月刊「祭」

旧・言葉の装い
同行二人

月刊「祭」2016 目次

2016-12-31 21:46:45 | 各年、目次



誤りの訂正

 本ブログ親ページ祭と民俗の旅播州三木(兵庫県三木市)美坂神社東這田屋台-篠山、淡路、姫路、富山の融合。太鼓台としての屋台-に誤りがありました。水引幕を鳳凰船に乗った神功皇后の三韓征伐としていましたが、誤りでした。東這田屋台関係者の皆さまを始め、間違えた情報の掲載大変失礼いたしました。

はじめに
 本ブログおよび、「祭と民俗の旅」の文章・写真などの引用、参考は自由です。ただし、このブログに提供していただいた写真は、明記しておりますので、それの引用はご遠慮願います。また、引用、参考の際は、月刊「祭」を引用、参考した旨のご明記をお願いいたします。 写真や図とその解説は、画面を最大限に広げた時に一致するように作っていますので、できるだけ広い画面でご覧ください。

 이불럭과 「祭と民俗の旅」의 문장, 사진을 인용,참고하기는 자유입니다.  하지만, 이불럭에 제공주신 사진도 있어서 그런 것을 명기하니까, 인용하기을 삼가 바랍니다. 인용,참고할 때는, 이불럭을 인용,참고헀다기를 명기해 주십시오. 
  
img1.gif  「祭と民俗の旅」−目次  
                     月刊「祭」2011、2012 目次
                     月刊「祭」2013 目次
                     月刊「祭」2014 目次
                     月刊「祭」 2015 目次
                     

■月刊「祭」2016 目次
50.秋夕(チュソク)の訳と盂蘭盆 (月刊「祭」50号.2016.1月)
51.鬼追いと月輪寺 1.2つの月輪寺と八幡宮 2.三木の英雄に捧げる哀悼の意(月刊「祭」2016.2月)
52.法隆寺と道真(月刊「祭」2016.3月)
53.法隆寺五重塔あれこれ(月刊「祭」2016.4月) 
54.退治してもいいの?いいんです!(月刊「祭」2016.5月)
55.神戸市和田神社の名だんじり(月刊「祭」2016.6月)
56.神戸都心部の祭文化私観(月刊「祭」2016.7月)
韓国語学習記

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

56.神戸都心部の祭文化私観(月刊「祭」2016.7月)

2016-05-08 22:39:15 | 屋台、だんじり、太鼓台関連

ここでは神戸市の兵庫区から東灘区のだんじり、太鼓台、神輿文化を少し見て気づいたことを紹介します。なお参考にした祭は、東灘区本住吉神社例大祭(本)、灘の地車祭(灘)、中央区生田神社例大祭(生)、兵庫区和田神社例大祭(和)となります。上記(一文字)を本号でそれぞれの祭礼を表す略称とします。

◯だんじり

外ゴマだんじりと下にもぐる太鼓と鐘、鉦

だんじりの多くが、外ゴマのだんじりになっています。外側に車輪がつくことで、太鼓と打ち手は欄干下部に収めることができます。 楽器は太鼓、鐘、鉦の三点セットが多いようです。

(本)


(和)

逆に言えば、岸和田などにおいて、やり回しの必要性から、車輪を内側につける→太鼓を欄干を貫く形で設置し、欄干にすわって打つという風に変化したとも言えるのかもしれません。

ハタキを持つ屋根上の人
屋根の上にかなり多くの人が上に登り、ハタキを持って踊ります。

(本)
(灘)
欄干と柱
もともとは、欄干より下の泥台と欄干より上の柱は一続きになっていないものが多かったそうです。が、わかりやすい写真をとれなかった^^;




◯衣装
最近は法被とパッチのすがたが増えていますが、浴衣や浴衣風法被を好んで使っていたみたいです。
(本)
(灘) (和)

生田神社はこの映像を参照


◯太鼓台
灘区の新在家では今はだんじりが使われていましたが、江戸時代は太鼓台が使われていたそうです。
この太鼓台は、現在は西宮市大市八幡神社の倉で保存されています。

 

生田神社でも神輿を太鼓が先導します。

(生)トラックの上に太鼓がのっています。お先太鼓??



