ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。

つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

ガマの油売り口上 盲目の人・宮城道雄は「声を見る」というお話し

2015-10-22 | ガマの油口上 技法


盲目の人は「声を見る」という 
   

 作曲家で箏曲家であった宮城道雄は、随筆『音の世界に生きる』の中で「眼で見る力を失ったかわりに、耳で聞くことが、殊更鋭敏になったのであろう。普通の人には聞こえぬような遠い音も、またかすかな音も聞きとることができる。その人の風体を見ることのできぬ私どもは、その音声によってその人の職業を判断して滅多に誤ることがない」とか、「歩いていても、それが男であるか女であるかは勿論、その女は美人であるかどうかもやはり足音でわかる」と書いている。

 我々が「がまの油売り口上」を演ずるとき、大抵の場合、自分の声が「見られている」ことに関心を持つことはないが、声で、その“人”がわかる、手を抜けばたちまち見破られるという、頂門の一針のような随筆である。  

宮城道雄 
    
 
 宮城道雄は1894(明治27)年4月7日は、兵庫県神戸市生まれの作曲家・箏曲家で、『雨の念仏』(1935年)などの随筆により文筆家としての評価も高い。
   
 父親は広島県沼隈郡鞆町(現在の福山市)、母親も同県安佐郡祇園町(現在の広島市安佐南区)出身。8歳で失明し、生田流箏曲の二代菊仲検校に師事したが、その後兄弟子菊西繁樹の紹介により二代中島検校に師事して11歳で免許皆伝となる。13歳のとき、一家で朝鮮の仁川へ渡り、箏と尺八を教えて家計を助ける。14歳で第一作の箏曲「水の変態」を書き上げ、伊藤博文に評価される。
   
 その後京城(今のソウル)へ渡って頭角を現し、結婚して宮城姓を名乗る。そして1916年、大検校となった。1917年4月、上京するが間もなく妻が急死して翌年再婚した。

 1919年、本郷春木町の中央会堂で念願の第1回作品発表会を開催して作曲家としてデビュー。自作や古典曲の演奏を行う一方、古典楽器の改良や新楽器の開発を行い、十七絃、八十絃、短琴(たんごと…家庭用の琴)、大胡弓(だいこきゅう…大型の胡弓)などを発明した。  

 1929年に発表した「春の海」は、フランス人女流ヴァイオリニスト、ルネ・シュメーと競演され、世界的な評価を得ることになった。1932年に日、米、仏でレコードが発売されている。春の海は父親の故郷であり失明前に育てられた土地、福山市鞆町から見える鞆の浦にインスピレーションを受けて創作したもの。  

 1956年6月25日未明、大阪の公演へ向かう途中、愛知県刈谷市の刈谷駅付近で夜行急行列車「銀河」に付き添いで同行している義理の姪(内弟子)と共に乗っていたが、この列車の昇降ドアから外へ出て列車の外に転落した事が原因で死亡した。  
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

宮城道雄「音の世界に生きる」  

     幸ありて  

 昨年の暮、一寸風邪をひいて欧氏管(おうしかん)を悪くした。普通の人ならたいして問題にすまいこのことが、九つの年に失明を宣言されたその時の悲しみにも増して、私の心を暗くした。もし耳がこのまま聞こえなくなったら、その時は自殺するよりほかはないと思った。音の世界にのみ生きて来た私が、いま耳を奪われたとしたら、どうして一日の生活にも耐え得られようかと思った。幸い何のこともなく全治したが、兎に角今の私には、耳のあることが一番嬉しくまた有難い。  

 私は、生れて二百日くらいから眼の色が違っていたそうであるが、それが七つの頃から段々見えなくなった。その為に学校に上れなかったが、それが当時の私には何より残念だった。めくらといわれるのがどうにも口惜しくてならなかった。それで無理に見えるふりをして歩いて、馬力につき当ったり泥溝に落ちたりして怪我をしたものである。が、結局諦めねばならなかったので、九つの六月から箏を習いはじめた。
  
 音楽は元来非常に好きだったので、間さえあれば箏に向っていた。しかしその頃は――そしてずっと後年まで、やはり時には、眼が見えたらなあと寂しく思うようなこともないではなかった。  

 だが、しかし今日では、年も取ったせいであろうが、眼の見えぬことを苦にしなくなった。時々自分が眼の悪いということを忘れていることさえある。「ああ、そうそう、自分は眼が見えなかったんだな」と気がつくようなことがしばしばある。というのは、物事は慣れてしまうと、案外不自由がないものだから、私なども家の中のことなら大抵、人の手を借りることなしにやれる。それだけにまた一しお、この耳とそして手の感触をありがたいものに思うのである。  

