能登島にある須曽蝦夷古墳。7世紀中ごろのもので被葬者は解っていない。横穴式の方墳ですが、高句麗式の構造ということで、日本では珍しい古墳です。連休中日、朝の8時半頃に行ったのだが、他に人は無し。
七尾湾が見渡せる高台にある。7世紀中ごろということは、「 白村江の戦い」があった時代。半島も、新羅、百済、高句麗の三つ巴の争いに唐、大和も加わり波乱の時代。高句麗から亡命してきた豪族の墓ですかね。”能登なのに、何で蝦夷?”という思いで説明書きを見ると、658年に越の国主 阿倍比羅夫が180艘の水軍で蝦夷を討つと書いてある。阿倍比羅夫は、あの時代に船で北海道まで攻め入ったらしい。668年に唐・新羅連合軍に高句麗が攻め滅ぼされており、今は長閑な観光地という感じの能登でも、当時はいろいろな民族の鬩ぎ合いがあったのでしょう。(因みに、大和、倭好き好きな自分でも、蝦夷という表現は嫌いですがね。)
そうそう、数日前に某上場企業の会長さんが、「T県民は閉鎖的」と発言して話題を振りまいておられましたが、まあ、正直、同意ですな(笑)。この話、職場の何人かに軽く振ったけども、同意が得られない雰囲気だったので、そ~っと引込めました。他の会社は知りませんが、少なくともウチの会社で”面白いな”と感じる人は皆、辞めていったな~。
裏日本と呼ばれ、閉鎖的とされる北陸や日本海側。古墳時代はバリバリの表日本。いろいろな民族、文化が、出雲や丹後、若狭、越辺りから出入りし、閉鎖的な人はやっていけなかったんだろうなと思う。この時代の日本海側の歴史を調べるだけでも、興味深い話がいっぱいあると思う。
話がそれた。別の角度から。石室が二つあります。
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