◯かけ声
 「おして」に似た掛け声は、兵庫区、灘区、東灘区で使われています。 差し上げる時のシャントセイは本住吉神社、灘のだんじりまつり(オシタシャントセイ)、生田神社で確認しました。前回ブログで報告したとおり、和田神社でもオシタ系の掛け声は使われていますが、シャントセイは30分ほどの滞在では確認できませんでした。

謝辞 本年も本住吉神社茶屋だんじり関係者の皆様には多大なご厚意を賜りました。この場を借りてお礼申し上げます。

◯編集後記
 コミュハラという言葉があるそうです。
 「なんかしゃべれよ」など、そこでコミュニケイションをとることを強制するハラスメントだとか。そのようなハラスメントの氾濫にダウンタウンの松本人志氏がハラスメントハラスメントやと警鐘をならしたそうです。が、松本人志氏は巧みなコミュニケイションハラスメント的笑いでのし上がった人物(お笑い芸人としては大好き、文化人としては最低だと管理人は感じています。)ともいえます。なので、コミュハラ=忌むべきものという観念の浸透は、彼の既得権益を犯しかねないと感じたのかもしれません。
 しかし、バラエティ番組的コミュニケイションの強制は、コミュニケイション弱者にとっては、非常につらいものです。そして、コミュニケイション弱者の中二は優れた職人肌の人が多く埋もれているようにも思います。バラエティ番組的コミュニケイションの氾濫は、そのような優れた職人の芽を摘んでいるのかもしれません。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

55.神戸市和田神社の名だんじり(月刊「祭」2016.6月)

2016-05-02 17:13:41 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
神戸市の兵庫区、和田神社にそのだんじりはあります。今回はそこの名だんじりをレポートします。


5月2日、3日が祭の日で、1日は大だんじりのみ、3日は大小のだんじりがうごくそうです。最寄り駅は神戸市営地下鉄海岸線の和田岬駅。神戸まつりのポスターはあるのに和田神社の祭のポスターは駅にありませんでした。。。
祭を知らない人にとっては、どちらかま大切な祭なのかを理解するのは難しいのでしょうか。


こちらは小だんじり。江戸末期のものだとか。

虎退治の虎は、顔が取れた後なのかもしれません。


だんじりがやってきました。
外ゴマで、大工方はハタキを持って踊ります。が、片足をあげる所作はかなり危険。動画もどうぞ



精巧な彫刻。某ウェブサイトによると、大阪から購入しただんじりだとか。
年代を割り出すことは管理人にはできません。が、大ぶりな彫刻は寺社彫刻をそのまま転化したようにも思えます。なので、結構古いとだけは言えそうです。
結構古いて何年前やねんという質問は禁止します。





◯編集後記
実は「まつり」という雑誌があるそうです。おそらく年刊できちっとした論文も掲載されているとか。ただ、ウェブサイトを見る限りでは今の活動は見えてきません。
「国文学解釈と鑑賞」も休刊になりました。
「実学」でない分野の切り捨て。それは、一見合理的に見えます。ですが、物を考えることを拒む先にあるのは西北隣の国の二の舞かもしれません。




コメント
この記事をはてなブックマークに追加

54.退治してもいいの?いいんです!(月刊「祭」2016.5月)

2016-03-23 22:04:10 | 民俗、信仰、文化

播州屋台の高欄がけの主要デザインといってもいいのが退治物です。この高欄がけの退治物は十二支や四神の思想に照らし合わせて東西南北のものを左右前後に配置します。それを
四年ほど前の記事を引用してみましょう。

 高欄掛の退治物でも、朱雀に通じる鷲退治は前、白虎に通じる虎退治などが左、青龍に通じる八俣大蛇退治などは左となります。もしくは、鷲を酉として右、八俣大蛇を巳として南をあらわす前、虎を寅として右というようにしているところもあるかもしれません。





上の文の後、差し上げた時に方角が一致する例をあげたのがリンク先の四年前の記事です。が、実は四年前の記事、立ち止まるべきところで立ち止まっていません。立ち止まるべきところは下の疑問です。そして、その疑問に結論から答えます。

四神なのに退治してもいいの?
いいんです(ジョンカビラ風)!


