≪明快な米国の「刺激金」≫
昨年の春から夏にかけて、アメリカ国民はひとりの例外もなく政府発行の「刺激金」という名の小切手を受け取った。金額はひとりあたり300ドル。事情によっては倍額の600ドルということもあるが、とにかく全員に小切手がとどいたのである。所得にも年齢にも関係はない。とにかくこれを使ってすこしでも景気を刺激しましょう、というのがその趣旨だから単純明快である。
小切手は社会保障番号のケタ数の順序で整然と郵便でとどいた。ひとり300ドル。いまの為替レートでいえば3万円たらずだが、それでもちょっとした買い物ができる。小旅行もできる。それがどの程度、アメリカ経済に影響したかは知らない。しかし、政府発行の小切手が郵送されてくれば、それだけでかなりの心理的衝撃になったことはたしかだ。
基礎になっているのが社会保障番号だから、年収数億円の富豪にも、裏町に暮らす失業者にも平等に配られた。ブッシュ前大統領だって、ビル・ゲイツ氏だって受け取ったはずである。
このことを日本の報道機関はほとんどとりあげなかったが、いま論議沸騰の「定額給付金」というのも、もともとはアメリカの「刺激金」とおなじ性質のものであったのではないか。さいしょからその趣旨をはっきりさせて、おカネの流れを「刺激」するためのものであることを周知徹底しておけばよかった。ほんのちょっとだが、これをみんなが使えば社会的な血行不良がよくなるだろう、という金融政策の一部なのである。
≪辞退論議のばかばかしさ≫
はっきりいって、これはもともと「バラまき」が趣旨なのである。バラまけば、ひとはよろこんで使う。「バラまき」おおいに結構。ひとり1万2000円。バラまきにはそれなりの経済効果がある。どう使おうと自由である。べつだん非難するにはあたるまい。貯金にまわるだけだ、という意見もあるが貯金すればそれだけ銀行の資金がふえるのだから、これまたまわりまわって、わずかながら経済貢献になる。
おもしろいことに、アメリカでは高額所得者は「辞退」すべきだ、といったようなバカげた議論はなかった。閣僚や要職にあるひとが、オレはもらわないよ、などとはおっしゃらなかった。なぜなら、余裕のあるひとは受け取った300ドルにしかるべき上積みをしてそのまま慈善団体などに寄付したからである。
「寄付」というのはじぶんの手もとにあるいささかのおカネを自発的に提供して社会的な再配分をする、ということである。そうすることによっておカネはちゃんと良識にしたがってうごくのである。そういう伝統がアメリカにはある。だからだれもおどろかなかった。
日本にだって互助の精神はある。じっさい、他のおおくのひとびとと同様に、わたしのような人間だって赤十字、ユニセフ、点字図書館などいくつもの団体や基金にわが身相応の寄付を何十年もつづけてきている。貧者の一灯。たいしたことではないが、いくらかは世の中の役に立っていると信じているからである。
≪社会貢献に思い至らず≫
その点で「定額給付金」は、まず名前がよくない。「給付」などというからおカミがくださるおカネという権威主義的なイメージになってしまう。その結果「もらう」「もらわない」といった乞食のような下品なことばが国会でもやりとりされて、だれもそれを不思議におもわない。あの応酬をきいていて、わたしは情けなくなった。
ひとりでもいい、もしも「寄付」ということばを口にしてくれていたら、どれだけ世の中が明るくなったことであろうか。
せっかく既存の団体や基金のほか、全国いたるところにNPO法人という団体ができて、世のため、人のため、さまざまな事業をすすめておられるが、ほとんど例外なしに資金不足で困っている。たとえ5000円、3000円であっても「寄付」をもとめている。
「要らない」とか「辞退する」などとおっしゃらずに、しかるべき医療福祉、学術文化振興、その他もろもろの財団や団体に「寄付」なさることこそ為政者、指導者の姿勢というべきなのではなかったのか。
それだけ単純なことが、ゴタゴタになってしまった。日本版の「刺激金」の説明と広報はまことに稚拙だったのである。すくなくとも、それによってうまれるはずのわずかな景気対策の効果は半減したとみるべきではないか、とわたしはおもっている。政治献金の「寄付」を「うける」だけでなく、タマには「寄付する」心をみせていただきたかった。(社会学者・加藤秀俊(かとう ひでとし))
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