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つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

菊池寛著『維新戰争物語』筑波山天狗騒動(下)

2021-03-05 | 茨城県南 歴史と風俗

 
 
菊池寛著『維新戰争物語』
 
 
 筑波山天狗騒動(下)

    
                ・・・・・・・・ 四 ・・・・・・・ 

 江戸城に於て藩主が、武田・岡田を斥けて、朝比奈・佐藤・市川を執政に任じたと聞いて、国表の尊攘派は、黙っておりません。六月下旬に、榊原市左衛門・鳥居瀬兵衛・大久保甚五左衛門を代表として江戸に上せ、武田等の復職方を慶篤に力説させます。

 

  定見のない慶篤は、榊原等から、水戸名産の尊攘の大義を論じつけられますと、どうもこれも聞かないわけにはゆかなくなりました。併し、手を返して、武田・岡田を再起させるといふものは、體面上おもしろくありませんから、朝比奈・佐藤を通じ鈴木縫殿、岡部忠蔵を執政にあげ、市川三左衛門は戰地にいますので、これは暫くそのままといたします。

 

 免職された朝比奈・佐藤は、心中、不平満々であります。兎も角、国表にかえって後圖をはからうと、連れだって水戸へ急ぐ途中、七月十五日、武蔵の杉戸驛で、江戸に上ってくる市川三佐衛門に会ひました。市川は、下妻の戰に敗れて、一度江戸にたち帰り、再軍備を整えようとして、ここまで来たのであります。

『江戸の形勢は、まったくわが党に不利だ。貴公が出府されたら、われら同様、免職されるは瞭然である。今や、貴公の執政の職は貴い。わが党の為に自重して出府を見合わせ共々水戸に帰って、大事を謀ってもらいたい。』

 

 二人は、こう言って市川を説きふせ、市川の率いる軍兵を擁して水戸城に入ります。

 城下の書生党も、これを聞いて、歓声を上げて入城する。勢いの赴くところ、ついに彼等は、兵力を以って水戸城を占拠し、武力を以って尊攘派と争うところまで、来てしまつたのであります。  

 これで水戸領内に、性質の違った二つの叛乱部隊が出来上がりました。

 尊攘派は、極度に憤激します。慶篤も、水戸本城を横領して、兵を横たえる市川等の暴状は、許しておけません。

 八月四日、水戸の支藩、宍戸藩主の松平頼徳を目代にとし、水戸表鎮撫のために、江戸を出発しました。

 

 松平頼徳は、最初から、筑波勢に同情を持っていて、彼等の鎖港攘夷の志を遂げしめてやってもらいたいと、一橋慶喜に訴えてさえおります。それくらいですから今度の行も筑波勢を追討する意味は全然なく、水戸城に據る市川勢を誅するのが唯一の使命でありました。

 

 頼徳は、先に水戸尊攘派の代表として江戸へ来た、榊原・鳥居・大久保等の壮士數百人を率いて、水戸に向かいます。その途中で、武田正生、それに先々武田と一緒に退けられた山國共昌等も、市川征伐と聞いて、来り合しました。

 

 市川勢も、既に決心したこととて、おとなしく城を明け渡そうとはしません。城を出て、頼徳の軍の邀撃を企て、既に八月十日、水戸城付近で、兩派の先兵は、小競合を始めました。
 併し、攻めれば城に逃げ込むであろうし、水戸の藩士が自分の城の大砲を撃ちかけるのも、忍びないところでありますから、頼徳は、一歩退いて磯浜に陣をはり、間もなく、那珂湊に移りました。この時、武田・山口の一隊は、別にかれて、程近い館山に據つたのであります。

 

 市川党は、頻りに幕府に向かって、援助を乞います。幕府では行きがかり上捨ててもおけません。筑波勢の鎮圧と、市川党の援助と、兩方を曖昧にかねて、若年寄の田沼意尊を總督として、本格的に出兵することになりました。

 

 一方、筑波山の天狗党は、幕府が大軍をもよほして攻め寄せると聞き、
 『和塚の軍勢をもつて、目にあまる幕軍を引き受けるのは、よしんば筑波を守りとほしたところで、擧兵の目的に副わぬ無意味な努力である。同じ事なら、潜に山を下って横浜を襲い、攘夷の先駆をなし、國威発揚の人柱となるにしくはない。』
と、相談をまとめて、そろそろと麓の小川付近に下りてきました。

 ところが、水戸表に於て、佐幕の奸党市川勢が、水戸城を乗っ取って暴威を振るい、尊皇攘夷の同志、武田・山國・榊原・大久保等が、松平頼徳の配下に属して、これが討伐にかかっているというのです。

 田丸・藤田等は
『不埒な市川一派である。君公の居城を彼等の奸者輩に蹂躙されては、父祖の忠孝に對して申訳がない。われわれも、まづ全力をあげて、奸党の討誅につくさねばならぬ。』
ということになって、本営を平磯に移し、館山の武田勢、那珂湊の桐原勢と、連絡をつけるに至ったのであります。

