「風の見える丘」 スタジオ・あいづ暮らし!

HIRO-Music 地域創造文化・音楽コミュニケーション

今は亡き、浅川マキ・・・回想

2012年03月25日 | インポート
浅川マキ in 会津若松
ギターに憂歌団の内田勘太郎&めんたんぴんギタリスト&ピアニスト
ベースは初代ネイティブ・サンのベーシスト、亡き川端民生さんを従えて・・・
僕と友人二人で、郡山駅まで車2台で迎えに行くことになった
憧れのマキさん、会えると思うと緊張して胸がドキドキ・・・
黒い衣装でそれらしい人が、その集団がだんだん大きく・・・近づいてきた
「マキさん?初めまして・・・お迎えに参りました」
会ったその瞬間、僕の青春もはっぴいえんど大人の人に出会った感じでした
「会津若松って、遠いの?」って、僕らの車を見たマキさん
「1時間半くらいでしょうか・・・」
「あっそう、じゃ私たち(女マネージャーと)タクシーで行くわ!」
会場に着いたら、既にツアーPAの人たちが舞台の仕込みに入っていた
「リハまで時間あるわねッ!先に食事をしたいんだけど・・・美味しい処ある?教えて」
「はい、案内しましょうか・・・」
「じゃあ~、一緒に食事しましょ・・・みんな行くわよッ!」
なんか優しく、懐の深い女親分って感じ・・・会話も温かさで包み込まれていた
今回のメンバーをはじめ、会津に来たミュージシャン達(加川良・南正人・・・・等)が、
マキさん、マキさんと慕っていた理由が、わかった気がした
更に驚き・・・
Vo.音チェックの時、
「なんかヘン!きのうと音が違うけど・・・何かした・・・?」
「昨日のマイクですけど・・・う~ん・・・あっ!マイクのヘッドグリルを交換しました」と、オペレーター
「きのうのに戻して頂戴!!」ッてな具合・・・凄い耳してるんだと、ビックリ
音へのこだわりと、プロ演奏家の厳しさを垣間見た気がした
そして、リハーサル開始!
厚かましくも、リクエストした2曲「ブルー・スピリット・ブルース」「裏窓」を演奏してくれた
会場には、僕たちと関係者のみ・・・なんと贅沢な空間
なんと、本番の曲リストにこの2曲は入っていなかったのだ・・・
この頃は、もう既に本格的Jazzに進化していた(もともとはJazzシンガーなのかも?)
今は亡き、浅川マキさんの人間性を今でも尊敬しています

永遠の絆・・・

2012年03月24日 | インポート
原曲はアメリカン・カントリーで、ニッティ・グリッティ・ダート・バンドで有名です
その朝という曲で・・・加川 良が歌っていた
最初に聴いたのが、加川さんの曲で・・・会津の演奏会での出会いでした
リハーサルにこの曲から始まった・・・その時僕は音響担当で、
ギターのイントロに
寒いある朝 窓辺で立っていたら かあちゃん連れて行く 天国の車が やってきた
・・・と、詩が・・・この時、背筋に鳥肌が立ったことを思い出す
この曲をミキシング・オペレートしながら、最後まで聴いていたら
母子家庭で育った僕が、母を亡くした時の事が目に浮かび・・・涙してしまったのです
以来、この曲・・・永遠の絆・・・大切な1曲になりました



武蔵野タンポポ団の伝説

2012年03月23日 | インポート
21,2の頃、当時では県内で唯一の本格的ブルーグラスを結成
メンバーは東京出身ベンジョーの名手、北会津のりんごや百姓アコギ、フラマン初心者の僕と、
男3人編成・・・レパートリーは勿論、フォギーマウンテンブレークダウン・・・etc
そして、最大のヒット曲・・・国民の歌・原曲は労働Song
アレンジにアレンジを加え、いつの間にかオリジナルに・・・
その名も魔誕樹合唱団・・・
時々、喫茶店マスターのウッドベースが+1で加わり、それは緊張感あるグループでした・・・
珍しさも手伝ってか?いろんな演奏会にゲストで参加・・・
自分でも怖いくらいにブンチャ、ブンチャにハマッテいったのです
そのころ、70年代のロック・ポップス・シーンをカラフルに塗り替えた歴史的レーベル・・・ベルウッド
中でも、時代の才能を結集したバンド・・・武蔵野タンポポ団
集まったメンバーは個性の固まりで、一癖も二癖もある5人を中心に・・・
適時参加者がいて、演奏会当日に集まった人が、メンバーという
フォークシーンで異彩を放った自由かつ奔放なフォーク集団
吉祥寺を拠点としたタンポポ団の存在が気になっていたアルバム
・・・武蔵野タンポポ団の伝説・・・僕の人生にかなりの影響を与えている
メンバーの一人、シバは当時売れない漫画家だった
誇り高き極貧生活のあまり、土手に生えたタンポポを食べて空腹を紛らわしていたらしい
それがタンポポ団、名前の由来という説である
なんとも・・・ヒトを喰った、いやタンポポを喰った話だと・・・
僕が初めてシバを知ったのは、漫画雑誌ガロであった
・・・以後、ブルースに興味を持つ


その昔、バンドマンだった

2012年03月22日 | インポート
二十歳頃、R&BもどきE・Bassをいじっていた僕は・・・
会津で有名な高級ナイトクラブからの誘いで、バンドマンになった
メンバーは地元・会津若松を代表するJazz Man 面
当時はカラオケなど無く、バンドの生オケ時代なのである
クラブのキレイなお姉さん達のダンス曲は・・・ラテン・Jazz等・・
そんな世界に飛び込んだ・・・そして、4ビートに出会う
と、同時にプロの厳しさをもろに体験する
プロのショウダンサー公演の時、
開始2時間前・・12ページに折りたたんであるパート楽譜をメンバーそれぞれに渡されたのです
これ、お願いね・・・本番ヨロシク
楽譜を読めない・・・僕は焦った
唯一、頼れたのはバンマスでドラムのネモちゃんだった
バンマスを中心に、楽譜を通しで読み合わせ・・・それぞれに楽器のカラ弾き・・・
そしてワン・ステージの本番、おどおどした僕の緊張感で、リズムが弾まない
半裸のショウダンサー・・・なんかノリが無いわね・・・と一言
ステージの合間にバンドミーティング・・・プライド高きバンマスからの一言
音符にこだわるな・・・ドラムは譜面どおりに小節を刻んでいくから
小節のあたまさえしっかり合っていればイイから、あとはノリで・・・
ツー・ステージ終了後、ショウダンサーの肌には官能的汗がにじんで・・・
ステージを無事終えた充実感からか・・楽屋の明るい空気色を記憶している
それからというもの、
16ビートを弾ければプロになれると思い込み、日夜練習に励んだのであります
あとは、音楽への情熱とセンスさえ備われば・・・
そんな時代でした





僕の音楽史・雑考

2012年03月21日 | インポート
大瀧詠一の巻
音楽づくりの哲学を教えてくれた人物
型にはめず、常に柔軟な発想でとりかかる
それは、レコーディング・ポリシーにも理想の形がない
つまり、理想的な状態というモノを定型化しないことのようだ
その時々で曲によったり、その時の音楽への考え方も変わるのだから・・・
大瀧詠一と多羅尾伴内の関係では
全部が全部ひとりでやっているんじゃないと云うことで、名前を使い分けている
実演者と発想者、自分がプレイ不可能なことを思いついてもできない
自分がやっているんじゃないと、分けて考えているようだ
その時の発想とシャレが・・・アルバム「大瀧詠一」で味わえます