その理由をみていきます。

◯殺牛など各地の生贄を備える風習。
「日本霊異記」では、牛を殺して漢神に捧げる風習があったことが記されています。「霊異記」では殺された牛が祟って「牛頭人身」の怨霊となってあらわれてきます。その後、殺生をやめて放生をするようになったと「霊異記」では続きます。管理人はこの殺牛風習の代替物として牛の皮を使った太鼓も普及したと考えています。
牛馬を殺して供えるのを禁止されるようになったと「日本書紀」では残されています。一方、猪などは猟師さんたちによって山の神に捧げられていたようです。また、絵馬も生きた馬を殺していたもののかわりに納めるようになったとも言われています(吉野裕子「十二支」人文書院 1994)。
陰陽道の研究などで知られている村山修一氏は年代に隔たりがあることから否定されていますが、牛頭天王は殺牛信仰が転化したもの(吉野前傾著書)とも考えられそうです。そうなると殺されても神聖なものであったり、あるいは神であったりすることがわかります。

◯八岐大蛇
そして、退治物の高欄がけでも扱われている素戔鳴尊の八岐大蛇退治。これもまた、素戔鳴が退治した大蛇の尾からは剣が出てきます。そして、それが即、熱田神宮の御神体にもなっています。

このことからも、退治されるものも、神聖なものとみなされる基本的な考え方を伺えます。

◯アイヌ神謡集の世界
アイヌ神謡集では殺される動物神の様子が一際わかりやすくなります。
Kamuychikap kamuy yaie yukar
フクロウの神が自ら歌った歌として、下のように、神が矢を受け取るという表現になっています。
また、アイヌの間ではイヨマンテ(熊送り)といってキムンカムイ(山の神=熊)を殺してあの世に送り返すという儀式をおこなっていました。

Wenkur hekaci
貧者の子は
oat cikiri otuyma asi oat cikiri ohanke asi
片足を遠くに立て片足を近くに立て
pokna papusi sikoruki yoko wa an ayne
un=kotusura.
下唇をぐっと噛みしめて狙っていて
ひょうと射放した。

Tapan ponay ek sir konna tonnatara.
小さい矢はひゅーっと飛んで美しい光を放った。

Sirki ciki
それを見て
ci=santekehe ci=turpa wa
私は手を伸ばして
nean ponay ci=esikari.
その小さい矢をつかみ取った。

Sikacikaci=as
くるくる回って
rap=as humi
下り降り
ci=ekisarsut
私は風をきって
mawkururu.
舞い下った。



このようにやまと文化圏をはじめとしてをはじめとする東アジア地域では、仏教流入以前は動物の殺害がその聖性を否定するものではなかったといえます。その名残が屋台の高欄がけにもあらわれているといえます。


●編集後記
 今回は、アイヌ神揺集をとりあげました。
 19歳のアイヌの少女知里幸恵が、命を燃やして残してくれた、はじめてのアイヌ伝説をアイヌ語のまま残した書籍です。アイヌのみならず、日本文学史を語る上では、決して欠かすことができない歴史的作品(作品という言葉安っぽい気もしますが)です。にもかかわらず、例えば、公務員試験の参考書の文学史にも出ていることはないし、おそらく教科書に記されていないようです。つまり、現在の公務員試験も教科書も大きな欠陥がある可能性が極めて高いということを裏書しているといえるでしょう。

 言語にしろ、文化にしろ、大きなものに追従する傾向が顕著になってきているように感じてなりません。
 大きなものに盲目的に追従し、独自性を失うとき、それは、祭の活力が失われるときかもしれません。

 知里幸恵は序文でこのようなことばを残しています。
「けれど・・・・・・愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、滅びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか。おおそれはあまりにいたましい名残惜しいことでございます。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

53.法隆寺五重塔あれこれ(月刊「祭」2016.4月)

2016-02-23 22:31:07 | 民俗、信仰、文化
⚫︎釈迦、イエス、太子
世界最古の木造建築法隆寺の五重塔。

塔の中は、お釈迦様の一生の彫刻がなされています。そして、人々は太子の偉業をお釈迦様のお姿に重ねられたことでしょう。王族でありながら、皇位につかなかったという点でも一致します。
太子はもう一人の王族でありながら皇位につかなかった偉人にも日本書紀においては重ねられています。それはなんとイエス様。というのは、太子の別名は厩戸(うまやどの)で生まれたと言われており、その伝説がイエス様と一致します。太子もまた、王族でありながら皇位につかず新しい宗教をもたらしました。だからこそ、お釈迦様、イエス様、三人とも新しい宗教をもたらしたという面でも一致しています。

参考文献
梅原猛『塔』(集英社)1982

⚫︎法隆寺五重塔の鎌
五重塔の上部に目をやると、鎌が屋根の上に取り付けられているのがわかります。


これは何を意味するのでしょうか。
このヒントは法隆寺の西南・裏鬼門の守護神社といわれる龍田神社にあります。龍田神社の祭神である龍田大明神は龍田大社から呼び寄せたと伝わります。


