なんてタイトルにはしてみたけれど、系統化された持論・自説があるものでもなく、雑感の羅列でしかないのだが。古代史好きが長じて、興味の対象は壬申の乱から崇神天皇期、更には縄文期へとどんどん太古へ向かっております。最近、興味あるのが瀬織津姫。ここ数年、スピ系のおねえさん方に秘かに人気あり。瀬織津姫絡みでネット等で目にする人は大概がスピ臭がして読む気がしないのだが、菊池展明氏の「エミシの国の女神」という本は、日本各地に残る古史古伝、神社の御由緒について深く読み解いてある良書であり、ただ今、真剣に読んでいる。瀬織津姫を祀った神社と言えば、金沢の瀬織津姫神社くらいしか思いつかなかったのだが、富山にもあるんですね。上記の本に記載されていたのが、瀧社という小さい村社。調べてみると、その周辺には気になるところがいっぱい。雄山神社・前立社壇の周辺となる。
まずは、立山多賀宮。こんな素晴らしい神社があったんですね。全然知らなかった。
立山開山については、景行天皇末裔佐伯有頼の白鷹伝説が一般的ですが、その息子の有種が、岩峅寺に居を構え立山大権現と滋賀の多賀の大神を奉斎して建立したのが立山多賀宮とのこと。多賀宮と聞いて、ぱっと頭に浮かぶのは神宮・外宮の多賀宮だよね。多賀という言葉は、弥生期以前にあったとされる”日高見国”又は、”高見をする”という所から来ているという説もある。縄文~弥生期の人口分布、稲作伝来前の食糧事情等から考えると”日高見国”も強ちトンデモでもない。この立山多賀宮では縄文の女神:瀬織津姫を祀っていたという説もある。
何はともあれ、とてもいい感じの神社でした。佐伯有頼は前立社壇の地から立山を目指したこと、晩年は芦峅寺で過ごしたことより、前立社壇と中宮・祈願殿が立山信仰の地というか雄山神社となっていますが、立山多賀宮、あなどれません。雄山神社のご祭神は、伊弉諾命、天手力男命とされていますが、これは当然後付けでしょう。
さて、次に向かったのが常西水神社。常西用水が集まる所にある小さいな神社。
ほんと名も無き小さい神社なんだけど、自分が何の知識も無い子供の頃から、ここを通る時、”偉い神様が祀ってあるんだろうな”って漠然と思っていた。妙な清浄感がある。小さいけど社殿は妙に豪勢だし、社殿後部は、千木が外削ぎ、鰹木が七本の神宮・外宮仕様。
まあ、只者では無い神様が祀られているということ。次に向かったのが、本来の目的であった滝社。
小さな村社です。御由緒を見ると祭神は、瀬織津姫、天照大神、豊受大神とあり、神宮の内宮・外宮の神様よりも先に瀬織津姫が一番最初に記載されています。
小さいながらも、立派な彫刻が成されております。良い神社でしたよ。瀬織津姫は大祓詞では川の瀬に立つ女神で、罪、穢れを川に流すとされている。川とか瀧の神で、太古には、この場所であれば常願寺川、若しくは称名滝を奉ったイメージ?
瀬織津姫は、禊ぎ・祓いの神説、神宮・内宮の荒祭宮では天照大神の荒魂として祀られている説、禍津日神(悪神)説、いろいろありますが、昨今では縄文期の夫婦神説をよく目にします。縄文期は夫婦一対の神を祀る信仰であった様です。
今回は前立社壇周辺を詣でたのですが、中宮・祈願殿については、須佐之男命と新川姫命を祀っていた説もあります。
たぶん、殆どの人は気にも留めないのでしょうが、釖嶽社(須佐之男命)、治国社(新川姫命)という小さな摂社(末社?)があります。
新川姫というのは、たぶん常願寺川の神様でしょう。佐伯有頼は実在した人物ではあるのでしょうが、立山信仰は神仏混淆の地でもあり、立山、常願寺川を神とした時代からいろいろ混ぜ混ぜなんでしょう。佐伯氏が立山信仰に大きく関与したことに間違いは無く、また、佐伯眞魚(空海)と同族説もあるしね。母方が芦峅寺の佐伯な俺は、ちょっとうれしい。
瀬織津姫のだんな様は天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)。ながっ!まあ、ニギハヤヒさんは古代史好きには大人気であります。大物主命はニギハヤヒさんなのか?何度大神神社を参拝してもわかりません。(笑) ただ、大神神社ご祭神の正式名が倭大物主櫛甕魂命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)なんで、たぶん俺の妄想はそれほど外れていないと思う。大神神社も檜原神社も大和神社も神宮も一緒。そこそこの神社好きになってくると、”国津神系の神社と天津神系の神社、両方参拝していいのか?”みたいな想いが沸いて来る。新日本プロレスのTシャツを着て全日の試合会場に来ている感覚?(昔、地方会場でそういうダッセー人をよく見かけたよね。ヨレヨレの他団体Tシャツを着たおっさんとか。笑) 同じ日本の神様だからいいみたいなまとめ方をしている人もいるが、そういうことじゃなくて、歴史を辿っていくと一緒でいいことの意味が解ってはくる。”うちはと千手が争った結果、和合して木の葉の里が出来ました”的な流れはあったにしても、現実の古代史は全力を尽くして戦ったみたいなもんじゃなくて、裏切って騙してっていう汚い勝ち方だったと想像する。そういう後ろめたさ的な御霊信仰と縄文からの信仰がごちゃまぜになった所に持統ー藤原不比等らの改ざんと強制が加わった結果が、平安期以降の地方神社を造ったものと考えます。ヨレヨレのパンクラスTシャツと新日帽で、全日会場に来ている状態に近いのかもしれませんね。