月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

<月刊「祭」第30号 2014.7月>京都祇園祭凱旋船鉾復活勝手にコラボ・神功皇后三韓出征物特集

2014-07-13 22:02:52 | 屋台・だんじり・神輿-装飾の題材-

かなり遅くなっての七月号です。 遅れた理由は、この記事からお察しくださればと思います^_^; 

 今年、京都祇園祭は、大きな節目を迎えます。元来二度にわたり行われていましたが、近代化による交通渋滞などの事情により一度にまとめられていた山鉾巡行。今年からお神輿のお渡り・先の祭、お戻り・後の祭のそれぞれの日に二度行われることになりました。そして、幕末の禁門の変で焼失して以来休み鉾となっていた後の祭りの大船鉾(凱旋船鉾)が、今年から復活しました。
 先の祭と後の祭に参加する山鉾はそれぞれ異なっていますが、共通する点があります。それが、後を行く船型の鉾が行くことです。そして、いずれも神功皇后の新羅遠征を表しています。先の祭の船鉾が神功皇后が新羅に攻めて行く時の船で、後の祭の凱旋船鉾が、新羅から戻る時の船です。 船に乗る神様達を見ると、神功皇后、竹之内宿禰、龍神(一説によると安曇の磯良)、となっています。

 
↑修復中の大船鉾

 
↑現行の船鉾(前祭)


↑江戸時代の船鉾絵図(前祭)、模写・管理人

 では、他の地域の神功皇后遠征物はどのような物があるのでしょうか。 ここでは、日本最古の書物と言われる「古事記」(倉野憲司校注、岩波書店 1963)を中心にその場面を見ていくことにします。


1彫刻・高覧掛けで好まれる? 神功皇后の御懐妊の場面 

↑西宮市下大市八幡神社下大市太鼓台欄間彫刻。
 神功皇后御懐妊

  西宮市下大市八幡神社下大市太鼓台の欄間彫刻には神功皇后ご懐妊の場面が狭間彫刻の場面として描かれています。古事記には
「故、その政(まつりごと・ここでは遠征中)未だ竟へ(おえ)ざりし間に、その懐妊(はら)みたまふが産(あ)れまさむとしき。すなわち御腹を鎮めたまはむとして、石を取りて御裳の腰に纏(ま)かして、筑紫の国に渡りまして、その御子は生(あ)れましつ。故、その御子の生れましし地(ところ)を號(なづ)けて宇美といふ。」
 と、遠征中は生まれないように石を腰に巻き、筑紫に帰ってきたところで応神天皇を生んだようです。
 狭間・欄間(以下・欄間)彫刻ではどちらかといえば、後述する遠征時のものよりも、比較的帰還後のものが好まれているのでしょうか。確かに、欄間彫刻では、後述する遠征時の図柄は困難なのかもしれません。
 同様に一続きの刺繍ができない高覧掛けでも、遠征時の図柄は難しいのか、帰還後の図柄が好まれているようです。
 
↑姫路市松原八幡神社妻鹿屋台旧高覧掛け 応神天皇を抱く神功皇后


2神宮皇后三韓征伐物の水引き刺繍

●海の者達の助け

 まず、はじめに自分が大きな誤解をしていたことを告げねばなりません。というのは、播州や大阪のだんじりの「神功皇后三韓征伐物」というのは、特に地元に根ざした伝説がない限り、三韓軍と対峙している場面とばっかり思っていたからです。
  ですが、古事記によると、
「故、その御船の波瀾(なみ)、新羅の国に押し騰り(あがり)て、既に国半(くになから)に到りき。国王(こにきし)、畏惶(かしこ)みて奏言(まを)しけらく、『今より以後(のち)は、天皇の命(すめらのみこと)の隨に(まにまに)、御馬甘ひ(みまかひ・馬を飼育する部民)として-中略-仕へ奉らむ。』」
と神功皇后の船を乗せた波が国の半分まで覆うのを見た新羅王は戦わず降伏したとされており、両軍が合間見えることはありませんでした。
 では、神功皇后一行と対峙している、龍とその一行は何を表すのでしょうか。よく見ると、お魚さん達がいます。「古事記」で新羅に着く前の場面を見てみましょう。
「軍(いくさ)を整へ船雙めて(なめて)度り(わたり)幸で(いで)ましし時、海原の魚、大き小さきを問はず、悉に御船を負ひて渡りき。ここに順風(おひかぜ)大(いた)く起こりて、御船浪の従にゆきき。」
お魚さん達が、協力してくれたことが分かります。そのお魚さん達を統率するのが龍宮の主であることから、このような図柄が生まれたのでしょう。