龍田大社では風鎮大祭と呼ばれる、風の神様を慰撫する祭が行われます。
吉野裕子氏によると、このような風をおさめる祭では、陰陽五行の木気にあたる風をおさめるために、木を切りたおせる金気の鎌や白い(金気の色)紙を用いられるといいます。龍田大社でも風鎮大祭時には、真剣での舞が奉納されます。これも金気・金属の気によって木気の風を駆逐するためなのかもしれません。
それを表すかのように、龍田神社、龍田大社の神紋は「木」気の「風」で「楓」となります。


また、龍田の龍も十二支の辰や四神の青龍も東側の木気に位置します。

そんな龍田に守られた法隆寺。そこの五重塔の塔の鎌は、風がよく当たる屋根の上で外に向けられています。それは、木気の風を切り倒壊から守る風切り鎌と言えるのではないでしょうか。

参考文献 吉野裕子「陰陽五行思想と日本の祭」(人文書院)1977

⚫︎編集後記
法隆寺やその周辺を思いのままに自転車で駆け巡り、若い頃に戻れた気がしました。我々おっさん世代にもそれぞれ若い頃がありました。
そして、今もかけがえのない時間を過ごしている若い祭当事者や祭オタクがいます。未来のある彼ら(彼女ら)と同じ時間を過ごすのは楽しくもあり、羨ましいとも思ってしまいます。そして、自分が二度とあの頃には戻れないことも痛感します。
間違えたことがあれば、彼らを注意して導くのは年長者のつとめです。ですが、羨望からなのか、それを大義名分にして、その芽を摘み取ろうとする行為や発言が、自分の身の回りで目につきます。そして、同じようなことを自分もしているのかもしれません。それは分かりませんが、一つだけわかることがあります。

若い彼らを踏みつけこき下ろしたところで、彼らが下げられた分自分が高いところに行ったように見えるだけだということです。踏みつけた勢いによって、自分の身をさらに下に持っていくことでしょう。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

52.法隆寺と道真(月刊「祭」2016.3月)

2016-02-18 22:40:05 | 民俗、信仰、文化

 天神(菅原道真・以下道真)さんとお太子(聖徳太子・以下太子)さん。日本史上でも優れた学者さんであり、政治家として尊敬されています。
 しかし、道真は、無実の罪を着せられ太宰府に流されたことにより、怨霊となり都に祟りを起こし続けたといわれています。正暦四(993)年には死した道真に大して生前の右大臣よりも位の高い、太政大臣の地位を与えていることからも、その祟りへの恐れが伺えます。

 太子もまた、その死後、子孫を根絶やしにされたことによる怨念を持ち続け、それを封じるためのしかけが法隆寺に残されています。。。。。
 という話にする予定だったのですが、本ブログの生命線・ウィキペディアによると、法隆寺による聖徳太子怨霊調伏説は悉く否定されているそうな。
 たとえば、「秘仏であり、太子の分身ともとれる救世観音。その後光を、釘で後頭部に打ち付ける手法が、怨霊封じの目的によるもの」という説。
 釘だと思われたものは、部材の一部で、同様の仏像が法隆寺にはいくつかあることにより反論されているそうです。
 
 太子の子孫はのこることがなかったことを考えると、太子の怨霊はまだまだ考える余地がありそうですが、今回は考えないことにします。太子の怨霊調伏の意図のあるなしにかかわらず、法隆寺が太子を象徴する寺院であることには異論をはさむことができません。その太子の威徳に惹かれるかのように、後世には学者である道真の信仰が伴ってくるようです。

●法隆寺横の斑鳩神社
 毎年、十月体育の日、この神社には太鼓台が宮入りします。ここの祭神は菅原道真です。なんと、ここの太鼓台は法隆寺の境内を通ります。
 この神社の由来を見てみましょう。その創始は天慶年間に法隆寺管主である菅原氏の湛照が創始したと伝わります。天慶といえば、将門の乱が起きたときであり、その将門の乱のおり、道真が将門に新皇の位記を渡したと「将門記」では伝わっています。つまり、天慶の乱もまた、道真の怨霊により起こされたと当時の人が信じていたことは伺えそうです。
 斑鳩神社の創始が本当に菅原氏の湛照よってなされたかは分かりません。が、祟りを持った道真を太子の威徳により慰撫した、もしくは慰撫したと信じられていたことを、この伝説と神社はかたっています。


