今年68歳になる名歌手レオ・ヌッチのリサイタルを東京文化会館の最前列で聴いた。
それも舞台の中央寄りの席であったため、ヌッチのさんさんとした笑顔、激しく噴き出される唾液の飛沫、
眉のかすかな動きまで、すべてがリアルに見え、生き生きと聴こえてきた。
歌手がホールの空気を感じ、精神を鎮め、呼吸を準備し、目を見開いて最初の一声ほ発する瞬間、
つまり「歌」が生まれる瞬間を、目の前ですべて見た。偶然ではあるが、すごい幸運だ。
今まで「イタリアオペラはイタリアの歌手が一番」と仰る先輩方の意見に「そう言われたら他の国の歌手の立つ瀬がないではありませんか」と
反論とまでは言わなくても、ちょっとだけ古臭いものを感じていたのだ。が、
こういう「真髄」を聴かされると、納得しないわけにはいかない。
歌の密度が全く違うのだ。いや、イタリアの歌手のすべてがこういう表現が出来るわけではないだろう。
トスティの歌曲やベッリーニ、ロッシーニのアリアで楽しませてくれた一部も素晴らしかったが(特にセビリャの理髪師の「私は町の何でも屋」はブラボー!)
最重量級のヴェルディが立て続けに歌われた後半は、圧巻だった。
「ドン・カルロ」で、身代わりに死ぬロドリーゴが親友カルロに向かって歌う「終わりの日は来た」は、
最初声がかすれ気味ではあったが(ホールの天井を見て空調を気にしているようだった)
起伏のある長い演技を、鋭い緊張感を持続させたまま見事にやり遂げた。
何よりヌッチの歌は、最高の演劇性と深く結びついている。
彼の顔の表情ひとつで、見えない背景や巨大な舞台装置が見えてくる。闇や光や樹木や城があらわれる。
ロドリーゴが苦しみに耐えて歌う箇所では演技がすごすぎるので、本当に本人の具合が悪くて、
このまま倒れて担架で運ばれてしまうのではと、本気で心配した。
ヌッチの18番である「リゴレット」の「悪魔め、鬼め」も実に最高で、これはラストに歌われた。
愛娘がバカ息子侯爵に凌辱された上、敵のもとにいることを知ったリゴレットが
家臣たちをののしる激情的な歌だが、最後は
「この老いぼれに娘を返してくだされ。わたしには娘がすべて。お慈悲を…」と
弱弱しく嘆願する。有名なシーンだ。
熾烈な感情の昂ぶりで始まり、呪詛の言葉で闇を這いずり、やがて涙ながらに慈悲を乞うという
ひとつらなりの感情が、嵐のように表わされる。これが本当に見事だ。
ヴェルディ・バリトンは、精神的な極限状態にまで高まった怒りや憎しみを爆発的に歌う場面が多いが
ヌッチのバリトンは、そのおそろしい表面を支えているものが、どうしようもないほど豊かな情愛であることを伝えてくる。
こんな愛情深い歌を、聴いたことはなかった。
そこで、ヴェルディの偉大さも同時に理解できた。
「イタリアオペラはヴェルディ(プッチーニなんかじゃなて)」と仰る諸先輩方の声も
こういうことだったのか、と理解した。(それでもプッチーニは大好きですが)
愛に溢れた男ヌッチは、素晴らしい笑顔でカーテンコールに答え、なんと四曲もアンコールを歌った。
それもアンコールピースというより、本編に入れてもおかしくないような立派な曲を三曲歌い、最後が「オーソレ・ミオ」だったのだ。
会場はもうとんでもないことになった。みんな興奮して、涙にまみれている。
男に生まれて、こんないい「愛」をバラ撒いて生きているヌッチは、なんという幸福な人だろう。
性差別をするわけではないが、男でここまで「愛せる」能力を持っている人は本当に少ない。
コントロールの聴いた何種類もの声と、喜怒哀楽のみっちり詰まった歌に、脳天が真っ赤になりっ放しだったが
余韻に残ったのは、ホール全体を埋め尽くしたヌッチの「愛」だったのだ。
それも舞台の中央寄りの席であったため、ヌッチのさんさんとした笑顔、激しく噴き出される唾液の飛沫、
眉のかすかな動きまで、すべてがリアルに見え、生き生きと聴こえてきた。
歌手がホールの空気を感じ、精神を鎮め、呼吸を準備し、目を見開いて最初の一声ほ発する瞬間、
つまり「歌」が生まれる瞬間を、目の前ですべて見た。偶然ではあるが、すごい幸運だ。
今まで「イタリアオペラはイタリアの歌手が一番」と仰る先輩方の意見に「そう言われたら他の国の歌手の立つ瀬がないではありませんか」と
反論とまでは言わなくても、ちょっとだけ古臭いものを感じていたのだ。が、
こういう「真髄」を聴かされると、納得しないわけにはいかない。
歌の密度が全く違うのだ。いや、イタリアの歌手のすべてがこういう表現が出来るわけではないだろう。
トスティの歌曲やベッリーニ、ロッシーニのアリアで楽しませてくれた一部も素晴らしかったが(特にセビリャの理髪師の「私は町の何でも屋」はブラボー!)