↑大阪市姫島神社の旧だんじり幕 


↑大阪市姫島神社の旧だんじり幕の海の者



↑神戸市本住吉神社西区旧だんじり(神戸市立東灘図書館内 住吉だんじり史料館の展示)

↑神戸市本住吉神社西区旧だんじり幕の海のもの

●龍王より干満二珠を得る
 播州というか、三木でも、この三韓征伐や応神天皇を題材にしている屋台があります。
 実は、私が助っ人として担がせて頂いている岩壺神社滑原屋台、御坂神社東這田、2台の屋台がそうだったと思っていたのですが、実は四面ともうまく撮れているものがありませんでした(T T; 
 そして、東這田は、三韓征伐物じゃないみたいです(T T;。 
 三木市大歳神社(大宮八幡宮には祭の2日目に宮入)の平田屋台も、三韓征伐の水引き幕をつけています。上記のだんじり2作品と違い、龍宮側は龍王のみになっています。これは、平田屋台が神崎郡より購入してきたものということが理由になっていると思われます。というのは、神崎郡では水引き幕をたくしあげて使用しており、刺繍もそれを見越して作られていたため、人物を縫うスペースが限られていたことによると思われます。


↑三木市大歳神社(大宮八幡宮には祭の2日目に宮入)の平田屋台
 三韓征伐の水引幕のうち、龍神

 ところで、「古事記」「日本書紀」には海の者の助けは記述されていますが、龍宮を意味する記述をみつけることはできません。にも関わらず、上にあげた三韓征伐ものでは、いずれも龍宮があり、龍王らしき男が、珠を今から神功皇后に渡そうとしている場面が共通しています。この珠は何なのでしょうか(ちなみに日本書紀では、神功皇后が遠征前に豊浦津で拾ったとされています。)。
 そこで、本来なら鎌倉時代成立の「八幡愚童訓」あたりを参考にしたいのですが、残念ながら手元に資料がありません(後に確認したところ、下の斜線部分は大よそ共通していました)。ので、嘉永元年(1848)石清水祠臣清原敬直が記した「男山考古録」(昭和35年『石清水八幡宮史料叢書一』岩清水八幡宮社務所発行に所収)を参考にどのような伝説が残っているのかを見ていきます。この書物は、石清水八幡宮境内の祭神などにまつわる説話を、作者が集めて研究したものと言えます。
   
 かっこよく文を引用したいところですが、煩雑なのでざっくりいうことにします。
 実は、この珠は干満二珠と言われ、伝承などによると満潮にしたい時用と干潮にしたい時用の二つの珠と言われているそうです。
 この珠を住吉明神が安曇磯良を使いに出して、龍神に珠を請い手に入れた
等の説話が残っているとか。

 ですが、船鉾、各屋台、だんじりの水引きでは、龍神は珠を手渡ししています。
 安曇磯良と龍神を同体とする考えによるものなのか、龍神の手渡しの方がデザイン上都合が好いのかはわかりません。


船鉾の龍神・安曇磯良
 絵では珠は一つだが、現行の船鉾の珠は二つに分かれている。


↑大阪市姫島神社旧だんじり幕 すでに龍神より珠を得た状態を描いている!?
 もしかしたら、龍宮側にも珠があと一つ残っている・・・かも??