 
⚫︎講堂への落雷 現在の講堂は10世紀末の再建です。このころは、道真の怨霊が猛威を振るい、再び官位に戻した頃と重なります。
 
そして、落雷により全焼したのは延長三(925)年、この年、道真を排斥した藤原時平、その外戚であり天皇候補である幼い慶頼王が夭折しました。周囲は道真の祟りでもちきりになります。その後、前述の戦乱や疫病の流行を受けての再建であると考えると、祟り鎮めの再建かとも考えたくなります。
 
⚫︎十一面観音悔過と夢殿お水取り 嘉禎四年(1238)頃に撰述されたといわれる「聖徳太子伝私記」にこの儀式が記されており、このとき辺りからの儀式と思われます。一月十六日から三日間の儀式で読経などが行われます。
 
その四日前にはおそらく、夢殿のお水取りと呼ばれる儀式が行われます。内陣正面の礼盤を外に出し裏側を日光に当てる。しばらくすると自然に水分を帯びる。その多少によりその年の雨量などを占うと言います。これもまた中世頃からの儀式と言われています。
 
本場の東大寺のお水取りが、十一面観音が本尊の三月堂で行われることを考えると、これもまた十一面観音の儀式とうけとることもできるかもしれません。
 
十一面観音は天神・道真の本地仏とされており、当時の天神信仰の隆盛の影響を受けたものかもしれません。聖徳太子が眠るとされる夢殿にこそ、同じく名宰相の道真を祀ることに意味があると考えたからかもしれません。
 
大いに参考にした文献 高田良信「法隆寺の四季 -行事と儀式-」(小学館)1992
 
⚫︎編集後記 管理人の祭行脚が本格化するのがこの法隆寺を訪れたあとでした。梅原猛氏の聖徳太子怨霊説と法隆寺を練り歩く太鼓台に惹かれて、右も左もわからぬまま訪れました。そして、そこで立ち寄った書店で祇園祭の書籍を購入。その本がきっかけで祭行脚人生が始まりました。
 
そのきっかけをくださったのは、19年前親切にしてくださった現地の祭関係者の方のおかげです。この記事作成にあたり、あらためて法隆寺周辺をレンタル自転車に乗って巡りました。何か若いころに戻れた気がした1日でした。
 
しかし、その法隆寺には何も触れることができぬまま19年経ちました。少しずつですが、この寺のことも取り上げていきたいと思っています。
 
現地を巡ると高市早苗さんのポスターが貼ってありました。為政者にとって、うるさい奴を黙らせたいというのは、時代の古今、洋の東西、政治の左右を問わない、偽らざる本音でしょう。電波停止発言はその本音を出してしまった発言と言えるかもしれません。 自らの権力を磐石にせんとして菅原道真を排斥した藤原時平。ポスターで微笑む彼女の後ろに時平が重なって見えた気がしました。

 

  

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

51.鬼追いと月輪寺 1.二つの月輪寺と八幡宮 2.三木の英雄に捧げる哀悼の意(月刊「祭」2016.2月)

2016-01-18 21:40:32 | 民俗、信仰、文化

1二つの月輪寺と八幡宮
 今年も三木市の大宮八幡宮では、1月17日、鬼追いが行われました。
鬼追いは、大宮八幡宮が月輪寺と一体だった頃から行われております。

播州三木大宮八幡宮鬼追式2012.1.19



 言い伝えによると、秀吉遠征のおりに中川秀政が韓国より持ち帰った面が祟りを起こしたのでそれを鎮めるためだとか。
 私見を述べるとするならば、その面を見る限りでは韓国製ではないように思います。というのは、このようなお面を韓国で見たことはないからです。韓国製の場合でも、日本の誰かが持ち帰ること前提で作られたものと考えるのが妥当だと思います。
 閑話休題、この月輪寺、実は2つあったそうです。もう一つが羽場の大師こと羽場の月輪寺だったそうで、こちらは薬師如来が御本尊になります。鬼追いが行われる月輪寺の御本尊は十一面観音です。羽場の大師の東には大宮八幡宮の元宮とされる杣八幡宮があります。地理的には大宮八幡宮から、一続きになっていると言えるでしょう。

2 三木の英雄に捧げる哀悼の意
 大宮八幡宮の鬼追いは、毎年1月の第三日曜日に行われます。今年は1月17日、阪神大震災の日であり、三木の英雄、別所長治公の御命日です。
 鬼さんたちも、大宮月輪寺横の雲龍寺にある長治公のお墓に墓参りをされました。もともと雲龍寺と大宮月輪寺の間の道が堀だったようで、雲龍寺が堀内、月輪寺は堀の外側だったそうです。

