学会のかたに、「入門書の歴史という試みは新しい」というようなことを言っていただけました。
ありがたいし、確かに!とも思いました。
 
囲碁の歴史は「盤上」の歴史、同時に「トップ棋士」の歴史というのが大きな流れだと思います。
江戸時代から現代まで、プロ制度が中心に置かれて、囲碁界を見ている感じ。
 
囲碁がどのように話され、紹介され、遊ばれ、考えられ・・・という、いわば「民衆」の側の歴史を見つけることができるだろうか。増川宏一先生のご研究(『碁』法政大学出版局 など)はその点も多く書かれています。
 
昔はその点を知れる史料は少なかったけれど、現代では必ずしもそうでもない。
つまり今回でいえば数多くの「入門書」を通じて、
(それを書いたのは囲碁強い人であっても)
囲碁を覚える瞬間について何かを知ることができるかも知れないわけですね
囲碁の文化を考えたり作ったりするにあたって、そのあたりを知ることは重要でしょう。
 
たとえばツイッターだけを見ても、たびたび議論が起きたりします。
(最近だと囲碁入門関連、書籍の厳しい記述について、碁会所批判、などでしょうか)
 
何かが語られることで浮かぶべき問題が浮かび、それぞれの立場が顕れたりするので、大事なことです。
それを実り多いものにするためには、過去にどんな言説があったのか、という土台があったら尚よいわけで、それが文系の研究の価値の一つだと思われます。
 
例えば、1961年『囲碁の手ほどき』(下田源一郎五段)の前書きに、囲碁入門で大事なことの精神が先駆的に書かれていたり
明治から現代にかけて、厳しい記述は減ってきていたり(これは紹介しきれませんでしたが)
 
などなど、もうすでに考えられていたことが色々あったのでした。
 
私としては、「強いほうの人が、相手のことを想像できないこと」
をやめていく過程が入門書の歴史に見られると思います。(まだ途中とは思いますが)
 
例えば、囲碁が強い人の感覚だけで入門書を書いて、初心者が全くわからんものができちゃったりとか
厳しい言葉が当たり前に使われていたけれども、当然それが大丈夫じゃない人もいるわけで、それをやめていくとか
 
現代的な基本姿勢として、あったほうがいいんじゃなかと思います。
 
 
・女性差別について、第二回で取り上げました。
 
(この記事についても、同様に考えていただきたいです)
 
私は世間一般から見ても「マジョリティ」のほうになりやすい立場の人間ですし、囲碁の世界でもそうだと言えます。
男性です。囲碁が強いほうの人間として、仕事をしています。
 
囲碁の世界は人間を男女に二分した形でとらえて、男性優位なように不平等な形を温存しており
(解消の努力があること、同じ土俵で戦っていることは勿論ですが)
それを解消する責任があるとしたら、それはマジョリティ側にあると思います。
私個人の意見でもありますが、一般的といえる発想ではないでしょうか。
 
それゆえ、「そんな自分がどうするか」からスタートすることにこだわりました。
聞いて下さっている皆さんの立場はそれぞれですが、ジェンダー記述への検討は「人間への囲碁入門」を考えるとしたら必要です。そこに特定の人への排除があったら、人間への、とは言えないためです。
 
 
さて、そんなわけで発表では「女性」についての記述を見ていったのですが、それは従来の囲碁界の言説に準じたものでして、足りていないところがあると思われます。
ジェンダー研究やフェミニズムの昨今の考え方では、そして実際の人間のとらえ方としては、
男女の二元論では人間をとらえられない
となるはずです。
その点をほぼ何も言えなかった(質疑応答のときに一言だけ)ので、私というか囲碁界の課題だと思います。
 
たとえば、いま「ペア碁」の公式大会では、「男女」で組むものとなっていますが、このままでいいのかどうか。
 
「女流」なる概念を検討する回がもし開催出来たら、そのときに発表したいですし、考え続けていくと思います。
 
 
・完全に後で気づいたこと。
 
石倉九段への批判のさなか、明治時代とやってることが変わらない」というくだりがありましたが、それは「女性」への見方として、でした。
逆に内容として変わったこととは何か、って言ったら囲碁なんですけど
 
明治では囲碁は「戦い」(野武士!!)、激しい男性的なものと見られていたのに対し、
石倉九段の段階では穏やかなもの」と見られていること。
そして現代のわたしたちも、後者のイメージを所与のものとして受け取りがちであること。
どこかのタイミングで、囲碁が激しいものから穏やかなものに変わった。
少なくとも、そういう言説が増えてきたキッカケがあるはずだ。
 
さっこん、囲碁は「平和」といわれることが多い気がします。なんなら私の囲碁アートも言われます。
明治の段階から、よくそこまでイメージを変えたものです・・・。
 
しかし同時に、逆に、「いくさ」としての説明も歓迎されるでしょう。
「戦争ゲーム」として説明されることが、今もあるはずです。
 
この平和と戦いの奇妙な関係とは。いつからそうなったのか、だれがそうしたのか。
 
この精神の変遷が気になりました。とりあえず、すぐに浮かぶのは呉清源九段の「碁は調和」という発想でしょうか。
 
 
とりとめがありませんが、ひとまず思ったことを書いてみました。
お読みくださりありがとうございます!