↑神戸市本住吉神社西区旧だんじり幕。珠は一つ。
 
異色? 三韓より帰還後の神功皇后
 下の写真は現行の神戸市本住吉神社・西区だんじの模型の幕ですが、実物も同じ図柄の物をつけています。少し異色の場面と言えそうです。上の本住吉神社西区旧だんじり幕が、遠征時に仁愚皇后が珠を受け取る場面であるのに対して、西区の現行の幕は、帰還した皇后がその珠を住吉の神に納める場面だそうです(本住吉だんじり資料館の解説板より)。
 「日本書紀」「古事記」はもちろん、「八幡愚童訓」にはこの話は残っていませんでした。が、「男山考古録」には、これを想起させる記述が残っていました。

「住吉舊記云、尊入海宮得潮涸珠、潮涸珠、而後萬事如意、故號如意明神、俗謬稱子卯神、或稱子亥神、此本住吉境地也」

と、本住吉の地で珠を得たという話も残っているそうです。本住吉神社の伝説に、神功皇后が住吉の神に珠を帰還後捧げたなどの説話が残っているのかもしれません。


↑神戸市本住吉神社西区だんじり(現行)模型用の水引幕
(神戸市立東灘図書館内 住吉だんじり史料館の展示)
実物を縮小した図柄のため、実物も同じ図柄を使用している。


↑上の写真の神功皇后と住吉大神を拡大。神功皇后が住吉大神に珠を渡そうとしているのがわかる。

まとめ
1 だんじり太鼓台での水引幕では遠征時、特に、龍神から干満二珠をもらう場面が好まれる。
2 欄間彫刻や高覧掛けでは、懐妊の場面など横長になりすぎない図柄が好まれる。
3 多くの説話では安曇磯良が龍神に珠を請い、珠を得るという筋書きであるが、水引き幕では龍神からの手渡しがほとんど。
4 船鉾では珠が2つになっているが、水引き幕では一つに省略されているものもある。
5 だんじりの水引き幕では海のものがたくさん描かれるが、平田屋台では龍神のみと簡略化されている。平田屋台の購入元では幕をたくし上げて使われており、製作もそれを見越してなされていた。よって、刺繍スペースが十分に取れなかったことによるものと思われる。

*下大市八幡神社の神職さまの御厚意を賜り、現在休止している太鼓台を見学させていただきました。
 この太鼓台の欄間彫刻は、太鼓台を神戸から購入した時に、新たに作られたものと思われます。
 写真の神功皇后御懐妊の場面を正面に据え、他三面は全て源平物でした。これは、下大市八幡神社が源氏の氏神である石清水八幡を勧請したことに端を発する場面設定だと考えられます。

↑西宮市下大市八幡神社下大市太鼓台

編集後記
 今年から京都祇園祭山鉾巡行は、前後の祭にわかれました。この大きな大きな祭を支えているのは、多大な出資をされている方や、伝統工芸の職人さんだけではありません。演奏や組み立てを担う技術者の存在があってこそ、祭は続きます。このような技術を軽視した場合、祭の質は、容易に落ちて行きます。 その技術は、単純なところでは、縄を丈夫に縛る技術であったり、曳き手や担ぎ手の調子を狂わせないリズム感であったりします。
 もちろん、祭だけで地域が成り立つわけでなく、背に腹変えられぬ状況で、祭文化が衰退よを余儀無くするのは仕方ないことかもしれません。しかし、祭のことを大切に思い金を惜しむことがなくとも、これらの技術の価値に目をむけないと、その投資は必ず焦げ付きます。このような祭りをする人の技術の価値を理解しないでいると、祭の衰退はもちろんのこと、それに伴い地域も衰退していくでしょう。


 

 

<月刊「祭」第29号 2014.6月>先代野堂北だんじりの海の幸

2014-05-13 19:12:10 | 屋台・だんじり・神輿-装飾の題材-

先代・大阪市杭全神社野堂北組だんじり(現・神戸市灘区春日神社都賀だんじり)


