月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

233.バンコク、敗れ去った者の鎮魂廟(月刊「祭」2019.11月17号)

2019-11-22 15:15:41 | コリア、外国
●バンコク・チャオプラヤー川沿いの中国式の廟
 前号に書きましたが、タイには華人が昔から入ってきていて、中華文化の影響が色濃く残っています。そして、その中華文化を用いて、とある鎮魂が行われていると管理人が「妄想」したので、報告します。
 その廟はバンコクのチャオプラヤ東北岸、ワット・ポーの西側、そして川の向こう側には、ワット・アルンにありました。ワット・アルンとワット・ポー、二つの寺院に囲まれた、バンコクでの鎮魂廟?について考えます。


↑チャオプラヤ川東北側のワット・ポー

↑チャオプラヤ川西南側のワット・アルン


●昭帝爺廟
 その廟は下の地図の位置にあります。





↑中国式の廟と言えます。昭帝爺廟!?


↑狛犬もいます。阿吽という違いではなく、玉を咥えているかいないかの違いです。

●「昭帝」の生涯とその後、そして「昭帝爺廟」の立地
 では御本尊を見てみましょう。

↑御本尊は、中華風というよりタイ風に見えます。そして、武将姿になっているのが分かります。この武将は「昭帝爺」ということになります。帝の文字があるということは、王位についたことのある方だと思われます。タイの王族は清国に対して漢字で名前を名乗ることもしていました。
 そこで、管理人の御用達サイトで調べると鄭となのっていた王様を見つけました。タークシン王です。つまり、上の御本尊はタークシン王ということになります。
 さらに、上記御用達サイトで彼の人生とその後をまとめてみましょう。また、この動画も参考にしました。

 タークシン王は華僑で、タイ族の官吏の養子となったことがきっかけで、国家の要職を歴任することになりました。アユタヤの知事に赴任しようとした時に、ビルマとの戦争に参戦。大砲を当時の王の許可なく発砲で左遷。その後華人を集め挙兵し、チャオプラヤ川をのぼり再びアユタヤへ戻るが、もうアユタヤは荒廃していました。そこで、現在のバンコクの対岸あたりにトンブリー王朝を興し、アユタヤを奪還などを経てタイを統一、駐留していたビルマ兵も追い返します。
 タークシンは、ワット・アルンの修復など仏教を保護しました。さらに、「ラーマキエン」と呼ばれる民族的叙事詩の編纂などを経て、タークシンは一躍英雄となりました。
 しかし、タイ族でもなく王朝の血を引いておらず、王の血筋の者たちに快く思われていなかったタークシンは心を病み始めたと言います。それは、自らを拝むように僧に強制し、従わないものを処刑するなどの暴政に転じました。
 この暴政を見かねたのがチャオプラヤー・マハーカサット・スック・後のラーマ1世です。彼は、タイ王室の血を引き、タークシンの片腕として各地を転戦してきました。彼が、トンブリーにもどり、タークシンを処刑したそうです。その後、チャオプラヤー・マハーカサット・スックはトンブリーの対岸のバンコクに王宮をつくり、アユタヤ王朝の権威をつぐチャクリー王朝を開きました。その王宮の横に作った寺院が、ワット・ポーです。この王朝は現在に引き継がれています。

 結果、チャオプラヤ川の南西側にタークシンのトンブリー朝・ワット・アルン、北東側にラーマ1世のチャクリー朝・ワット・ポーが作られました。そして、件の「昭帝爺廟」というターク・シンを祀る廟は北東側の川岸につくられています。そして、このタークシン王を拝むと、そうなると背後の南西のアルンワットやトンブリーを拝むことになります。
 もちろん、立地上の都合でそうなっているのですが、このような土地を選んだのも決して偶然ではないように思えてきます。

●タークシンの処刑とラーマ1世の中国名
 このサイトによると、タークシンは後のラーマ1世から、首をベルベッドの袋に入れられ、白檀の棒で首を折るという方法で処刑されたそうです。この方法は、王侯のみに用いられるものとされているそうです。
 つまり、ラーマ1世は、タークシンは王侯の一人として認めていたともいえるようです。さらに、Wikipディアによると、ラーマ1世は清国に対して名乗る中国名として、「鄭」を引き継ぎ、鄭華と名乗っていたそうです。
 これらのことからも、新しいチャクリー朝は、トンブリー朝のタークシンの権威を認め、引き継ぐ形で、王朝を運営したことが伺えます。その伝統は今も受け継がれ、タークシンはかつての20バーツ紙幣、現在の100バーツ紙幣の肖像となっています。

●昭帝爺廟の八仙
 現在のタイの王朝でもあるチャックリー朝も、タークシン王のトンブリー朝を蔑ろにはしていません。そして、それを表す絵が昭帝爺廟に描かれていると管理人は考えます。それが下の二つの絵です。


↑廟内側の両側面に描かれています。



↑御本尊であるタークシン王像の後ろにも八仙

 これらの絵は八仙と呼ばれる仙人を8人集めた絵図です。日本の七福神にも共通するめでたい絵のモチーフとなっています。しかし、御本尊の後と両側面に同一のモチーフを扱うのは、このデザインに余程の思い入れがあることになります。
 この八仙人が活躍する小説「東遊記」が明代に成立したようです。おおよその内容はこちらのサイトを見ると分かります。詳しくは、この書籍だと日本語訳で分かりやすそうです。
 上のサイトを閲覧したところ、ざーーっくりとした内容は、八仙人たちは東の龍王と争いを起こし、観音菩薩と和解を結ぶというお話です。つまり、西と東の和解のお話が、八仙人の活躍する東遊記のテーマになります。
 それは、チャオプラヤ川西のトンブリー朝のタークシンとチャオプラヤ川東のチャクリー朝のラーマ1世の和解を祈って掲げられた絵画なのかもしれません。
 敗れ去った者への思いやり。これはかつてあった日本の御霊信仰にも似ているように思います。

●編集後記
 今号などのタイ関係記事は、Tし君の結婚を祝いにタイに渡ったことがきっかけです。空き時間にともにTし君の結婚を祝うために日本からやってきたTり君とワット・ポー側からワット•アルンに渡る道を探しているときに見つけたのが昭帝爺廟です。暑い中お付き合いしてくれたTり君に感謝!

 
 



 

 

 
 





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