編集後記
今回は少し短めです。
この記事を書くにあたり、鬼追い保存会の方々に便宜を図って頂き、月輪寺の御住職さまのお話を聞くことができました。保存会のみなさま、御住職さまにあらためて御礼申し上げます。


阪神大震災の被災者の方々のご冥福をお祈り申し上げます

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

50.秋夕(チュソク)の訳と盂蘭盆 (2016.1月)

2016-01-01 00:00:00 | 韓国、外国

 今回は、50号のようです。
 50号記念といきたいところですが、普通に。

●秋夕(チュソク 추석) 
 韓国語を学ぶ日本の祭オタクが避けて通れない道があります。
 それが秋夕(チュソク 추석)という言葉をどう訳すかです。

 秋夕は、旧暦8月15日に帰省し先祖の墓参りをするという風習です。
 韓国の中で民族の大移動が起こるといいます。

 さて、この訳を、先祖の墓参りをすること、大規模なきせいがあることから秋夕を日本語で「お盆」と訳す韓国語教本が多く有ります。しかし、お盆の旧暦の日付は7月15日で、韓国にもその風習は残っています。そして、秋夕と同じ旧暦8月15日には、彼岸があたることになります。彼岸もまた、先祖の墓参りをするところは一致しているといえます。また、中秋の名月の日ということもあり、韓国にも「向月」と呼ばれる行事も組み込まれているそうです。
 一方の彼岸もまた、浄土思想とのかかわりが深く、来迎図などには満月が描かれていることが多いことからも共通点はあるといえるかもしれません。
 秋夕が民俗儀礼であるのに対して、彼岸儀礼は仏教のものです。ですが、彼岸や浄土思想は、純粋な仏教儀礼というよりも、東アジアの民俗儀礼に仏教を当てはめたものと考えると、共通点は多いように感じます。こうなると、「秋夕は儀礼的には、彼岸と訳すべき」と言いたくもなります。
しかし、彼岸と秋夕の規模は、やはり、秋夕の規模のほうが圧倒的に大きな行事となっており、それに匹敵する行事を日本で言うと「お盆」といわざるを得ません。となると、秋夕の訳は、「行事的には彼岸、帰省の規模的にはお盆」ということになりそうです。


 
 山越え阿弥陀図 鎌倉時代 左上に満月

●盂蘭盆の輿
 
韓国と日本の大きな違い。管理人にとっては、このブログの主題でもある、太鼓台、山車、だんじりなどの担いだり、曳いたりして練り歩く祭の有無が最も大きいと感じています。例えば中国でも山車はあったし、インドなどヒンドゥー教国でも残っています。しかしながら、韓国ではなかなかそういったものが見られません。
 そんな中でやっとみつけたのが、下の写真です。京畿道江華郡の伝燈寺(チョントンサ・전등사)の輿で、死者の魂を運ぶものだそうです。わが国のお盆においても、新仏の魂を輿に迎えて送る風習があり、それと似ています。

 





 現在の日本の神輿はもっぱら神社のものとなっていますが、古来の神輿は、神社のものでありながら、神仏習合色の強いところで行われていたといえそうです。それを証拠に神輿の屋根にも宝珠や鳳凰が乗っているのも、仏教の影響といえないでしょうか。






●韓国と日本の祭の共通点と違い
 ①秋夕においては、日本にも彼岸とよばれる共通するものがあります。
 ②盂蘭盆においても、両国に存在します。
 ③また、宝珠のついた輿についても、両国に存在しました。
 しかし、①は韓国で隆盛しています。一方の日本では③が隆盛しています。
この差異は、仏教をめぐる両国の歴史の差異によるものと管理人は考えています。
李氏朝鮮において仏教は15世紀ころから弾圧の対象となりました。その間に宗派の合併や民間信仰として生き残ります。弾圧が弱まるのは朝鮮末期になります。つまり19世紀から20世紀になるまでは、政府の支持を得た信仰とはいえない状況だったといえるでしょう。
 一方、日本では明治期の神仏分離、廃仏稀釈がなされますが、後者は失敗に終わります。一方、神仏分離もいわゆる葬式仏教として、信仰の質としては議論があるかもしれませんが、経営基盤としては確固たる物を保ってきたといえるでしょう。また、江戸期においては、檀家制度で戸籍を管理するなど仏教の世俗的な役割が強くなり、その名残が今も残り、経営基盤はかなり安定した物を保っていえるといえます。このような経営基盤を後ろだてとして、宝珠を頭に載せた練り物の祭りが連綿と続いてきたといえるでしょう。