●だんじりに刻まれた海の幸
 だんじりの土露幕部分を見ると、随分おいしそうな海の幸が彫られています。
 この海の幸の彫刻は、現役の野堂北にも受け継がれています。
 鯛、亀や海を渡る兎など、台木部分には海をテーマにしたものは多いようなのですが、このような鯛や蛸など数種類の海の生き物が彫られるのは数多くあるとは言えません。
 では、なぜ野堂北がこのような数種類の海の幸の彫刻に拘るのでしょうか。その理由は、野堂北組だんじりが誕生した背景にあると思われます。杭全神社の氏子地域では平野本郷・散郷に別れ、七名家と呼ばれる坂上広野麿の子孫が分家した家が、本郷の泥堂、西脇、流、市、背戸口、馬場、そして野堂の七町をそれぞれ支配し、だんじりを出すようになったそうです*2。そのうち野堂は東、南、北に分かれていきました*2。だんじりの製作年代を考えると*、その時期は幕末から明治時代でしょうか。野堂北だんじりも明治時代はじめに作られたそうです。
 野堂北、野堂東、野堂南は野堂組として一つのだんじりを持っていたことは先述しました。この野堂のうち、野堂北にあたったのが、「魚の棚」と呼ばれていた地域だそうです*。 野堂北が魚の棚と呼ばれた地域だったので、海の幸にこだわわった珍しい土露幕彫刻が生まれたといえそうです。

鯛と蛸の彫刻。他にも様々な海の幸がありました。



この二枚は現在の大阪市杭全神社野堂北だんじり




*いわねえ氏ウェブページ:「屋台だんじり悉皆調査http://www5a.biglobe.ne.jp/~iwanee/」本記事において、数字を伴わない*はこのウェブページを参考にしたものです。
 全国のだんじり、屋台、太鼓台、山車、神輿の祭などを、本当にこと細かく調べてあります。
 書籍化はされていませんが、この作業は、屋台、太鼓台、山車、神輿など祭礼研究の金字塔と言えるでしょう。
 
*2 濱田時実「平野郷夏まつりの現状と課題」『京都民俗第30.31号』(京都民俗学会)2013年11月
 大阪市平野区杭全(くまた)神社の夏祭を、歴史的に概観し、現在の様子を調査・分析・考察しています。祭の地域外の人の協力をいかに仰ぐかなどを考えるヒントになるかもしれません。各地で祭をしている人たちに読んでほしい論文です。

編集後記
 予定していた、明石の屋台シンポジウムの振り返りと、北条節句祭の龍王舞考察の続きをこちらの都合で変更したことをお詫び申し上げます。今回の記事は、誘われて同行した神戸市灘区のだんじりパレード(5月11日・毎年5月の第二日曜日?)で都賀だんじりを見ている時に、関係者の方が気さくにお声をかけてくださったことがきっかけとなりました。その時に大阪から震災(阪神大震災)の前年(1994年)に購入したものであることを知ったことが、面白い発見のきっかけになりました。改めて御礼申し上げます。

 2015.5.17追記
 某氏より間違いのご指摘を賜り、記事を大部分改変しました。それは、十二支彫刻をネズミが足りない十一支しかないと勘違いして書いた記事でした。そのうちの子=北は氏子自身ではないかという曲学阿世の代名詞のような記事を掲載しておりました。だんじり関係者の方々、読者の皆様に深くお詫び申し上げます。

 


<月刊「祭」第26号 2014.3月> なぜ九尾の狐!? -淡路の人形浄瑠璃とだんじり文化-

2014-02-12 18:21:24 | 屋台・だんじり・神輿-装飾の題材-

 下の写真は、以前、日本と韓国の九尾の狐伝説を比較した時に掲載したものです。 
 淡路島のだんじりに使われていた幕で、九尾の狐をテーマにとりあげています。
 ですが、だんじりなどで用いられる浮き物刺繍においては、龍や虎などの勇ましい動物を用いられることが多く、「九尾の狐」をモチーフにするのは珍しいものです。
 では、なぜこのような珍しい図柄が淡路で用いられたのでしょうか。
 その答えをさぐるべく、淡路島のだんじり文化と、それに密接に結びついている人形浄瑠璃文化を辿っていきます。
 
 

(淡路市立北淡歴史民俗資料館所蔵の写真、斗之内浜だんじり幕)

