改名!むっく★ちぃちゃんvsみっちゃん

我が家に来て一日半でパルボを発病してしまったチワワのちぃちゃんの闘病日記だったこのブログ。気がつきゃ17年経過。

つづき4

2011年03月21日 19時27分54秒 | むっくVSちっち

帰り足、来た道を走っていくと、役所の職員が三名田んぼを覗いていました。30分ほど前に通った道。その時は何も気づかなかった・・・。

パパがスピードを落とすと、作業服の40代後半位の方が道路脇の田んぼから引き上げられていた。

この場所は500メートルほどで大型買い物施設があり、4号バイパスからも100メートルも無い場所。

海岸からは5、6キロ離れた場所。

寝ているよう。

 

体調が悪いのかな?

 

倒れてしまったのかな?

 

真横を通りすぎるとき、口が開き目が半分開いていた・・・。

 

遺体だとわかった・・・。

 

 

こんなところまで・・・。

 

 

涙が溢れた。

 

 

胸が締め付けられる。

 

 

言葉が無かった。

 

 


つづき3

2011年03月19日 17時39分04秒 | むっくVSちっち
夜明けを待たずに起きて、みつきを母に預け即市役所へ向かった。

市役所では人でごった返し。

皆、行方不明の家族を捜す人達ばかり。

駐車場は入る余地の無い位車があり、報道関係の車両がとても邪魔だった。

車の通り道の真ん中で撮影している報道陣。

ホーンを鳴らすと嫌な顔して振り向く奴ら。


何しに来てるの?


皆の邪魔しにきてるの?


全く被災者の側では無く、自分らが偉いかのごとく勘違いした行動。


イライラしながら役所の中へ。


避難所の場所ごとに少しずつ既に名簿が出来ていた。


とりあえず全てを見たけれど、誰も知っている人がいない。


まずは行方不明者の登録を済ませた。


お父さん、お母さん、おばあちゃん、三人の名前を登録。


仙台空港の情報も聞いたけれど、何一つわからないと。


マンションからみつきが赤ちゃんの時に使って余っていたオムツを持って出ていたので、市役所の方へ少ないけれど使ってくださいと置いて出た。
役所の方々は本当に少しだけのオムツなのに、「本当にありがとう!」ととても喜んでくれた。


その後、旦那の会社付近に行ってみた。


旦那の会社は仙台空港近くの工場地帯。


海岸からは2・3キロ位離れていて、そんなに被害はないだろうとたかをくくっていた。

しかし、会社付近に近づくにあたって恐怖に変わる。


市街地から車で3分程走った場所まで津波はやってきていた。


徐々に変わる風景に涙が止まらなかった。


車が横転しているのは当たり前。大型トラックの上にひっくり返った乗用車が何台も積み重なっている。


道は無くなっていた。


仙台空港へと続く太い道路の真ん中に、トレーラーハウスが流されてきていたり。



旦那の会社には車では入っていけなかった。


工業地帯だったため、何百台ものトラックが横転重なり乗用車とトラックの山だらけ。


もしかしてこの何百もの車の中にはまだ人が乗っているのでは?