 
編集後記
 記念すべき50号。特に力をいれたわけでなく、今すぐかける題材ということで選んだのがこれです。
 しかし、こんな時期だからこそ、拙ブログの50という大きな節目に大好きな隣国のことを題材に選べてよかったと感じています。

 残念なことに、SNSを見ると祭人の中にもヘイトスピーチに該当する書き込みをする方がいらっしゃいます。
 政治的な議論を提起するのは、決して悪いことではありません。ただ、その民俗、文化、国籍、宗教に属していることを理由にして、誹謗中傷をする書き込みを見るたびに、その書き込みに「いいね」をしている人を見るたびに、悲しい気持ち、情けない気持ちになります。その書き込みを見た子どもがどう感じるのか、という想像力が求められています。そして、祭人の中にもヘイトスピーチ対象の国籍であったり、ルーツを持っていたりする人はかなりいるはずです。その大切な仲間を傷つけることは決して許されません。
 そして、その低俗な書き込みをすることで貶めることになるのは、ヘイトスピーチの対象者だけではありません。ヘイトスピーチの書き込みで貶めることになるのは、自分自身の価値、そして、自らがご奉仕する屋台・だんじり・神輿・ご祭神と祭への冒涜となります。

 自らへの批判をかわすために、賎民を作り出したり隣人への差別を煽るのは為政者の常套手段です。おそらく、日韓両国でそれは行われているのではないでしょうか。ヘイトスピーチの急先鋒者もまた、その被害者と言えるのかもしれません。自らが被害者であることを認識し、その行動を即あらためることを強く願います。
 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

月刊「祭」 2015 目次

2015-12-31 11:03:31 | 各年、目次


誤りの訂正
 本ブログ親ページ祭と民俗の旅播州三木(兵庫県三木市)美坂神社東這田屋台-篠山、淡路、姫路、富山の融合。太鼓台としての屋台-に誤りがありました。水引幕を鳳凰船に乗った神功皇后の三韓征伐としていましたが、誤りでした。東這田屋台関係者の皆さまを始め、間違えた情報の掲載大変失礼いたしました。

はじめに
 本ブログおよび、「祭と民俗の旅」の文章・写真などの引用、参考は自由です。ただし、このブログに提供していただいた写真は、明記しておりますので、それの引用はご遠慮願います。また、引用、参考の際は、月刊「祭」を引用、参考した旨のご明記をお願いいたします。 写真や図とその解説は、画面を最大限に広げた時に一致するように作っていますので、できるだけ広い画面でご覧ください。

 이불럭과 「祭と民俗の旅」의 문장, 사진을 인용,참고하기는 자유입니다.  하지만, 이불럭에 제공주신 사진도 있어서 그런 것을 명기하니까, 인용하기을 삼가 바랍니다. 인용,참고할 때는, 이불럭을 인용,참고헀다기를 명기해 주십시오. 
  
img1.gif  「祭と民俗の旅」−目次  
                     月刊「祭」2011、2012 目次
                     月刊「祭」2013 目次
                     月刊「祭」2014 目次
                     

■月刊「祭」2015 目次
日韓「現れる亀の話(韓国編)」(月刊「祭」第37号 2015.1月)
月と祭、年初行事と宮付き屋台(月刊「祭」第38号 2015.2月)
粕谷宗関氏の著書 -屋台関係の名著紹介2-(月刊「祭」第39号 2015.3月-1)
・祭休み権の確立の立役者!?Parachanの功績(月刊「祭」第40号 2015.3月-2)
・三月祭りとしての北条節句祭りと法道仙人(月刊「祭」第41号 2015.4月)
・灘型だんじり・外ゴマの謎と命をかけただんじり運行(月刊「祭」42号 2015.5月)
・屋台関係の名著紹介3 史上最強の祇園祭本? 松田元「祇園祭再見」(月刊「祭」44号-1.2015.7月)
・京都祇園祭山鉾の囃子方の配置法(月刊「祭」44号-2.2015.7月)
・三木の至宝、城山屋台2の1(月刊「祭」45号.2015.8月)
・三木の至宝、城山屋台2の2(月刊「祭」46号.2015.9月)
・太鼓に込める願い、韓国編(月刊「祭」47号.2015.10月)
・おっさんなんどい:問題提起編(月刊「祭」48号.2015.11月の1) 
・おっさんなんどい:調査?報告編(月刊「祭」48号.2015.11月の2)
・山車、地車の鉦(月刊「祭」49号.2015.12月)

