日本再生への道

支那朝鮮断交・憲法改正・偏向カスゴミ粉砕・移民阻止を図り日本を再生

日中戦争、日韓(朝)戦争と安倍イズム⑥

2013-02-24 12:15:10 | Weblog

第一章 ④日韓(朝)戦争(資料2) 
このようなテーマのブログの中でなぜ半分コピペのような資料を掲載しているのか疑問 
に思われる方もおられるだろう。テーマの意図に沿っての掲載は当然のこととして、実 
は韓国、朝鮮人、主として在日朝鮮人の若者に対する情報提供の場をつくっているの 
だ。戦後第三世代の韓国、北朝鮮の若者たちは、嘘が嘘を呼び、嘘を隠すためにまた嘘 
をつくという捏造の情報連鎖の中で、何が真実がわからなくなってしまっている。を理 
解しない、書けない、話せない者も多い。彼らは韓国、朝鮮文化よりは日本人の文化の 
中で日本人の価値観で育っている。韓国国内ネットにおける情報は捏造操作された都合 
のよいものばかりで真実性は極端に低く信用できない。当然のように彼らに不都合、恥 
じ入るような情報、記事は閲覧の機会さえ封じられている。表向きはともかく日本国内 
でネットは自由だ。そこにあふれる情報は日本人だけが発信しているわけではない。全 
世界から発信されているものだ。正否、正誤、都合の悪い情報もあるだろうが、ここが 
重要なのだ。小生、個人的には、客観的に考えても、99%韓国、北朝鮮との友好改 
善、共存共栄はもはや不可能と思っているが、わずかに残る1%の実現可能なきっかけ 
の場になればとこのようなスタイルをとっている。 
イザベラ・バード 
イザベラ・バード(Isabella Lucy Bird, 結婚後はIsabella Bird Bishop夫人, 1831年 
10月15日 - 1904年10月7日)はイギリスの女性家、紀行作家。明治時代の地方や、関西 
などを旅行し、その旅行記"Unbeaten Tracks in Japan"(邦題『日本奥地紀行』『バー 
ド 日本紀行』)を書いた。 
イギリス・ヨークシャーで牧師の長女として生まれる。妹の名はヘニー。幼少時に病弱 
で、時には北米まで転地療養したことがきっかけとなり、長じて旅に憧れるようにな 
る。アメリカやカナダを旅し、1856年"The Englishwoman in America"を書いた。その 
後、ヴィクトリアン・レディ・トラヴェラー(当時としては珍しい女性旅行家)とし 
て、世界中を旅した。1893年英国地理学会特別会員となる。 
1878年(明治11年)6月から9月にかけて、を起点に日光から新潟へ抜け、日本海側から 
北海道に至る北日本を旅した(連れは通訳として雇った伊藤鶴吉のみ。但し所々で現地 
などを伴うこともあった)。また10月から、、伊勢、を訪ねている。これらの体験を 
1880年 "Unbeaten Tracks in Japan" 2巻にまとめた。第1巻は北日本旅行記、第2巻は 
関西方面の記録である。この中で、英国公使ハリー・パークス、後に明治学院を設立す 
るヘボン博士(ジェームス・カーティス・ヘボン)、同志社のJ.D.デイヴィスと新島夫 
妻(新島襄・新島八重)らを訪問、面会した記述も含まれている。その後、1885年に関 
西旅行の記述、その他を省略した普及版が出版される。本書は明治期の外来人の視点を 
通して日本を知る貴重な文献である。特に、アイヌの生活ぶりや風俗については、まだ 
アイヌ文化の研究が本格化する前の明治時代初期の状況をつまびらかに紹介したほぼ唯 
一の文献である。 
また、清国、クルディスタン、ペルシャ、チベットを旅し、さらに1894年から1897年に 
かけ、4度にわたり末期の李氏朝鮮を訪れ、旅行記"Korea and Her Neighbours"(『朝 
鮮紀行』)を書いている。 
中国への再度の旅行を計画していたが、1904年に73歳の誕生日を前にして死去した。 
『日本奥地紀行』 
1878年(明治11)6月から9月にかけ『日本奥地紀行』は執筆され、1880年に "Unbeaten 
Tracks in Japan(直訳すると「日本における人跡未踏の道」)" として刊行された。冒 
頭の「はしがき」では「(私の)全行程を踏破したヨーロッパ人はこれまでに一人もい 
なかった」としるし、また「西洋人のよく出かけるところは、日光を例外として詳しく 
は述べなかった」と記し、この紀行が既存の日本旅行記とは性格を異にすることを明言 
している 
栃木県壬生町から鹿沼市の日光杉並木に至る例幣使街道では、よく手入れされた大麻畑 
や街道沿いの景色に日本の美しさを実感したと書いている。また日光で滞在した金谷邸 
(カナヤ・カッテージ・イン)にはその内外に日本の牧歌的生活があると絶賛し、ここ 
に丸々2週間滞在して日光東照宮をはじめ、日光の景勝地を家主金谷善一郎および通訳 
の伊藤とともに探訪する。日光滞在10日目には奥日光を訪れるが、梅雨時の豊かな水と 
