幻の姫谷焼

幻の姫谷焼を現代に再生

姫谷焼が短期間で廃窯

2019-03-01 23:03:56 | 日記
姫谷焼は窯が稼動していた時期は、1595年から1685年ぐらいだと思う。
それ以後、姫谷焼が再興することはなかった。
最大の理由は良質な陶石がなかったことによると思う。
陶石が枯渇したのではない。
有田に比べて、陶石の質が悪い。
有田の良質の陶石と比べてみると悪すぎる。
これでは姫谷焼に勝ち目がない。

姫谷焼の謎を解く鍵

2019-03-01 22:37:43 | 日記
姫谷焼については、考古学者らが研究したが、真実はわからない。
姫谷焼を解く鍵は、文献や史料ではわからない。
姫谷焼には文献や史料はほとんどない。
ないものを探してもない。
材料になると、考古学者らにはわからない。
実際に制作者で、姫谷付近の地質に詳しくないとわからない。
姫谷付近はほとんど赤土である。
ところが、ところどころで白土がある。
丹念に調べて見ると、白磁になる石がある。
見ただけではわからない。焼いてみるしか方法がない。
窯跡付近にはどんなに探してもなかった。
姫谷焼を材料から推測すると色々なことがわかってきた。

姫谷焼色絵図柄

2019-03-01 22:17:31 | 日記
姫谷焼の色絵の図柄から推測すると、どんな人からの依頼かわかってくる。
形で表すのは難しいが、一番推測するのは模様である。
図柄から、最初に感じたことは、お寺のデザインである。
姫谷焼のデザインは京都の西本願寺のデザインとそっくりである。
何度も西本願寺に行っていて、強く感じる。
窯跡の土地の所有は、江戸時代初期までは正福寺である。
正福寺の本山は奇遇にも西本願寺である。
案外、直感は当たるものである。

姫谷焼色絵磁器

2019-03-01 20:52:07 | 日記
姫谷焼と言えば、色絵磁器になるがいつ頃、だれが作ったのかわからない。
陶工が作ったのは間違いないが、だれが姫谷焼の色絵磁器を支援したのか、文献も史料もない。姫谷焼の磁器の陶石から推測すると、藩ではない。
姫谷付近には白磁になる陶石はない。
一里以上離れた場所にはある。
藩なら、陶石の近くに窯を築くと思う。
藩でないなら、誰が支援したのが、この窯跡の土地は正福寺である。
正福寺が支援したのは間違いない。
1650年以降に色絵磁器を始めたとみて間違いないだろう。

姫谷焼の始まり

2019-03-01 08:53:05 | 日記
姫谷焼の始まりはいつ頃だろうか。
文献もなければ、史料もない。
あるのは、陶片のみ。
陶片から推測するしかない。
姫谷焼の陶片の中に、1600年前後の陶片がある。
陶片を作った陶工は朝鮮人と思う。
文禄 慶長の役の時に、神辺城主毛利元康が朝鮮人の陶工を連れて帰ったのが、姫谷焼の始まりでしょう。