●淡路島の人形浄瑠璃と大阪の文楽
淡路人形浄瑠璃の誕生と伝播
 「淡路島の人形浄瑠璃と大坂の文楽」は特に指定がない場合、洲本市の淡路文化博物館にあった展示の内容を参考にして書いていきます。
 引田家の書冊によると、淡路島の人形浄瑠璃は、西宮の人形遣い百太夫が三原郡三条村に伝えたと書かれているそうです。百太夫と三原郡三条村の引田家の娘との間の子・源之丞が百姓たちと人形座を作り、元亀元年(1570)京都御所から綸旨を賜ります。
 江戸時代になると阿波藩主の篤い保護を受け、18世紀前半には、人形の三人遣いと義太夫節を取り入れ、浄瑠璃、三味線、人形の三位一体の芸術として大阪で完成します。(「阿波藩主の篤い保護を受け、大阪で完成」という意味は、自分では分からないのですが、)この影響はすぐに淡路に及び、百姓武士商人などを問わず親しまれる芸能として淡路に定着していきます。
 人形座は40をこえ、その多くが阿波藩から「道薫坊廻百姓(どうくんぼうまわりひゃくしょう *道薫坊はデコとも読み、淡路では人形の頭部も意味します。その人形の頭部を廻して芸をする百姓という意味といえるでしょう)」という淡路藩特有の身分を与えられます。このような人形座は、島内だけでなく日本全国を巡業し、全国に淡路人形の影響をひろめます。

淡路人形座のパンフレット

大阪への影響
 淡路の津名藩仮屋浦出身の文楽軒が19世紀前半に大坂で人形浄瑠璃の座を開設し、後の文楽座になりました。
 後の話になりますが、由良(現在の洲本市由良)出身の人形師である由良亀は、大坂に移住し文楽の人形を手がけます。この初代由良亀、聞くところによると、人形浄瑠璃と文楽の複雑な動きをする人形作りのノウハウを活かし、初代の大坂食い倒れ人形を製作したそうです(管理人が由良にて聞き取り)。
 最後に人形浄瑠璃と文楽の特徴を挙げます。人形浄瑠璃の方が、動きが激しいものが好まれ、その分、迫力が出やすい人形の造りになっているのでしょう。
 
 
由良の町並み 

●大阪から伝わったと思われる淡路島のだんじり
 ここでいうだんじりは曳き回すものではなく、いわゆる担ぐ、もしくは担いでいた布団太鼓とよばれるものとします。
 大坂と淡路島のだんじりの流通をざっくり言うと、大坂から淡路島に五段屋根の布団太鼓が伝わってきました。ここまでは、大坂に残る布団太鼓の文献が古いことからの管理人の推測です。そして、淡路でも太鼓台文化が花開き、明治時代になると縫い師や大工などの業者が力をつけて、大坂でも商売をするようになり、大坂の布団太鼓の文化に影響を与えました*。
 大坂方面から淡路に海路を通じて伝わり、淡路で熟成された文化が、また大坂に海路を通じて伝わり影響を与えるという意味では、人形浄瑠璃と同じ傾向といえるかもしれません。
 写真(下左淡路、下右大坂)で比較してみると、ぱっと目が行くのは、五段の布団屋根や、シンプルな布団締めです。細かい構造の違いは様々あるそうですが、それでも、大坂と淡路の布団だんじりは似ているといえるでしょう。
 また、管理人が見る限りでは、大坂や貝塚、堺などの多くでは梯子型の棒組みになっており、それは、淡路島の中部である生穂や洲本でもこの棒組みになっています。これもまた大坂との共通点といえるでしょう。
 ただ、人の数が多く、より長い距離を担ぎたい大坂では、身長の異なるものが直立して担げるように棒の高さを変えたり、棒を細くして軽量化するなど、担ぐための工夫がみられます。

*某学生さんからいただいた卒業論文の記述を参考にしました。ちなみに、この卒業論文は、屋台・太鼓台研究史の金字塔と管理人は位置づける非常にすばらしいものです。ですが、管理人がその見事な卒業論文を適切に要約できていなかったり、誤読していたりする場合もあるので、その辺のところはご容赦ください^^;
 