最重量級のヴェルディが立て続けに歌われた後半は、圧巻だった。
「ドン・カルロ」で、身代わりに死ぬロドリーゴが親友カルロに向かって歌う「終わりの日は来た」は、
最初声がかすれ気味ではあったが(ホールの天井を見て空調を気にしているようだった)
起伏のある長い演技を、鋭い緊張感を持続させたまま見事にやり遂げた。
何よりヌッチの歌は、最高の演劇性と深く結びついている。
彼の顔の表情ひとつで、見えない背景や巨大な舞台装置が見えてくる。闇や光や樹木や城があらわれる。
ロドリーゴが苦しみに耐えて歌う箇所では演技がすごすぎるので、本当に本人の具合が悪くて、
このまま倒れて担架で運ばれてしまうのではと、本気で心配した。
ヌッチの18番である「リゴレット」の「悪魔め、鬼め」も実に最高で、これはラストに歌われた。
愛娘がバカ息子侯爵に凌辱された上、敵のもとにいることを知ったリゴレットが
家臣たちをののしる激情的な歌だが、最後は
「この老いぼれに娘を返してくだされ。わたしには娘がすべて。お慈悲を…」と
弱弱しく嘆願する。有名なシーンだ。
熾烈な感情の昂ぶりで始まり、呪詛の言葉で闇を這いずり、やがて涙ながらに慈悲を乞うという
ひとつらなりの感情が、嵐のように表わされる。これが本当に見事だ。
ヴェルディ・バリトンは、精神的な極限状態にまで高まった怒りや憎しみを爆発的に歌う場面が多いが
ヌッチのバリトンは、そのおそろしい表面を支えているものが、どうしようもないほど豊かな情愛であることを伝えてくる。
こんな愛情深い歌を、聴いたことはなかった。
そこで、ヴェルディの偉大さも同時に理解できた。
「イタリアオペラはヴェルディ(プッチーニなんかじゃなて)」と仰る諸先輩方の声も
こういうことだったのか、と理解した。(それでもプッチーニは大好きですが)
愛に溢れた男ヌッチは、素晴らしい笑顔でカーテンコールに答え、なんと四曲もアンコールを歌った。
それもアンコールピースというより、本編に入れてもおかしくないような立派な曲を三曲歌い、最後が「オーソレ・ミオ」だったのだ。
会場はもうとんでもないことになった。みんな興奮して、涙にまみれている。
男に生まれて、こんないい「愛」をバラ撒いて生きているヌッチは、なんという幸福な人だろう。
性差別をするわけではないが、男でここまで「愛せる」能力を持っている人は本当に少ない。
コントロールの聴いた何種類もの声と、喜怒哀楽のみっちり詰まった歌に、脳天が真っ赤になりっ放しだったが
余韻に残ったのは、ホール全体を埋め尽くしたヌッチの「愛」だったのだ。