日光に育まれた植生、コケ、シダ、木々の深緑と鮮やかに咲き誇る花々が中禅寺湖、男 
体山、華厳滝、竜頭滝、戦場ヶ原、湯滝、湯元湖を彩る様を闊達に描写し絶賛してい 
る。街道の終点である湯元温泉にもたいへんな関心を示し、湯治場を訪れている湯治客 
の様子を詳らかに記している。またその宿屋(やしま屋)のたいへん清潔である様を埃 
まみれの人間ではなく妖精が似合う宿であると形容し、1泊したうえで金谷邸への帰途 
に就く。 
県南陽市の赤湯温泉の湯治風景に強い関心を示し、置賜地方を「エデンの園」とし、そ 
の風景を「東洋のアルカディア」と評した。 
『日本奥地紀行』では当時の日本をこう書いている。 
私はそれから奥地や蝦夷を1200マイルに渡って旅をしたが、まったく安全でしかも心配 
もなかった。世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に 
旅行できる国はないと信じている。他には新潟を「美しい繁華な町」としつつも、県 
庁、裁判所、学校、銀行などが「大胆でよく目立つ味気ない」としたり、湯沢を「特に 
いやな感じのする町である」と記したり、また黒石の上中野を美しいと絶賛したりして 
いる。他方、「日本人は、西洋の服装をすると、とても小さく見える。どの服も合わな 
い。日本人のみじめな体格、凹んだ胸部、がにまた足という国民的欠陥をいっそうひど 
くさせるだけである」、また「日本人の黄色い皮膚、馬のような固い髪、弱弱しい瞼、 
細長い眼、尻下がりの眉毛、平べったい鼻、凹んだ胸、蒙古系の頬が出た顔形、ちっぽ 
けな体格、男たちのよろよろした歩きつき、女たちのよちよちした歩きぶりなど、一般 
に日本人の姿を見て感じるのは堕落しているという印象である」と日本人の人種的外観 
について記している。 
朝鮮旅行 
最初の朝鮮訪問は1894年。以降3年のうちに、バードは4度にわたり朝鮮各地を旅した。 
時おりしも東学党の反乱、閔妃暗殺事件が起こるころ。『朝鮮紀行』は、国際情勢に翻 
弄される李氏朝鮮の不穏な政情、伝統的封建的伝統、文化など、バードがじかに見聞き 
した朝鮮の情勢を伝える。以下、『朝鮮紀行』より。 
釜山に上陸したバードは、高台にある外国人居留地の周りの杉林が1592年からの文禄・ 
慶長の役の際に豊臣秀吉日本軍による植林によるものと記し、また釜山の旧市街が同じ 
く文禄・慶長の役の占領の際に、日本人によって手がけられたと記している。「砦はと 
ても古いものの、中の市街は三世紀前の構想に沿って日本人の手によって近代化されて 
いる」 
バードは韓国併合以前の当時のソウルに関して、道は牛がすれ違えないほど細く迷路の 
ようであり、家から出た汚物によって悪臭が酷く、北京を見るまで「ソウルこそこの世 
で一番不潔な町」だとし、「紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世で一番ひどいに 
おいだ」「都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい」と記し 
ている。また、人工の道や橋も少なく、「あっても夏には土埃が厚くて、冬にはぬかる 
み、ならしてない場合はでこぼこの地面と、突き出た岩の上をわだちが通っている。道 
と言っても獣や人間の通行でどうやら識別可能な程度についた通路に過ぎない」と記し 
ている。 
また、ソウルには芸術品や公園や劇場、旧跡や図書館も文献もなく、寺院すらないた 
め、清や日本にある宗教建築物の与える迫力がソウルにはないとしている。他方、金剛 
山の長安寺では「天国にいるような心地の二日間」を過ごすことができたと賞賛してい 
る。 
貨幣・通貨の流通については、銀行が町にないと記しており、また日本の円がソウルと 
条約港で通用したことを記している。 
朝鮮とロシア国境部の沿海州では水路が整備され、衛生にも配慮され、家屋は朝鮮半島 
におけるものより立派だとし、「朝鮮人というのはくずのような民族でその状態は望み 
無しと考えてた」がその考えを正すべきかもしれないとしている。 
身分制度に関して、「両班は究極に無能であり、その従者たちは金を払わず住民を脅し 
て鶏や卵を奪っている」としている。「両班は公認の吸血鬼であり、ソウルには「盗む 
側」と「盗まれる側」の二つの身分しかない」と述べている。朝鮮の官僚については、 
「日本の発展に興味を持つ者も少数はいたものの、多くの者は搾取や不正利得ができな 
くなるという私利私欲のために改革に反対していた」とし、「堕落しきった朝鮮の官僚 
制度の浄化に日本は着手したが、それは困難きわまりなかった」と述べている。

2013-02-24 15:44  nice!(0) 



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