洲本市 由良湊八幡神社 紺屋町だんじり           大阪府貝塚市 感田神社 中北太鼓台

●人形浄瑠璃の影響を受けた淡路島のだんじり文化
  このように、人形浄瑠璃もだんじりも、淡路が全国に誇る文化となりました。そして、人形浄瑠璃とだんじりの文化は淡路島の中でお互いに影響しあっているようです。ここでは、主に、人形浄瑠璃の影響を受けただんじり文化を見ていきます。 

だんじり唄
 人形浄瑠璃の影響をうけただんじり文化として真っ先に思い浮かぶのがだんじり唄です。人形浄瑠璃に使われる台本を、人形を使わずに演じます。その時にだんじりの太鼓は伴奏用として用いられます。
 
だんじりの太鼓を伴奏にだんじり唄を奉納します。 南淡路市阿万 亀岡八幡神社


浮き物刺繍と九尾の狐
 淡路島のだんじり文化の特色として、その刺繍文化が挙げられます。現在も活躍する梶内だんじりをはじめ、大歳、小泉などの業者が活躍しました*。浮き物刺繍ともいえるような、刺繍の内部に綿など詰め物をして、立体感を表す表現方法を多く用いられています。この浮き物刺繍は、だんじりに用いられる前から淡路島ではさかんだったのかもしれません。
 というのは、淡路文化博物館では、だんじり刺繍を思わせる、見事な浮き物刺繍で孔雀?別の鳥?を、江戸時代の人形浄瑠璃用の人形用衣装が縫われていました。1997年頃に淡路島南部の図書館でも、浮き物刺繍で龍が縫われていた、同じく浄瑠璃用の衣装が展示されていました。このような浄瑠璃用の衣装が、淡路のだんじり刺繍文化の発展を促したという推測は無視できるものではないでしょう。
 さて、このように、人形浄瑠璃の影響をうけた淡路のだんじり文化やだんじり刺繍文化の中で、上記の九尾の狐の刺繍は製作されました。実は、人形浄瑠璃の最も人気の演目が、「玉藻前旭袂(たまものまえあさひたもと)」と呼ばれるもので、各時代の傾国の悪女の招待が実は九尾の狐だというもので、この人気演目の九尾の狐を淡路で取り上げられるのは、極自然なことだったと思われます。 
 この「玉藻前」の人気の秘密は人形のからくりによるものと思われます。管理人の稚拙な絵しか掲載できないのが申し訳ないのですが、図の姐妃面は、紐を引くと、口が裂け開きそこから牙が見え、角が生え、目は赤くなるという恐ろしい仕掛けになっています。こうした人形師の匠の技が、だんじり刺繍にも新しい風をふきこんだのでしょう。


姐妃面の仕掛け(管理人が淡路文化博物館でとったメモより)

*上記卒業論文によると、大歳はだんじり製作の仲介業者だそうですが、大歳などの銘が入った刺繍が名品とされることが多いのと、文字数と文章力の都合上、刺繍業者として取り上げました。


●編集後記
ブログと論文
 実はこの号で月刊「祭」を二年間続けたことになります。自分の中では、月刊「祭」を毎月発行し、京都民俗学会での研究発表を3年間続けました。しかし振り返ってみると、書籍化された論文等は一本もありません(T T;  じゃ、このブログをやめて論文の一本でも書けばいいじゃないかという声も聞こえそうですが、ブログをやめりゃかけるというものでもなさそうです。
 作りこまれた論文が、お笑い芸人でいうところの作りこまれた舞台上演のコントだとすると、このブログは路上で勝手にやる大喜利のようなものかもしれません。路上の大喜利は反応を一切気にしないのであれば、その場の思いつきで無責任にできますが、舞台上演のコントはそうはいきません。ここでは、路上の大喜利のよさを出せればと思います。