 

 ここにおいて、問題は兵力を用いてほしいままに水戸城を占拠した佐幕書生党と、これが討伐に向かった激派鎮撫の尊攘党との對抗という、純然たる水戸藩内の内訌に変わってしまったのです。

        

     ・・・・・・・ 五 ・・・・・・・  

 幕府から、筑波勢追討を命ぜられた、田沼意尊は、八月二十五日、笠間に着きましたが来てみると。、もう筑波勢などというものは、存在しないのです。といつて、折角関八州の大兵を驅り催しながら、
『筑波山には一匹の天狗がいませんでした。』
などと、馬鹿みたいなことを言って、空戻りもできません。

 

 それに、佐幕派の市川勢の援助ということも、出兵の目的の一つでありましたから、意尊は、天狗党を受け入れて、これと連絡をつけた、尊攘派全体を、そのまま筑波勢と見做して、いきなり松平頼徳のいる那珂湊を包囲した者であります。

 頼徳は、極力、この度の出動の事情を説明しますが、意尊は、初めから、そんなものを聞く気がありません。九月に入っていよいよ準備が整うと共に、どしどし攻撃を加えてきます。かてて加えて、差し回された幕府の軍艦が、海上から、大砲を打ち込んで来るという。まるで無茶です。

 

 田沼意尊は、主力を以って那珂湊を囲み攻めながら、別動隊をつかわして、館山の武田・山國勢、平磯の田丸・藤田勢を攻めさせます。

 

 もとの筑波天狗党、今の平磯勢は、一を以って十にあたり、勇敢に戦いましたが、次第に窮してきたので、九月二十五日、那珂湊に移って湊勢と合っしました。これがために、那珂湊に據るものは筑波勢ということになり、市川勢鎮撫にむかった松平頼徳は、いつの間にか、天狗党の首領になつていたのです。
 
 『もう、何が何だか分からなくなってしまった。何にいたせ、幕府の軍勢から、追討をされねばならぬいわけがないし、幕府を相手に戦うべき理由もない。とにかく自分はこんな譯のわからない戰は、御免をこうむる。』
 というので、頼徳は、戰をやめてしまいます。即ち、幕府に降っていってしまいました。

 しかしながら、頼徳が去っても、那珂湊には、榊原・鳥居・大久保の一味と、筑波勢とがおります。力を尽くして防戦に努めますが、何をいうにも、けた外れの多數に無勢です。十月二十三日に至って、気力つきた榊原一派の千二百人は、幕軍に降ってしまいました。

       

 残るところは、那珂湊の筑波勢と館山の武田勢で、その數八百であります。これが合体をして耕雲斎武田正生を主将に立て、今後の方針について協議します。

『奸党の奸策にいたされて、かかる窮地に押しつめられ、今となつては、決戦の策もないのは残念だが、筑波山上に旗を揚げてより、半歳あまり、孤軍奮闘、世人に水戸の義と勇とを感銘さした以上、事は成らなくとも、吾々の使命の意義は、徹底したものと信ずる。思いおくことは更にない。よつてここに潔く討死をなし、故郷の土に還って祖先とともに永く冥しよう。』

 

 藤田小四郎は慨然として、決戦玉砕主義を唱えます。さすがに年少客気です。
『惟ふに、ここ擧る精鋭八百は、水府涵養の正義の粋である。もとより、命は惜しくはない。況して私は、既に老境にいり、最期を潔くしたいことは、諸君に倍蓰(註、「蓰」=し、五倍の数)するものがある。併し乍ら、藩國伝統の精髄を滅却しては祖宗の神霊に對し、先君の英魂い對し、謝すべき言葉もない。のみならず、此処を先途とは、どうしても思いきれない。今度の戰は、よほど不思議な戰だ。私は京都に上って、一ツ橋公に委細を陳じ、正邪忠奸の識別を請うて、その裁断に俟(ま)とうと思う。』 

 

 武田耕雲斎は悲壮な決意を固めています。論じつくしたところで、結局、武田の意見に従う以外にありませんでした。


 その頃、幕府では、松平頼徳に自刃を命じ、榊原等數十人を斬ったほか、筑波・那珂の兩勢に関係を持つ百數十人と、それぞれ死罪以下禁固の刑に処しました。理不尽な圧制で水戸慶篤が、この暴戻な内政干渉を、拱手傍観していたのも、解すべからざる態度であります。

  
 武田正生が、腹の中が煮えくり返る思いで、斉昭の子たる慶喜にすがろうとしたのも、無理はありません。ところが、その慶喜も、維新前後を通じて、実に支離滅裂な行動をした人であります。

 