この時は震災の翌朝。


救助もまだほとんど始まったばかりの頃。


確認して歩くことが怖くてできなかった・・・。


旦那は昼は整備士、夕方からは会社員。工業地帯の運送会社の倉庫管理の仕事をしていた。


地震は日中の車の整備中に起きて、危なく車の下敷きになるところだったという。


津波がやってきた時間帯は、いつも旦那が津波が襲った浜街道を通って出勤する時間帯だったのだ。


旦那が会社では無く、実家でもなく、保育所に向かってくれたので命が助かったのです。


きっと会社や実家に向かっていたら、間違いなく津波にやられていたでしょう。


そんな会社も壊滅状態。


きっと復活はあり得ないという状態。


失業・・・。


整備士だけでは生活は無理。

私も体調が悪くてまともに仕事が出来ていない状態。


不安が押し寄せる。


実家は無い、両親もいない、職も無くなるという不安。


すべてがマイナス思考へと向かう・・・。



数人会社の若い男の子達に出会って話したが、家族が見つからないとか実家が無いとか、皆が苦しい状態だった。


うちだけじゃない。



周囲を写真に収めて会社付近を後にしました。




つづき2

2011年03月19日 13時20分17秒 | むっくVSちっち
気丈な妹に仕事が終わったら私の実家に来るように告げ、旦那と旦那の両親に電話をかけまくりました。

それでもつながらない。

もうだめなのかな・・・。

涙が止まらない。

震えも止まらない。

そんな中、市街地から私の父が仕事を終えて歩いて帰ってきていると電話が繋がり、即迎えに行きました。

市街地から歩けば4時間位かかることでしょう。

電話もなかなか繋がらない、道は信号電気が消えて隆起している地面も見えない。

何とか父を見つけて拾い、自宅へ。

八時位だったと思う。

まだ旦那はいなかった。

私は地震直後に携帯の災害伝言掲示板に子供と共に無事であること、実家に避難することを載せておいた。


携帯はほとんどつながらない状態に。

どうか無事で。どうか帰ってきて。

心臓が張り裂けそうだった。

夜9時を過ぎた頃、


「こんばんは~」

玄関から声がする。

「パパだぁ!」

それまでおとなしくしていたみつきが玄関へ。

リビングが開き、旦那が。


三人で泣きながら抱き合い、あの時の安堵感は忘れられないでしょう。


旦那は会社から渋滞の中、四時間かけてまずは保育所へ向かったのだという。


喘息で傷病休暇中だった私が、この日の朝だけ仕事にでかけたのを知っていた旦那。

多分私が迎えに行っているだろうと思っていたけれど、もしかしてと即保育所へ向かったとのこと。


私の実家にいるだろうとも思ったけど、恐怖で動けなくなっているのではと各避難所を私とみつきを探して歩いていたと。

実家のこともニュースで分かっていたけど、まずは私とみつきが先決だったと。


いつも私にあまり関心の無い旦那。


だけど私達家族のことをきちんと守ろうとしていてくれていたんだと、こんな形で知ることになるなんてね。


まずは旦那に食事をしてもらい、ラジオと携帯のテレビで情報を得ていると、県警のヘリコプターが実家近くの道路に数百体の遺体を発見したと言うことだった。


一同絶句。


そんな中、何度も何度もメールを受信したり送信したりを繰り返していたら、数件のメールを受信できた。

友人知人会社の上司。

その中にメール時間15:34


だいじょうぶ


たった一言のメール。義母だった。

地震発生から45分ほど。

津波の第2波第3波が次々と押し寄せてきていた時間帯。


どうなんだ?


時間からすると多分空港に避難してから送ってきたのでは?


推測でしかないけれど、すぐに電話をかけまくった。


しかし繋がらない。


旦那は今から海岸へ行くと言い出す。


私達を守れるのはパパしかいない!お願いだからやめて!パパにまで何かあったらどうしたらいいの?


なんとか止めて、方法を探した。


北海道の兄にも携帯が繋がらなくて連絡つかない。

心配してるだろうなぁ。


と思った時、名古屋に旦那の弟がいるのを忘れていることに気づいた。


即連打で名古屋の弟に連絡。

すると繋がった!

みんな無事なの?

お母さんからメール来たよ。

時間は18:30分位だった。

お父さんはわからない。

おばあちゃんもいないって。


その後連絡取れなくなった。


と。


義母は多分無事で空港に避難できたのだろう。

夜が明けたら探しに行こうと。夜明けを待った。










つづき。

2011年03月17日 21時52分38秒 | むっくVSちっち

真っ黒い波がどんどん押し寄せ、車・家・海岸線の松林が空港ターミナルに押し寄せる画像。

動悸が激しくなる。

あっという間に空港は海。


旦那の実家は農家で義父は消防団長。

おばあちゃんお母さんは畑では?

お父さんは消防団の仕事で海岸線の見回りに行ったのでは?

パパは実家を見に行ったのでは?


いろいろなことが頭の中を駆けめぐりました。

まずは実家へ。


地震発生から40分後位。すでに行く途中にはガソリン渋滞が起きていました。

ガソリンを入れるべきか?

飲料水を手に入れるべきか?

食料?

どうしたらいいの?


1人で頭の中がパンクしそうなくらい考えまくりました。


子供がいるのだからまずは水と食糧だろ。

そう思って開いている店を探しましたが見つからず。

実家の近くまで来ると、ツルハドラックのドアが開いており中に人が沢山いる気配。


すぐに車を飛び降り、中へ入るとものが散乱する中、従業員の方々が一点一点バーコードを書き写し、値段を確認しに行き電卓で計算して商品を売っていました。

この人達だって家族があるだろうに・・・。

レジでありがとうがんばってくださいとしか言えなかった。


水やジュースなど持てるくらい持って実家へ到着。

すると車の中に母や近所の人達が。

飛び出てきた母は、泣きながら私達を抱きしめました。


余震が激しく、何度も大きな地震が来る。

だけど高台にある実家は地盤が相当強く、少しグラスが落ちた位でほとんど被害も無く揺れも小さく感じます。


母を見て安心し、涙があふれました。

停電にガスがストップ。

かろうじて水道は使えました。


到着するまでも何度も何度も義母・義父・パパと電話をかけまくりましたが繋がらず。




暗い夜がやってきても誰も連絡が取れない。

そんな時、看護師の義妹と連絡が取れました。仕事をしていて家にはいなく無事とのこと。

家が無くなったよ。

何も無いよ。

どうしよう。

お父さんお母さんおばあちゃんもどうなったか分からない。

どうしよう。



そんな義妹は宮城でも唯一重症患者を引き受けることとなった市立病院勤務。

仕事を投げ出し、探しに行きたかっただろう。

しかし彼女は気丈にも仕事をすると言ったのです。







東日本大震災

2011年03月15日 16時44分16秒 | むっくVSちっち
宮城県は地獄です。 主人の実家は津波をまともに受け無くなりました。

幸い家族は着の身着のまま逃げてくれて、消防団の義父は津波にのまれながらもなんとか助かり、昨日ようやく家族全員の安否確認ができました。

しかし、住んでいる地区の方々は半数ほど亡くなってしまいました。

私は自宅マンションにて被災。

みつきは保育所でいなかったので、むっくとちっちを両脇に抱えてベランダにでて物干しに捕まり、目の前の電柱が火花を散らして次々に爆発していくのを見ながら地震がおさまるのを待ちました。

すべてがひっくり返り、物が散乱する部屋からむっくとちっちを連れて飛び出してすぐに保育所へ。
何度も何度も余震が続き、築年数が古い保育所が倒壊していないことを願って、ぶるぶる震えながら保育所に到着。

子供達は園庭に集められ、毛布にくるまって小さくなっていました。

『みつき!』

と呼んでも無反応で体育座りをして下を向き微動だにせず、目の前に立ってようやく私に気づいたみつきは、

『まぁまぁ~』

と弱々しい声で抱きついてきました。

その後私の実家に非難に向かうなかで津波を知り、心臓が爆発しそうになりました。

旦那の実家が空港の真裏だったのです。