三木城は攻略ではなく、籠城するもの
 黒田官兵衛のドラマがNHKではじまりました。三木人の管理人としては、やはり注目するところは、信長、秀吉、官兵衛ではなく、三木の英雄・別所長治公です。三木で教えられるのは、長治公が自らの命と引き換えに、民衆や臣下の助命を嘆願したということです。最近は秀吉はその嘆願を聞き入れなかったという説も出ているのですが、いずれにせよ、長治公の心意気は偽りではなかったのではないかと考えられます。
 官兵衛の特集などでは、三木城「攻め」と書かれることが多いのですが、秀吉側に立った記事には魅力は感じません。三木城は「攻める」ものではなく、長治公と共に「籠城」するもの。国内の歴史認識にもズレはあるようです。


<月刊「祭」2012.12月 第9号>全てはこの瞬間(とき)のために -差し上げたときに方位が一致する屋台-

2012-12-15 17:25:25 | 屋台・だんじり・神輿-装飾の題材-

今回は2011年12月2日に行われた第31回 京都民俗学会年次大会で発表した内容の中の一部に焦点をあてて、より詳しく紹介します。

●南面する太鼓台・だんじり・屋台

 太鼓台・だんじり・山車などは、天子南面するという道教の思想に従って、前面を南として作られます。例えば、四神ならば南を表す朱雀が前、玄武が後ろ、白虎が右、青龍が左というふうになります。十二支だと、南の午が前、北をあらわす子は後、酉が右、卯が左となります。その決まりに即して、四神や十二支の刺繍や彫り物が配置される太鼓台やだんじりは多数見られます。

また、高欄掛の退治物でも、朱雀に通じる鷲退治は前、白虎に通じる虎退治などが左、青龍に通じる八俣大蛇退治などは左となります。もしくは、鷲を酉として右、八俣大蛇を巳として南をあらわす前、虎を寅として右というようにしているところもあるかもしれません。

  

 

前方に朱雀に通じる鷲退治の高欄掛けを用いる。両側面は白虎に通じる虎退治、青龍に通じる八俣大蛇退治を用いる。

 いずれにせよ、方角を現すモチーフが屋台やだんじり、太鼓台に用いられる場合、南が前、北が後ろという大原則に即して作られるものがほとんどです。しかし、その原則ではなく、自分たちの屋台やだんじりが宮入して、神前に奉納したときに方角が一致するように作られている太鼓台がいくつか見られました。そのこだわりのしかけを紹介していきます。

 

 

●大阪府貝塚市感田神社堀之町太鼓台

 感田神社の太鼓台は、楼門を潜ることができないので、境内には入ることはできません。ですので、大通りに面した東門から神社内に太鼓台をむけ、神社側、つまり前面をさげる=頭を垂れることで拝礼します。
 南西を向く楼門に向かって拝礼したときに、布団締め金具の十二支の方位が合うように飾り金具がつけられています。 

(下図訂正・ 誤「東門」 正「西門」

 

                                                                                 左側の中心に戌(犬)が配置される布団締め金具

 西門前で拝礼する堀の町太鼓

 

●奈良県柏木天満宮太鼓台

 これは、祭礼自体は未確認ですが、南面する神社は太鼓台が通るスペースは到底ありません。また、神社に面している通りは東西の通りで、太鼓台の正面をむけることはできません。それにあわせるように、側面に北と南を現す玄武・朱雀が配置されています。そして前後面に青龍、白虎が配置されていますが、どちらが前面かが写真ではわからなくなってしまいました・・・ 

 いずれにせよ、側面をむけて差し上げたときに、四神の方角が一致するように作られたものと思われます。

   

柏木天満宮太鼓台と側面の北を表す玄武の彫刻

南面する柏木天満宮 神社境内に太鼓台は入れず。

前の通りは東西の通りで太鼓台の側面をむけて神社に参ることになる。

 

●榛原市墨坂神社楽太鼓台
 左に玄武(写真)、右に朱雀、前面を青龍、後を白虎の彫刻を配し、北面する神社本殿に差し上げます(図)。
 南側の神社本殿(写真向こう側)に対し差し上げる楽太鼓台。写真の手前側は北側になり、それにあわせて玄武の彫刻が配されています。

  

北面する本殿に向かって差し上げる楽太鼓台と、そのときに北側にくる玄武の彫刻