        ・・・・・・・・ 六 ・・・・・・・ 
   
 武田耕雲斎に率いられる館山・筑波兩勢の連合軍八百は、囲みを衝いて突出し、中山道から北陸に向かいます。
  
『人民を殺すな。民家を掠奪するな、田畑を害するな。』
法八章の軍令も厳かに、武州・上州・信州と追撃・邀撃するものを撃退しながら、威風堂々として進みます。

『大将武田伊賀守、下着は白綸子の小袖二つ、上には黒羽二重御紋附、紫羅紗の陣羽織着用、腰に金の采配をおさめ、紺緞子の小袴、下には裏甲冑着用いたし、金覆輪の鞍をおき、二重革の泥障(あふり)、金象眼の鎧、まことに華美なる出立なり。乗馬の次、なめし革青漆に金の紋つけたる具足櫃を背負わせ、。之を付属の者にきけば、武田の什器にして、七曜の星の軍配に、法性の兜、金の武田菱の紋つきたる緋縅(ひおどし)の鎧という。先祖甲斐の信玄、戦場往来の節、所用いたせし天下の名器の由、馬印は、猖々緋(しょうじょうひ)の三本蕉、縁は青竹羅紗、金の武田菱、猖々緋二段刷連なり。』(『嘉明年代記』)

という、颯爽たる雄姿でありました。

 

 沿道の諸藩もはじめは幕命を奉じて、之に戰を挑んできましたが、江戸を遠ざかるに従って、其の軍律厳しい堂々たる態度に敬意を表して、強いて進行を妨げるものもなくなりました。よつて飛騨から越前に入り、十二月九日に、雪中行進して今宿に着き、十一日に新保に達します。

 

 ところが、ここまで来て、又もや心外千萬な局面に、逢着したのであります。元来、彼等が京都を志したのは、水戸の尊攘派に理解と同情をもつ筈の一橋慶喜に、その生家水戸家及び水戸藩の乱脈ぶりを具陳して、改革を嘆願するためであつて、朝廷はもとより、どこに向かっても、敵對する意志はなかつたのであります。

 

 それにも拘わらず、武田等が京都に近づくのを知って、慶喜自身、むきになって討伐に向就て来たのです。一橋・会津・桑名・加賀・若狭・彦根・筑前・小田原・大溝など諸藩の大兵をいい気持ちに指揮して、江州大津まで出陣したというのです。

 

 武田は、十二日に、慶喜に陳情書を上(たてまつ)り、市川勢と開戦をした理由を述べ、烈公遺訓の尊皇攘夷を実践する以外に、目的がないことを辨解しましたが、慶喜はこれに、一顧も与えません。そして更に、陣を海津に進め、実際に追撃を開始いたしました。

 

 建武の昔、新田左中将義貞の行路難も、かくこそありしかと思うばかり、越前山中の積雪は七八尺に達し、進退自由を失った上に、糧食は欠乏する、馬糧は無くなる、畳を切つて馬にやつたその馬を、人は斬って人が食う有様です。しかも、前方からは、加賀・大垣の大軍、後方からは、越前・彦根の大兵が、雪を蹴って迫ってきます。

 

 神謀奇策の武田耕雲斎も、今は絶対絶命、策つき力つきて、十二月二十日、加賀藩の軍門に降ったのであります。

 慶喜は大手柄でもした気で、耕雲斎以下八百二十三人を、加賀藩に命じて敦賀に禁固させました。

 年が明けて、慶応元年正月となりますと、筑波追討使の若年寄田沼意尊が、これが処分のために上京してまいります。もとより、情状など酌む雅量はありません。
 二月四日から同二十三日まで、前後二十日に亘って、武田父子・藤田・田丸・山國以下三百六十人の首を斬り捨てました。時に武田耕雲斎六十三歳、藤田小四郎二十四歳であります。
 残る四百五十人は流罪・追放に処し、十人の少年は僧にします。

  
    松原神社  

 今の、敦賀の松原神社は、実に、これら水戸尊攘派全滅の時に建てられたものであります。

 思えば、一年以前、筑波の擧兵以来、思いがけない水戸藩の内訌が生じ、慶篤・慶喜等の無気力と無分別とから、気骨ある水戸藩士は、殆ど死に絶えてしまいました。

    

 水戸藩では、嘗ての安政の地震に、烈公の両腕と言われた藤田東湖・戸田蓬軒を失い、密勅問題では、安島帯刀・茅野伊豫之介・鵜飼吉左エ門父子の人傑を失い、桜田事変では、高橋多一郎・金子孫次郎・關鐡之介等の壮士をなくしております。

 そして、最後に、筑波騒動によつて、武田正生以下、榊原・鳥居・大久保・藤田・山國・田丸等大量に処刑されて、さすがの尊攘 論の淵源たる水戸藩も、すっかり人物の種切れになってしまったのであります。

 これがため今まで時代の先頭をきって進んで来た水藩は、途中落伍の形になつてしまいました。

 残るところは、碌々たる倫安俗論の徒で、覇気ある雄藩から相手にされず、間もなく巡り来った、皇政維新の大芝居にも、まつたくつんぼ桟敷に押しやられて、枢要の局から締め出しを食っております。

 烈公在世の頃を思うと、感慨無量と言わねばなりません。

              (終)


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