贔屓のひきたおし

歌舞伎や他の芝居を見て感じた感想を綴っていきます。
お話の中心はたぶん海老蔵さん。とても好きなので・・・。

「信長」 in 新橋演舞場 ②

2006-02-21 22:34:10 | 海老さまLive
女優陣は、お濃の純名りささんとお市の小田茜さん。
初日に観たときは、お濃とお市のキャラクターがとても似て見えた。
両方とも気が強く男勝りで、せりふもキンキン叫んでばかり。

それがやがてお濃のキャラクターが変わってきた。
マムシの娘だから気が強いのは変わらないが、
喜怒哀楽がはっきりして、信長への愛情がより深く表現されるようになった。
桶狭間の戦いの前に、信長の耳掃除をしてやるお濃。(ちょっと妬ける・・・・。)
濃姫の「うつけのことはうつけにしか分からない」という言葉には、
信長への理解と愛情と、二人の結びつきへの自信が伺え、
信長自身も理解し受け入れてもらえる喜びを感じているに違いないと思える良い場面である。

それが一転、二幕目では、子を流した哀しさ、愛する人の役に立てない辛さ、
役立たずの女として排除されてしまうのではないかという不安。
それらが単にせりふの言葉によってではなく、
生きている女の感情として観る側に伝わってきた。

信長が大きくなるにつれ、自分から離れていってしまう寂しさ、辛さ。
出会ってからずっと、同じものを夢見て歩んできたのに、
今の夫はもっと大きなもの、もっと遠いものを追っている。
そこまで望まなくてもいいではないか。
今ある幸せを大切にすればいいではないか。
何かに取り憑かれたような夫の人生の走り方にはもう着いていけない。
遠く隔たってしまったことを嘆く一方で、
取り憑かれたかのような夫をその呪縛から救い出したいと願う。
そういうお濃だった。

野心が大きすぎるがゆえに現実との乖離に苦しむ信長。
そんな信長を救ってほしいとお濃は光秀にすがる。
そのすぐあとに本能寺の場面になる。
これにはすこし違和感を感じた。
野心の呪縛から救い出す=信長を討つこと、と光秀に暗示を掛け、
それがそのまま現実になってしまったような印象を受けるのだ。
久しぶりに京に上ってきたというお濃が本能寺に信長を訪ね、
「今日は見張りの兵も少ない様子だけど、大丈夫でしょうか」と
不安げに信長に言っている矢先に、夜討ちの知らせ。
これもお濃が手引きしたのかと思うような展開だ。
わざわざ会いに来た理由を「死ぬ時はお側で」というのも、
光秀の今日の謀反を知っていたかのようで、少し納得が行かない所である。


お市は、残念ながら何度か観てもお濃のようにお役がふくらんで来なかった。
舞台に出ている時以外のお市の暮らしぶりや人柄が想像できないのだ。
せりふの一つ一つに感情を込めてはいるけれど、
それを内側から支えるお市の人間像が描けていない。
それぞれの場面でのせりふがブツブツで、
お市という人物が何を考えて生きているのか、
どういう人物なのか、最後までまったく浮かび上がってこなかった。
強いて言えば、「ブラザーコンプレックスで世間知らずのわがまま娘」と言ったところか。
せっかく戦国時代有数のヒロインなのに、そんな人物像でいいのだろうか?

わがまま娘の極致は、信長が浅井長政を討ち、お市と娘三人が秀吉にやっとのことで助け出された後のこと。
「バカ! サル(秀吉のこと)が早く助けに来ないから、私まで焼かれるところだった。」 せりふはそれでもいい。
でもせりふの裏にもっと込めるべき感情があるのではないか。
焼かれ落ちる城の梁の間をくぐってやっとことで逃げてきたのだろうに、そんな大変さが全くない。
「本当は感謝しているのに、負けず嫌いな性格のためにわざと強がっている」とか、
「助かったのはうれしいが、選りによって大嫌いなサルに助けられたのはいらだたしい」とか、
「娘3人は助かったけど、息子一人はどうなったか気がかりだ」とか、
なにかお市の内側にある感情をもう少し表現してもらいたかった。
声と姿はいい女優さんなのに残念である。