何かがあるかもしれない日々

何もない日々、ではない筈・・・

ああ、そうか、そうだよね

2019-06-24 08:29:28 | どーでもいーこと
このツイートを見て少し考えた。





最近、そこそこ売れている(と思われる)ビジネス書も簡単な言葉しか使っていない。一昔以上前のものはわからないが、少なくともここ数年はかなり易しい言い回しになっていることが殆どだ。語彙の少なさもさることながら、一段落も短いし、章も長くならないように気をつけているフシがある。この傾向は書籍全般にも言えるようで、専門書や新書でも「お堅い」本はそこそこの語彙力を前提に書いているが、それでも「そこそこ」であって、数十年前の書籍と比べると、かなり平易な言い回しになっていることが多いような気がする。

もう一つ、この事実と関連のありそうな例として、流行のSNSはどんどん「短い」ものになっている、というのがある。どういうことかというと、mixiやfacebookは一回の投稿でかなり長い文章を書ける。それに比べるとtwitterは一回の投稿で書ける文字数が少ない。それどころかInstagramやTikTokは写真や短い動画を投稿するものである。もはや文を読まくてもどうにかなる。おそらくブログも写真や漫画の入っているものが多くなり、テキストをひたすら書いていくようなものは、嘗てに比べるとかなり割合が下がっているはずだ。

少し視点を変え、通勤電車の中を観察してみれば、社内で本を読んでいる人は今となってはかなりの少数派で、スマホでゲームをやっている人が多いようだし、ニュースをチェックしている人は新聞を読む代わりにネット配信されている記事を読んでいる。ごく偶に新聞を持っている人はいるが、「縦に半分に折って細長くして読む」という技を使っている人は保全状況でいうところの近危険種だ。(嘗ては新聞を縦に折って広げずに読むことで、周囲の人になるべく迷惑をかけないようにしていたと記憶しているのだが・・・)

これらを併せて考えると、最近の傾向は

  • 見たいものを選んで見る

  • 長いもの、難しいものは見たくない


と言える。全員がそうだとまでは言わない。でも平均は間違いなくそちらに向かっている。20~30代は間違いなくそうだ。40代以上でも電車でのスマホ利用率を考えるとこの傾向にあると考えても良さそうだ。

さて、ここからが問題。当然のことながら自分の周りでも同じ傾向にある。不思議なとこにSNSの利用率は低いようなのだが、文章を読まない・読めない傾向はかなり社内でも見受けられる。単純な計算はできるけど文章題の問題文がそもそも理解できない、という小学校の算数で躓く原因の一つともいえる現象も見られる。といってもその事自体が問題なのではなく(問題ではありますけど)、年配の社員がその傾向を認めないところに問題がある。いや、これは僕の言い方が悪い。年配の社員も実感としてはわかっているようだ。それを強制的に矯正させるのが正しいと信じていることがイタイのである。実のところ、長文を読むのはヒトにとってかなりシンドい作業で、読まなくても良いなら誰だって読まない。人間は当然楽な方に楽な方に向かうから、文章は読まないのこしたことはない。だから読もうと思えばそれなりの訓練が要る。当然のことである。しかもその文章が自分の今まで信じていたことをガラガラと崩してしまうものなら余計にシンドい。だから大企業でもこの時代の流れには逆らい難い。だから中小企業では尚更逆らえるわけがない、ということが何度言ってもわかってもらえない。ここが一番の悩みどころなのである。

それなら短く、わかり易い言葉で、映像を伴い、しかし正確に、記憶に残るように伝えればよいのだが、それはとても難しい作業である。しかし、それをせずにこれからの若い世代を教育することは困難なのである。これがそろそろ中堅と言われる年齢の僕が取り組まなければいけない課題である。

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