何かがあるかもしれない日々

何もない日々、ではない筈・・・

頼むから少しは勉強してくれ

2019-03-18 12:09:30 | どーでもいーこと
Wさん
・発達障害について
・世の中の流れ


・風呂の換気扇の使い方
・論理的思考

Hさんに至っては論外。


なぜ3人とも自分が今まで見たことが世の中の全てだと勘違いしているのか。他にも知っている筈のことに対しても、「調べる」とか、書いてある客観的事実を「言葉の通りに理解する」とかいうのをもっとやってくれない人は大勢いるのだが、僕を頻繁に困らせてくれるのはこの3人。どうして彼らが「事実」を「そのまま理解」してくれないのかが謎。尤も、僕は自閉的傾向が強く、自分がなんでも文字通りに理解しようとする傾向にあることは知っている。しかし、彼ら定型発達者が度々客観的事実を文字通りに理解しようとしないし、また、理解もできない、ということが自分にとっては衝撃である。あるいは笑劇であるかもしれない。


もしかしたら、「書かれているとおりに理解する」という感覚がないのかもしれない。このことについてはもう少し調査が必要だ。





ところで、最近セックス依存症になりました。という漫画を見た。最近は自閉症とか依存症とか、当事者の書いたものが色々あって、非常に良い時代だと思う。ここでは当事者ということばは「本人もしくは家族(主に母親)」という意味で使っている。依存症でも自閉症でも、突然医学的な難しいものを読んでも中々頭には入ってこないが、当事者の書いたものは大抵すんなりと頭に入ってくる。自閉症については自分でも似たような経験があったからかな、という気もしたが、そうではないようで、依存症のものも中々面白い。面白い、と言っては悪いかもしれないが、適切な言葉を選べるほどの語彙力や文章力はないので、面白い、と書いておく。ともあれ、当事者の著作を何冊か読んでみて、難しいものはそれから読めば良いのだ。さて、そうして色々と読んでみると、「困った子は困っている子」という言葉があるが、どの著作にもまさにそのとおりの場面が多々見受けられる。外から見たら困った人でも、裏を返すと、困っているのは本人なのである。テンプル・グランディンさんの著作を読んだときから薄々感じてはいたが、この言葉は現実を非常によく表していると思う。(ところで、パーソナリティ障碍の当事者の著作って何かあるのだろうか?暇があったら探してみよう。)


僕自身が対人関係を築いたり維持したりできなくて困るようになったのは大学生からだが、それ以前から、周りの人にとっては困った人だっただろう、と20年も経った今になって思う。少しだけ成長したようで、やっと少しだけそのようなことを考えられるようになった。これも当事者の本を何冊も読んだ効果なのだろう。


話を依存症に戻そう。最近、ピエール瀧さんのことが報道されたりしていた。彼は長く薬物を使用していた、との噂もあり、恐らくは依存症と言って良いであろう。この事件に関連して「なぜ薬物使用疑惑をスクープにしてはいけないのか」(National Geographic)というサイトを紹介シている人がいて、早速そのサイトの内容を基に、妻に話題を振ってみた。しかしながら彼女は

・何故、表現の自由とか報道の自由を犯罪者のために制限されなければいけないのか

という意見で全てをバッサリと切ってしまい、すぐに会話終了。恐らく、この会話を基に、何か文献を目にして、自分の知識をアップデートすることなどしないのであろう。僕が「どんな著作を読んているか」が知っていても、中身に興味を持つことなど全く無いのだから。彼女はいい年して少女小説みたいなものしか読まないのだから。彼女にとっては依存症は「治療が必要な困っている人」ではなく、「周りを困らせる犯罪者」でしかない。逆向きにも考えてみないと違法薬物を撲滅することなどできないとは思ってもみないのであった。ともあれ、そうしてまたしても「一人だけ勉強したらダメ」という事実を確認するに留まってしまった。


そしてもう一つ思った。風呂の換気扇の使い方でもそうなのだが、何かを「調べて」、調べた結果によって「自分の考えを変える」ということがまるでできないのだ。そう、彼女は大変な老害候補なのだ。

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