 私は、眼で見る力を失ったかわりに、耳で聞くことが、殊更鋭敏になったのであろう。普通の人には聞こえぬような遠い音も、またかすかな音も聞きとることができる。そして、そこに複雑にして微妙な音の世界が展開されるので、光や色に触れぬ淋しさを充分に満足させることができる。そこに私の住む音の世界を見出して、安住しているのである。  

    声を見る  
 まるで見当違いの場合もないわけではないが、その人の風体を見ることのできぬ私どもは、その音声によってその人の職業を判断して滅多に誤ることがない。 

 弁護士の声、お医者さんの声、坊さんの声、学校の先生の声、各々その生活の色が声音の中ににじみ出てくる。偉い人の声と普通の人の声とは響きが違う。やはり大将とか大臣とかいうような人の声は、どこか重味がある。

 年齢もだが、その人の性格なども大抵声と一致しているもので、穏やかな人は穏やかな声を出す。ははあ、この人は神経衰弱に罹っているなとか、この人は頭脳のいい人だなというようなことも直ぐわかる。概して頭を使う人の声は濁るようである。それは心がらだとか不純だとかいうのでなく、つまり疲れの現れとでもいうべきもので、思索的な学者の講演に判りよいのが少く、何か言語不明瞭なのが多いのがこの為ではないかと思う。

 同じ人でも、何か心配事のある時、何か心境に変化のある時には、声が曇ってくるから表面いかに快活に話していても直ぐにそれとわかる。初めてのお客であっても、一言か二言きけば、この人は何の用事で来たか、いい話を持って来たのかそれとも悪い話を持って来たか、何か苦いことをいいに来たかというようなことはよくわかるものである。また肥った人か痩せた人かの判断も、その声によって容易である。例えば高く優しくとも肥った人の声は、やはりどこかに力があるものだ。 

 声ばかりではない、歩く足音でそれが誰であるかということがよくわかる。家の者が外出から帰って来たのか、客であるか、弟子であるか、弟子の誰であるか、大抵その足音でわかる。道を歩いていても、それが男であるか女であるかは勿論、その女は美人であるかどうかもやはり足音でわかる。殊に神楽坂などという粋な筋を通っていると、その下駄の音であれは半玉だな、ということまでわかる。それは不思議なくらいよくわかる。  

 ところが、この間道を通る人の靴音をきいて、傍の家人に今のはお巡りさんかと尋ねてみたら、「いいえ女学校生です」とのことであった。この頃の女学生は活発な歩き方をするので、私の耳も判断に迷うことがある。 

    音に生きる  

 私は子供の時には非常に負嫌いで、喧嘩しても議論しても負けるのが何より厭だった。それがこうして音の世界に生きるようになってからは、不思議に気持が落著いて来て、負嫌いどころか負けることが好きなくらいになった。大概のことは人に勝たしてあげたいと思うのである。  

 時にはそれを卑怯のようにも思うけれども、決して人と争わぬ。人の意見に反対しない。若い頃には直ぐ怒ったものであるが、この頃はどうしたものか、腹が立たなくなった。時に、弟子に対して怒ったふりをすることはあるが、心から怒るということはない。

 芸に就いても、かつては他流の人とでも弾く時には、何か一種の競争意識というか、戦闘気分といったようなものに支配されたものであるが、今日はそうでない。誰とやっても静かな気持である。先ず人を立ててその中に自分自らも生きようと希う気持だけである。

 私が一番苦々しく思うことは、相手の人によって言動に階級をつけることである。人間はどうしてああいうことをせねば気がすまぬのか。それは偉い人には敬意を表さねばならぬのは勿論だが、目下の者だから、貧しい者だからといって何故威張らねばならぬのか。私にはそういう気持がわからない。

 それでよく弟子達に、「先生は誰にでも頭を下げるから威厳がない」と叱られたりするが、しかし私は自分の値打を自分で拵えて人に見せようというような気持にはなれない。 

 これは何も私が修養が出来ているかのように仄かすのではない。およそ音の世界に生きる者のすべてが自然に持つ、一つの悟りとでもいうべき心境であろう。有難いと思う。私はいま別に信仰というものはないが、強いていえば、私にとって音楽は一つの宗教である。 



【関連記事】



 


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 水戸黄門は“名君”だったが、... | トップ | 北大路魯山人の 『蝦蟇を食... »
最新の画像もっと見る

ガマの油口上 技法」カテゴリの最新記事