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高須芳次郎著『水戸學精神』第一 水戸學概説 (五) 水戶學の大成と中心人物 

2022-08-19 | 茨城県南 歴史と風俗

高須芳次郎著『水戸學精神』
  
  第一 水戸學概説  

 

(五)
學の大成と中心人物 

  椎ふに、水戶學の大成は、一面から見ると、西力東漸の剌軼によるところが少くない。 國學の大成は、排支那文化・排支那精神を有力な動因としたが、水戶學は、西力東漸の勢に抗してゆくために、その組織•體系を整えたとも見られる。即ちアメリカ・イギリス・ロシヤなどが、日本に對して野心を抱き、ともすると、侵略の手をのばさうとしたことが、幽谷・東湖・正志齋らを強く刺戟し、一層、その日本主義的思想を躍進させたのである。それと共に、當時の名君として、重きを爲した徳川斉昭(烈公)の存在が、水戸政敎學 大成の機運を促したことも認めないわけにゆかない。  

 かくして、水戶政教學の内容が整へられたのであるが、その大成の序幕は、これを藤田幽谷の時に見ることが出來る。幽谷は、その子、東湖が餘りに有名な爲めに、一般から閑却せられた傾きがあるけれども、思想家として卓越したことは、彼の著書によつて明かだ。『勧農或問』の如きは、經世眼の優れてゐたことを能く示してゐる。その言ふところには、儒者の臭氣がなく、實際に適切だ。西洋の學問などに少しも敎へられずとも 幽谷は立派な社會政策を示してゐる。

 彼は、政治家として、東湖ほどに花々しい活動をしなかったが、思想上では、非凡性を發揮し、東湖に先立って、水戸學の内容をほぼ組み立てた。東湖が『弘道館記』及び その『述義』において示した水戶學の神髓は、要するに、幽谷の考へたところを基本として、それを整頓したにすぎないとも云へよう。  

 嘗て
義公が說いたところは、餘りに簡略で、組織的でなかったが、幽谷の時代に入って、彼により、先づその方面の要素に触るるやうになった。その事は、會澤正志齋の『及門遺範』に記されてゐる。
 それによると、幽谷は平生、東湖及び正志齋らに向って、實學を說き,水戶學を構成するところの諸要素に幾度となく觸れたのである。從って、水戸學の一大發展についての骨組や土臺は、幽谷の力に負ふところが最も多い。正志齋が書いた『及門遺範』のうちには『弘道館記』に述べられてゐる綱領がほぼ索材の僅かの姿で各所に散見される。今、その話に觸れる事とする。
  
(一)先生(幽谷)の人に教ふるところは、專ら忠孝にあり。——及門遺範—— 
(二) 先生、尤も君臣の義を重んず(同上)
(三) 君臣・父子の名分・忠義・•四海萬國の形勢・變革、華夷内外の辨、一々指示す(同上)
(四) 先生の人を教ふるや、虚文を後にして實行を先きとす(同上)  

(五) 先生の『孝經』を談說するや、愛敬の二字を以て、第一義と爲し、
     仁孝一本の義を發す(同上)  
(六) 先生恆に言ふ、學者は君子たらんがために學ぶ。
     儒者たらんがために學ぶにめらず(同上)

(七)先生謂へらく、古は文武一途、未だ嘗て分れて二とならず(同上)
(八) 先生、文學に於て古今を網羅し、衆說を會萃して、之を斷するに聖經を以てす (同上)
(九) 先生、春秋尊王攘夷の義に原づき、尤も名分に謹む(同上)
(十) 先生、力を正學に専らにし、曲藝小技を好まず(同上)

 その他、幽谷が『日本書紀』『古事記』『萬葉集』などを愛續したこと、實學を重んじたこと、內外の歷史に精通したこと、アメリカ・イギリス・ロシヤなどが日本を窺がふのを .特に憂慮したことなどが、『及門遺範』に記されてゐる。今、それを左の圖表と對照すると、幽谷が正志齋に教へ、東湖に示したところの諸点が,おのづから総令されてゐることが分る。

        

 右は『弘道館記』の内容を分解したのであるが、幽谷の考へが、その諸要素となったことを示してゐる。『弘道館記』東湖が烈公の命によって起草したもので、そこに幽谷の精神・思想を結晶した観がある。かくして水戸學の内容は、はじめて集大成した。その根木・基調は、国體發揮にあたって、すべてをわが國體思想によって統一してゐる。

 それ故、東湖は、『弘道館記』で、
「弘道とは何ぞや、人能く道を弘む。道とは何ぞや。天地の大經にして、生民の須臾も離るべからざるもの也。《中略》恭しく惟みるに、上古、神聖極を垂れ、天地位し萬物育す。
 其の六合に照臨し、字內を統御する所以のもの、未だ嘗て斯の道に由らすんばあらざる也。寶祥之を以て無窮、國體之を以て尊厳、蒼生之を以て安寧、變夷戎狄之を以て率服す」と云ひ、

 道の國――日本の面白を発揚した。更に日本の傳統として、外國文化の長所を採り入れる特色に及び、「聖子神孫……人にとりて以て善を為すを樂しむ。乃ち西土唐虞三代の治教の若(ごと)き、資(と)りて以て皇猷を賛く」と述べ、中正・公明の態度・精神が日本において、最もよく發揮せられてゐることを明かにし、「神州の道を奉じ、西土(支那)の教を資り、忠孝無二・文武不岐・學問・事業其の効を殊にせず、敬神崇儒、偏黨あることなし」と云つてゐる。

 日本國體の尊厳を明白にするために、東湖の『弘道館記述義』及び會澤正志齋の『新論』は相當、力を入れてゐるが、何れかといふと、國學一派の說くところ以外に,發明した點はない。「新論』では、特に「國體」二章を設けて、詳しく論述してゐるが、その中で祭政一致の精神を力說してゐるあたりは、比較的に要を得てゐる。けれどもそこに創見とすべき點はない。 

 が、大義名分といふ上では、峻嚴といってよいほど徹をしてゐる。それは義公以来の傳統だが、幽谷に至って一層、展開し、その度合を強めた觀がある。幽谷は、十八歳の時、『正名論』を書いた位で、大義名分を厳守する上では、何人にも譲らない。

 甚だしいかな、名分の天下・國家に於て正且つ厳ならざるべからざるや。其れ猶ほ天地の易ふべからざるがごときか。天地ありて然る後君臣あり。君臣ありて然る後上下あり。上下あって然る後、禮儀措く所あり。苟も君臣の名正しからず、上下の分厳かならざれば、尊卑地を易へ、貴賤所を失ひ、強は弱を凌ぎ、衆は寡を暴(みだし)し,亡びること日なからん。
 故に孔子日く、必ずや名を正さんか。名正しからざれば言順ならす。言順ならざれは則ち事成らず。事成らざれば則ち禮樂興らず。禮樂興らざれば刑罰中(あた)らず。刑罰中らざれば、則ち民、手足を措く所なしと。(『正名論』)

 幽谷は、以上の如き信念に生きた。從って彼の感化のもとにあった東湖・正志齋も亦名分については、特に重視したのである。.この鮎、國學でも触れてゐるけれども、水戶學派の如く、髙調し、力說して、十分の熱意を示すところ迄到達してゐない。
 かの尊皇といふことも、攘夷といふことも、共に大義名分主義から、当然引き出さるべき結果にほかならない。それに華夷・内外の辨も亦以上の考へから、自ら生じてくるのである。


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