 
韓国語学習記

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

山車、地車の鉦(月刊「祭」49号.2015.12月)

2015-11-29 17:15:48 | 屋台、だんじり、太鼓台関連

今回は「鉦」特集です。
一寸を約3センチ3ミリとして、特に指定がないまま何寸とあれば、それは鉦の内側の直径を意味するものとします。また、大きい、小さいも指定がなければ内側の直径をさすものとします。

◯東小西大
東京から関西までを見る限り、東側が小さく西側は大きくなっています。
私が見た東京都八王子市の祭では、目分量ですが、鉦は五寸程度の大きさだと記憶しています。鉦の直径が小さいほど音は高くなり、大きいほどその音は低くなります。東の方では太鼓も締め太鼓や鏡面の直径が1尺ないものが好まれ、全体として高い音のお囃子が流れます。

そこからさらに西に行き、祇園祭の山鉾や滋賀県の山車になると、やや鉦は大きくなります。大きさはまたうる覚えの目分量ですが、6寸、7寸ほどでしょうか。

さらに西に行き大阪や奈良、兵庫県の地車では、8寸でも「小さめ」となり、1尺ほどの鉦が好んで使われます。
太鼓も鏡面直径2尺をゆうに超える大太鼓と、1尺足らずの小太鼓のペアが使われたりします。太鼓も鉦もかなり低い大きな音が鳴らされます。そうなると、聞こえなくなるからなのか、笛を使わないところも多くあります。

◯大阪の北大南小、北薄南厚、北低南高、北響南弾と鉦から鐘
北大南小、
大阪府では摂津(北・大阪市など)では11寸、泉州(中・岸和田市など)では10寸(リンク先は高石市から淡路島に渡ったもので、笛はないが、泉州では笛を伴う囃子になるのが通常)、河内(南・富田林市など)では9寸もしくは、8寸のものが好まれるようです。
また、鉦の底部の板の厚さを薄くすればするほど、音は低くなるらしいのですが、これも北は薄く音を低くする傾向があり、南に下るほど高くなるそうです。つまり、鉦の大きさ板の厚さ、音の高さは、北に行くほど大きく薄く低く、南に行くほど小さく厚く高くなる傾向があるそうです。

北響南弾と鉦から鐘
また、使われる材料も違います。北では音の余韻が残る青銅製のものが好まれ、南では歯切れのいい音が出る真鍮製のものが好まれるそうです。
南では歌が大きな役割を占める祭りになります。なので、リズムを刻む楽器が余韻を残すのは、ハイハットシンバルを広げたまま歌うようなもので、歌いにくいからではと管理人は推測しています。
一方、鉦の音が低く響く北側では、歌も笛の旋律も無くなり、踊る祭りになります。踊る中でトランス状態を迎えるには、低く余韻の残る音の方が向いているのかもしれません。

鉦から鐘
神戸市の東灘区では鉦ではなく鐘に変わってきた地車が多くなっていると聞きましたし、管理人も神戸市東灘区住吉神社のだんじりを見てそれを確認しました。かなりの余韻が残り、管理人は中に東南アジアの楽器を入れてるのではと勘違いしました^_^;

鉦、鐘とだんじり
詳しい調査は一切行っていないので推測の域を出ませんが、鉦、鐘の形と地車の型の分布は凡そで一致しそうです。

上地車は11寸鉦で青銅製、岸和田型は10寸で真鍮や青銅、河内型は8寸、9寸で真鍮、神戸東灘外ゴマ型は釣鐘といったふうに。
と偉そうにのたまわったものの、上地車、岸和田型、河内型の区別をどうつけるのか、そもそも区別ができるのかさえ管理人は知りません。しかしながら、鉦と地車の型の分布に共通点を見出せそうであるという考えには、少し自信を持っています。

鉦などを加工販売している東大阪市の上田工房の方に地車の鉦についてご教示賜りました。この場を借りて改めて御礼申し上げます。

編集後記
パリでテロが起きました。やれ報復だ、やれテロは許すな、やれ協力だと言うのは簡単です。ですが、現場に行くのは恐怖です。そして、現場に行く人と、兵器などの売り上げなどの利潤を得る人には、明らかな経済格差が生じるだろうことは予想に難くないでしょう。
経済格差を大きくする→貧困層を徴兵する→兵器の売り上げによる大きな利益は富裕層が持っていく→貧困層の鬱憤は隣国に逸らす。
世界各国でこのような図式ができているように思えてならない今日この頃です。






コメント
この記事をはてなブックマークに追加